「弓兵を連れてくるべきであったな」
幾匹目か思い出すこともできぬゴブリンを斬り捨て、スランドゥイルは乱れた金髪をかきあげた。
右にふた房、左にふた房、細いきっちりとした三つ編みが下がっている。髪に呪力が宿ると信じられているエルフにとって、戦いに出る前に髪を編むという行為は、呪的な防壁を張るに等しいものであった。戦いの時だけではない。おおよそどの族においても、公式の場で髪を編んでいるエルフは、成人している証である。
開けた平野で行われた合戦は、エルフと人間とドワーフの劣勢であった。王の耳に、数多の同胞の、断末魔の絶叫が聞こえてくる。王は何も言わず、だが、振り向きざまに跳ねたオークの首は恐ろしいほどの勢いで飛んだ。
遠く、エレギオンのエルフが鍛えた長剣。構え直して側近に声をかける。
「全軍を集結させろ。レゴラスも呼び戻せ。呑気に矢を探させておる暇はなさそうだ」
「口惜しき限りですな」
「しかたあるまい。……白の会議も、難儀な時を選んでくれるわ」
南闇の森に巣食う悪の拠点「ドル・グルドゥア」を、一気に殲滅させることを狙って開かれた「白の会議」。5人の賢人に、エルロンド、ガラドリエルを加えたその面子に、スランドゥイルは加わっていない。「先方とて、こんな偏屈は必要あるまいよ」と、彼はしれっと言い捨てて湖の街に赴いたのだ。
それでも、北闇の森にオークどもが逃げ込んでは困るし、万が一、白の会議勢が劣勢になりでもすれば寝覚めが悪い。そのため、スランドゥイルは虎の子の弓兵を山脈付近に配置して防衛線とし、そして、いくさなど起こりそうもない湖の街へと、槍兵の一軍のみを率いて出かけたのだった。
まさかその結果、五軍入り乱れてのこんな激烈ないくさになるとは。
『でも、少なくとも、これだけの軍勢がこちらに回って来ているということは、白の会議は楽にことが運べるんじゃないかな。湖の街が襲われる心配もなさそうですし』
能天気にもそう言って笑った息子の顔を、洗浄の混乱の中で探す。虎の子といえばあれほどの虎の子もいない。こんなばかげた戦で死なせるわけにはゆかないのだ。
ぎゃっ、という悲鳴に視線を向ければまたひとり、ゴブリンに脳天を砕かれて絶命したエルフの屍が見える。
「……おのれ、昔はエルフであった癖に、てこずらせおって……!」
「王! 全軍集まる前に王が突撃したら、元も子もありません!」
「わかっておる! とっとと呼び寄せろ!」
怒りにぎらぎらと、星宿る蒼の瞳を煮えたぎらせながらスランドゥイルは、長剣を握りしめて山の裾、全軍を見下ろして仁王立ちとなる。
多勢に無勢とわかっている。
とっとと、人間とドワーフなど放っておいて撤退すれば良いのだ。エルフの進軍の速度に追いつけるゴブリンなど、いはしないのだから。
……だが、彼の中のもっとも猛々しく、誇り高いものがそれを許さない。
「父上!」
音も立てず、傍らに秘蔵っ子が飛び込んでくる。羽根の生えたかの如きかろやかさよ、と、スランドゥイルは場違いな感想を抱いてわずかに苦笑した。
「使え。父には無用のものぞ」
自分の肩にかかっていた矢筒を、中身を見もせず放り投げる。
「ありがとうございます!」
「離れるな。近矢で射よ」
「わかってます、無事、父上をお護りしますから」
「……あほう」
護ってほしくて言ったのではない。むしろその逆だ。このいくさは負ける。その時に手近に置いていないと護れない。
だがレゴラスは、己の言葉に何の疑問も抱くことなく、ふたつめの矢筒を肩に引っかけてまさしく、矢継早に百発百中のその矢を射た。スランドゥイルの斜め後ろで。
一瞬、違和感を感じてスランドゥイルが眉を寄せる。
側近が周囲を固め、一時、目の前に斬り捨てるものがなくなってはじめて、スランドゥイルは己の違和感の正体を知った。
――こやつ、今、矢の数を数えて背負ったか!?
「おい、――」
振り向いて、はっ、とレゴラスの更に後方を見る。
その目の動きと同時にレゴラスは後ろを振り返り、自分に向かってきりきりと弓を引き絞る一匹のゴブリンに向けて、弓を構え手を背後に伸ばす。
だがその指先に、矢は一本とて存在しない。
「あほう、空だ! 剣を抜け!」
父の叫びにぎくり、と、矢筒に伸びた手が止まった瞬間、残虐な醜い笑みを貼りつけたゴブリンが矢を射放し――


「チッ!」
スランドゥイルはとっさに目の前の細い背中を突き飛ばし、その上にのしかかるように己が矢面の前面に飛び出した。
せいいっぱい顔を背ければその頬を熱と風と痛みがかすめ、髪を強く引っ張られたような一瞬の痛みが襲う。
すかさず頭上を、民の矢が飛び、ゴブリンは串刺しとなってその場にもんどりうった。
「父上!」
「孺子め、大口を叩くなら矢の残り数を確認いたせ!」
「父上、血が!」
うろたえたか、なりふり構わず飛びつこうとするレゴラスを容赦なく蹴り倒し、「かすり傷だ」と怒鳴ってもう一度脚を上げる。
二撃目が来る前に、我に返った彼が素早く立ち上がって飛びすさったのを見て、側近が王を引き留めた。
「王よ、親子喧嘩に突入している場合ではありません!」
「わかりきったことを申すな!」
「ほんとにわかってるんですか!? 脚が明らかに王子狙ってるんですけど!」
「チッ、目ざときことよ。本当にわかっておる。固まれ」
背中合わせに立った王と王子を中心に、集結しつつある軍勢が、なんとか陣形らしきものを組みはじめる。
「見渡す限り敵ですね」
部下のひとりが苦笑したのに続いて、スランドゥイルは歌うようにつぶやいた。
「さて、この地は我の死に場所か?」
「そんなはずないでしょう」
背中から、ぶすっ、とふてくされたような返答。
「ダゴルラドで死ななかった人が、こんなところで死ぬはずがない」
「……その言やよし。言い草は気に食わぬが」
ゆるやかに髪を払った時、片方の三つ編みがなくなっていることに気づく。先ほど矢に引き千切られたらしい。
何となく、どこかに落ちているのではないかと呑気に視線をめぐらせた時、


「鷲たちが来るぞう!」


響き渡る、誰とも知らぬ、だが、どこかで聞いた声。
一斉に天を見上げたエルフの唇から、歓びの歌がほとばしるのを聞きながら、スランドゥイルは長剣を持ち直し、追撃の命令を出すために天高くそれを掲げた。








撤兵の準備を整えていると、音もなく傍らに息子が近寄って来て、スランドゥイルの頬に触れた。
「何だ?」
見下ろせば、眉を寄せた心配げな緑の瞳にかちあった。
「切れています」
「編み髪か?」
「いえ、頬が」
「そんなものは、舐めておけば治る」
面倒くさげに振り払おうとして、息子の気配が更に近づき、頬に濡れた感触がひたり、と当たるのを感じた。
柄にもなく、一瞬、身体の動きが止まる。
「……レゴラス?」
片眉を上げて斜めに見返せば、血を舌で拭ったためだろう、いつもより赤味を増した唇でレゴラスは、ひっそりと笑って言った。
「ご自分では、舐められない場所かと思ったので」
「……ふん」
肩をすくめてふわりとマントを翻し、背を向ける。
背を向けた瞬間、レゴラスが天幕の中に駆け込んだ気配があった。
「……?」
振り返れば、そこらにあった宝石をひとつかみ、無造作に掴んで飛び出してきたところに出くわす。
「何をする!?」
調子が狂っていたせいか、とっさに捕まえそこねたスランドゥイルに、レゴラスは、いたずらっ子の笑顔で爽やかに言いきってみせた。
「わたしが一番ゴブリンを殺したんだから。これ、もらっていきますよ」
「馬鹿者っ――」
「裂け谷に行ってきます!」


見渡せば、隊列からレゴラスの配下が、自然治癒の適わぬ傷に苦しむ兵たちを選んで担架に乗せ、出立の用意を整えている。
エルロンドに隔意のあるスランドゥイルでは、容易に癒しを請いはすまいと、レゴラスは読んで独断専行に踏み切ったのだろう。
見透かされた悔しさが、珍しく、スランドゥイルの秀麗な相貌に朱をのぼらせる。
「覚えておれよ、孺子!」
「努力はしますよ」
そうして速やかに進軍を開始した一隊を、スランドゥイルは見送って舌打ちをひとつしてすませ。
「……エルロンド卿に触れを。峠まで迎えを寄越してやってはもらえぬか、と」
と、天空に躍る一羽の隼に請うてやり、
「まったく」
とため息をついて、乱れかかる右の横髪をうっとうしげに払ったのだった。