幕間――草原の兄妹



緑萌える草原が、白の装いの仕度を始める秋となった。
淋しい銀灰の野を、ひとりの騎馬の民が、ローハン王エオメルのもとへ馳せきたる。
「何をしでかしたのだ」
王じきじきに出迎えての第一声は、それであった。
馬上の美しき人は、気を悪くした様子もなく笑う。まさしく鈴振る笑い声。ヌメノールの恩寵を受けし人の、妻となってその姿は、ゆったりとした威厳を備えてなお、しなやかに敏捷であった。
「ご安心くださって、お兄さま。わたくしは別に、殿と喧嘩してこの地へ逃げ帰ってきたわけでは、ございませんのよ」
身軽にあぶみを踏んで飛び込んでくる、ドレスに旅装のコートの妹を、兄は腕を一杯に広げて抱きとめ、抱きしめて抱き下ろした。背後を振り返り、供の者たちをもてなすよう命じてから妹の顔を覗き込む。
「何とまぁいきなりの、そして嬉しい到来か、エオウィン、わが妹姫! だが無茶はするものではない、こんな少数の伴で」
「ええ、そうですわね、北に不審な動きがあると、わたくしの殿はおっしゃいました。現に、あやしの人影をここに来る途中でよく見かけましたもの」
ふたりつれだって、館のうちへと入りながら、快活な妹はドレスの裾をふうわりとからげ、乗馬用のブーツで地を蹴り、泥を落としている。燕のような身ごなしはひさしぶりで眼に嬉しく、エオメルは微笑した。
「お義姉さまは?」
「領内の婦人を集めて刺繍を教えている。マークには、我妻の故地の如き優雅な手わざは伝わっておらぬのでな。じき、挨拶に来るだろう」
「わたくしも習いたいわ、ヘタをすると、わたくしより殿の方が刺繍がお上手、ということになりそうですもの!」
「ああ、ファラミアはそういう細かな作業は確かに得意そうだ!」
ふたりで声を立てて笑ったのち、エオウィンは不意に真面目な顔になる。
「でも、お義姉様がいらっしゃらないうちに、わたくしの殿の伝言を、ローハン王エオメル陛下にお伝えしなければなりません。わたくし今日は、イシリアンの使者としてうかがいましたから」
「ああ、」
ゴンドール執政の、白の木の紋章が、エオウィンの旅装のコートに縫い取りされていることに、エオメルは気づいていた。
「近日中に、イシリアンをハラドの残党が襲うであろうとの話、お聞きになられて?」
「いや、だが我がエドラスも、残党と思しき者がひそかに往来しているとか。わたしの義弟は、マークの力を必要としているのか?」
「いいえ。我が殿ファラミア公は、残党が総力を集め、南と北で同時に騒ぎを起こすであろうと予測を立てていらっしゃるのです」
「イシリアンと、……我がローハン?」
「ええ、ですから、エオメル陛下には、どうか南へは参られませぬようにと」
エオメルは黙って眉を寄せた。心楽しまぬ様子をその中に見て、エオウィンはかすかに口元をほころばせた。
剽悍なこの兄の心の所在が、エオウィンには手に取るように分かる。彼はエレスサール王とともに戦いたいのだ。
「あのね、お兄さま」
兄の部屋へと招かれながら、妹は更に伸び上がって耳元に唇を寄せる。幼い頃によくやった、内緒話の格好そのままに。
「何だ?」
兄は少し身を屈めた。
「わたくしの殿経由で、エレスサール陛下から、緑葉の君のことでご伝言を承っておりますの」
「……レゴラス殿? 今父上のもとに軟禁されておられるとか?」
「そのことでね、――」
エオウィンの声はエオメルの耳に潜った。
頷きながら聞いていたエオメルが、しばし難しい顔になり、ややあって、愁眉を開いて口元をほころばせる。
「なるほど?」
「まぁ、お兄さま、わたくしにはよくわかりませんでした。なぜ王はそんな、戦端を――」
「シ、」
人差し指をたててみせ、ともに部屋へと滑り込む。
扉を閉めてからエオメルは言った。
「わかるとも。きっとファラミアもわかっている。まぁ、少し物事を難しく考えすぎてはいるだろうがな、彼の常で。ああ、今日はゆっくり羽根を休め、女同士楽しくおしゃべりしていると良い。どうせしばらくは帰れない」
「お兄さま!?」
しばらくは帰れない、とはどういったことか。まさか北の森の王を真似て、エオウィンを軟禁でもするつもりか。
エオメルは肩をすくめ、さらりと言葉を継ぐ。
「エレスサール王はイシリアンを見殺しにするつもりだ。ファラミアは使者の役目にかこつけて、おまえをこの兄に預けに寄越したのさ」
「なんですって!?」
「ということで、わたしは旅に出る」
騎馬の民らしくてきぱきと、身の回りの品を最小限にまとめはじめたエオメルに、もはや、言葉もなくエオウィンは立ち尽くす。
下積みの長い国王陛下は、あっというまに荷物をまとめ終え、担ぐと精悍な目元に笑みをにじませて妹を見やった。
「まだわからんか?
 その伝言の内実はこうさ。『エオメルよ、どうか君が、わたしの緑葉をひっかかえて馳せ戻り、賭けの卓上に乗せられたイシリアンを救ってくれ』と」
「わかりませんとも! 何もお兄さまが行かずともよろしいではございませんか」
「エーオーウィン!」
大剣を腰に佩き、部屋を出て行こうとしてぴたり、と立ち止まったエオメルは、振り返り様にエオウィンの鼻先に指をつきつけた。
「もし今、おまえがファラミアと喧嘩をしてイシリアンを飛び出してきたのだとして、ファラミアが、慌てて迎えに来ることもせず、そこらのつまらん男を代理に寄越してくる、そんな婿だったらな。
わたしは決して、おまえをイシリアンに帰さず軟禁してやるぞ」
「……お兄さま」
「嫁を出した男でないと、わからんこともあるのさ。わたしにはかのエルフ王の気持ちは読みやすいがね。
 彼は別にエレスサール王の器量を測っているわけじゃない。エレスサール王にとっての、息子の価値が知りたいのさ」
馬の仕度を! と大音声で呼ばわり、エオメルは今度こそ部屋を飛び出そうとする。
「お待ちになって、お兄さま」
その腕にすがるエオウィンを振り返り、飛び込んできたやわらかな重みに眼を丸くする。
「お兄さまは、たとえ上古のエルフがいまだこの地に留まっていようと、間違いなく、この中つ国で三番目に、素敵な、素敵な殿方でございます!」
一番目はファラミア、二番目はエレスサールか。微妙に悔しいものだ、そう思いながらも、飛びついてくる妹を抱きしめてやる甘い兄の頬は、自然とゆるむのであった。