覚えているのは、目の覚めるような赤と、頬をくすぐる金の髪。




レゴラスが何かを眺めている。それに気づいて、ギムリはうんと首を傾けて彼を見上げ、そして、その視線の方角を知ろうとした。
ギムリのその仕草に気づいたレゴラスが、「あれをご覧よギムリ」と、はるか彼方を指差してみせる。
草原は見通しが良いとは言え、ギムリにはただのごまつぶにしか見えない。
「私にはエルフの眼はないんだよ、レゴラス旦那」
「わたしだって、ドワーフのその器用な手は持ちあわせていないさ」
ややずれた答えが返ってくることには、すでに慣れてしまったらしく、ギムリはエルフの誉め言葉にひとつお辞儀をしておいて、「で、何が見えるんだね」と辛抱強く問い直した。
「赤ん坊だよ」
「赤ん坊?」
「そうだ。人の子の、小さなあいらしい赤ん坊だよ」
そう言われて、ギムリはもう一度、草原の彼方のごまつぶを見直した。
「……私には、あれは騎馬の影に見えるんだが……母親が抱いているのかい?」
少なくとも、赤ん坊がひとりで立っているわけではあるまい。
「いや」
レゴラスは眼の上に手をかざし、じっと、その輝く瞳を草の海の沖に向けた。
「抱いているのは男性だよ。おそらく父親なのではないかな。綺麗な葦毛の馬に乗った、金の髪のロヒアリムだ。赤ん坊は父親に似たのだろうね。同じ金の髪をして、父親の腕の中ではしゃいでいる。日の光が、親子の髪に当たって輝いているよ」
きっとレゴラスには、赤ん坊の小さな表情までもが見えているのだろう。その瞳の確かさに、改めて驚きながらも、ギムリはじっとレゴラスを見上げた。
「どうしたの、ギムリ旦那」
「いやなに、あんたが赤ん坊の頃もきっと、親子揃った金の髪をしていたのだろうかと思ってね。あんたのお母上は、やっぱりそんな、薄い金の髪をしていたのかい?」
「いや、母は銀髪だったと思うよ。シンダールらしい容貌をしていたそうだから」
言ってからレゴラスは、ふと笑ってギムリに向けて身を屈め、何とも聞きにくげな顔をして自分を見ている彼の肩に手を置いた。
「そんな顔をするものではないよ、ギムリ、別にこみいった事情があるわけじゃない。わたしの母は怪我をしていたから、わたしを産んだ後にマンドスに旅立ってしまったんだ。わたしはあのロヒアリムと同じように、父の膝の上で育ったのだよ」
ギムリは、親友の母への弔意を示してまた一度、深々とレゴラスにお辞儀をした。たとえそれが千年前のできごとであっても、そうして礼儀正しく振る舞うのはドワーフ達の流儀だった。レゴラスもまた、真面目くさって胸に手を当てる。ドワーフ流とエルフ流の挨拶が、ひとしきり交換されてから、ギムリは口を開いた。
「スランドゥイル王は、あんたと同じ金の髪をしているそうだね」
「そうだね、金と言うと、グロールフィンデル卿のような、純金の色を想像するけど。わたしと父は色が薄いね」
「私には、向こうのロヒアリムは見えないが、きっとあんたたち親子が一緒にいると、そのロヒアリムのように見えたんだろう。……あんたはどんな赤ん坊だったのだろうね、スランドゥイル王ならよくご存知なのだろうけど」
「わたしだって、わたしなりに知っているよ」
どこかとぼけた返答に、ギムリは片眉を上げて、頭巾の下からレゴラスを見た。
不思議そうにレゴラスはギムリを見返し、ややあって、「ああ」とおかしげに手を叩く。
「そうか、そうか、ギムリ旦那、人の子やドワーフの子は、赤ん坊の時のことは覚えていないのだったね!」
「これは驚いた、エルフは覚えているのかい!」
「覚えているとも、歩き出す前のことからね!」
ほがらかに言ってから、「でも、生まれた直後から覚えているというわけでもないのだよ」と、いたずらっぽくレゴラスは笑った。
「あんたたちはなんという生き物なんだろう」
ドワーフが太く嘆息する。
「我々よりずっと長く生きていくのに、我々より早くものを覚えるなんて」
「早く、といってもね」
レゴラスははるか遠くを見る眼になった。いつのまにか、草原の彼方の点は消えていた。ロヒアリムは馬で家路を急いでいるのだろうか。
「わたしは、同胞に比べたら随分と、歩いたり歌ったりが遅かった。たぶん、君たち定命の子よりなお、遅かっただろう」
「信じられないね、そんなに口のたつあんたなのに」
「遅かったよ」
秋の近づくやさしい風が、レゴラスの金の髪を乱して去っていく。
「不思議なことに、民たちも、そして父も、ちっとも心配はしなかった。立ちたくなったら立つだろうと、平気でわたしを放ったらかしていたものだよ。わたしはいつも、乳母や父の膝の上で、覗き込むたくさんの顔を見ていた。愛に溢れた顔ばかりだった。明日もしれぬ闇の中でも、輝いた、綺麗な顔ばかりだった……」
「……そのう、赤ん坊の気持ちというものは、私にはよくわからないが」
ドワーフは、ドワーフの歩調に合わせて歩き出したレゴラスの、隣に並んで彼を見上げた。
「やっぱり、早く話し出さなければ、とか思うものなのかね」
「さすがに、その頃のわたしが何を考えていたかはよく覚えていないんだ」
草原の風を胸に取り入れ、心地良さそうに息を吐いてレゴラスはギムリを見返した。
「だが、その頃のわたしが、何を思って、普通のエルフより長い間、黙って赤ん坊のままでいたかは、なんとなく、わかるような気がするんだよ……」




闇と光を交互に繰り返して、たどりついた光の中に、父の声が降ってきた。
「なぜわざわざ斯様な遠くへ、と思うておるであろうが……」
その頃、まだ、自分には「父」という認識はなかっただろう。だが、それが守護者であることは知っていたに違いない。
「……椅子を抱えて歩くというのも、かさばる話よ」
目の前に、夕焼けのような色がある。赤子の、輪郭を捉えにくいぼんやりとした視界の中に、それは、緑に混じって燃え立っているようにさえ見えた。
まぶしさとおどろきに、「おお」とか「うう」ぐらいは、言ったかもしれない。
「この樹は性がよく、樹にとってさえ長き時間をかけて、我に腰掛けを作ってくれたのだ。そなたもいつか、これに腰掛ける日が来るであろう。その時は礼を言うてやるが良い」
森エルフでさえ登るのをためらうようなすべらかな幹が、絡み合うようにして曲がりくねったあたりに父は、どっしりと腰をかけて膝の上、クッションと赤子を安置した。
寝返りが打てるようになった彼が、ころころ転がろうとすれば、「ならぬ」と重々しくいましめて、また、クッションに据え直す。ころころ、「ならぬ」、ころころ、「ならぬ」、それを飽きることなく数度繰り返してから、結局、元気な赤子はあおむけに据えられたまま、空と、森と、それを覆うように半ば隠す赤と、そして、眼前に揺れるものに夢中になった。
綺麗に三つ編みをととのえた、眼前に揺れる金の髪。
「それは食い物ではない」
生真面目に父が指摘するが、それでも、両手で振って、叩いて、そして口に入れてみる。
しばらく噛んでいると、「……好きにいたせ」と、髪を引っ張ることを諦めて父はふいと前を向いた。
眠くなるような静寂の中に、低く低く、父の歌が流れ出す。
やがてそれは聞こえづらいほどゆるやかに、とぎれがちとなり、そして、とぎれた。
両手でしっかり、父の金の髪を握ったまま、赤子はじっと、目を見張って、まばゆい色彩に満ちた世界を見上げている……




「レゴラス?」
何度目か、呼ばれた声が、レゴラスの眼前を過ぎ行く幻視を取り払った。
「……ああ、」
ぱちぱちと、軽くまたたきをしてレゴラスは首を振る。
「昔のことを話したせいか、夢が入り込んでしまったよ」
「赤ん坊の時のことかい?」
「父のお気に入りの椅子のことだよ」
「ほう、どんな椅子かね」
工芸を重んじる種族らしく、興味を示したドワーフに、「木の椅子さ」と敢えて簡潔に言ってから、レゴラスは片目をつぶってみせた。
「君が気に入ってくれるかどうかはわからないがね、ギムリ、いつかふたりであの森に赴くことがあったら、君にも見せてあげようじゃないか」
「それは構わないが、地下牢でのもてなしは御免蒙るよ」
「わたしだって、勝手に樽に乗ってお暇されるのは御免蒙るね!」
ふたり揃って笑い出し、笑い終えてから、レゴラスはやさしく眼を細めて言った。
「父とわたしが昼寝をしていると、後を追って皆が集まって来て、その日の宴会の場所はそこに決まってしまうんだ。君にも見せてあげたいなあ、夜通し続くわたしの森の宴の様子を」
「赤ん坊の頃から、宴に出ていたのかい、あんたは!」
「父は、とにかく綺麗なものを沢山見せて、そして聞かせてくれたのさ。……わたしの森では、美しいものはとても貴重だったのだからね」
闇の中にかすかな光を見出して、それに美を認めることのできる、この緑葉の性根の一端を、ドワーフは知って慇懃に頷く。
そしてひどく、何でもないことのように言った。
「あんたの周りの大人たちも、平和なところに生まれたエルフよりちょっとでも長く、あんたに、赤ん坊のままでいてほしかったんだろうね。あんた自身もきっと、ちょっとだけ長く、赤ん坊のままでいたかったんだよ」


立ち上がれば、周りは闇、戦乱の森……幼い手にとるのは弓矢。
だからもう少しだけ、何も知らない赤子のままで、
もう少しだけ、膝の上に守られた、無力な赤子のそのままで。


「……ギムリ、わたしの、エルフの友よ……」
声はやわらかな感動に途切れる。
レゴラスはゆるやかに、母譲りの緑瞳を伏せ、父譲りの金の髪を揺らせてそして、大好きな親友に、この上なく綺麗に笑いかけたのだった。