|
ソファに座らず、床にだらしなく座ってソファにもたれていると、突然背中にどすん! と衝撃が来た。またかよ、と今更驚く気にもなれず、新聞を読みつづける。原因は簡単なことだ。扉を開けて入って来たものぐさな人型の黒猫が、わざわざソファの前面に回って(しかも馬車を避けて)座るのは面倒くさいと、ソファの背を乗り越え、後ろからソファに転がり込んだのだ。 いつも思うのだがこの黒衣の死神は、近頃馬車の家を自宅と勘違いしてはいまいか。やれ誰それが手応えなかった、やれミッションが意外に面白くなかった、やれ依頼人が報酬払ってくれなかったから細切れにしてしまった、やれ、やれ、やれ――とにかく、何か腹の立つことがあれば馬車の家に転がり込んで、ひとしきり愚痴を言ってその後は、当たり前のような顔でここに居座るのである。 そろそろ家の維持費を半分負担させるべきではないか、いや、それをさせてしまうとますます居着くのではないか――別にいやではないのだが――、と、紙面に視線を滑らせつつ馬車が考え込んでいると、 「ねえ、馬車」 猫なで声が背面から降ってきた。 ソファにうつ伏せに寝転んだ赤屍は、体をねじるようにして新聞を後ろから覗き込んでいるようだ。 今度は何を言ってくることやら、と思いつつ気のない生返事を返してやると、 「実は仕事をひとつ受けようかと思っているんですけれども――あ、まだ読んでませんそこ」 「俺が読んじょうき、おまえは後からぼちぼち読みぃ。んで、何の仕事を受けたがや」 「『妻の浮気癖を何とかしたい』――へぇ、馬車ならどうします? ……何のって、運び屋に決まってるでしょう」 「んなもん、浮気しとうさす亭主が悪いき――こら、新聞引っ張るな。それから俺の肩を顎乗せしゆうな。……んで、何で俺にわざわざ言う」 「障害が多いもので、手伝ってもらおうかと」 「モノは?」 「ダブルベッド」 「送り先は?」 「無限城」 「却下」 「……そう言うと思いましたよ」 「車が入らん送り先ぁ受けんき」 それきり話題を打ち切ったつもりになって、紙面をめくった馬車は、読み進めていくうちに、赤屍の減らず口が返ってこないことに気づいた。 「おい、」 寝るならベッドで寝ろ、といおうとして振り返り―― 「――どうしてもだめですか?」 至近距離で赫の瞳に覗き込まれて少しのけぞる。 「――――何が」 「仕事ですよ」 「――ああ。それかよ。入り口までなら積んだるきィ」 「それじゃ意味がないでしょう。送り先までです」 「車を降りた俺が何の役にたつ」 「たたなくていいですから」 「――は?」 大真面目な顔で、ソファに肘を突いた赤屍は、言葉を継いだ。 「役に立たなくていいですから、ベッドもって一緒に来て下さい、と言っているんです」 「――荷役なら安いのを中で雇え。俺は高い」 「どうしてそう嫌がるんですか」 眉のあたりに不機嫌の暗雲が立ち込めはじめる。 「別に嫌がっとりゃせんがよ」 「わかりました。あなたはそんなに私が嫌なんですね」 「おい、誰がせない――」 「嫌いなら嫌いって早く言ってくれれば良かったんですよ。ここにだって二度ときませ――」 なんでまたそんな話になるか、とさすがにやや混乱しつつ、馬車は新聞を畳んで筒に丸め、ソファから立ち上がろうとした赤屍の頭を叩いた。意表をつかれてあっさり叩かれた赤屍が、細い眉を逆立てる。 「何するんですか」 「話を聞け」 「聞く耳持ちません」 「いいから――聞け、ちうに!」 いやがる赤屍の腕を掴んでソファにほとんど叩きつける。おとなしくソファに顔を埋めたものの、完全に機嫌を損ねて「絶対に話なんか聞きません」とそこらの毛布を適当に頭からかぶった赤屍に、しまった、と我に返った。 「――おい、俺が悪かったき、機嫌なおしィ」 「……」 本気で席を立つつもりなら、馬車など軽く振り払って立てるはずである。拗ねるということは、少なくともかまってはほしいのであろうから、馬車は溜息をつきつつも、言葉を続けた。 「バイトの小僧たぁわけが違うき、おまえの足手まといになるだけの荷役はごめんじゃち言うちょうぜよ。おまえにわからんはずがなかろうに、何をそう斜に受けるか」 ん? と頭に手を置くと、しばらくしーん、と迷うような沈黙が続く。そうなればもうこっちのものだ。毛布を身体全体にかけてやるふりをして、頭からひきはがす。くしゃくしゃになった黒髪が覗いた。 「…………別に、斜に構えてるつもりはありませんけれど」 「なら、俺の言うことはわかろうが」 「いいじゃないですか。条件の良いバイトだと思えば。あなたに傷一つつけないのは、私が保証しますよ」 「……あのなぁ」 何でそう俺を連れて行きたがるかよ。くしゃくしゃの猫っ毛をなんとかまとめてやりつつ尋ねると、ぼそぼそ、と返答が返ってきた。 「理由は特にありませんけどー……何かと心強いでしょう」 「はぁ?」 馬車がいると心強い。――すなわち、馬車がいないと心細い、と言っているのだ。この拗ねこもりは。 熱でも出たか、と思わず言い返そうとして――はっと気づく。 ――新宿は嫌いなんです。猥雑で煩雑で粗雑で……何より、闇を封じ込めて素知らぬ茶番劇を続けられる図太さがね。 裏業界の人間にとってもっとも重要な「市場」である、あの新宿を避ける黒衣の死神の、そんな台詞。 裏新宿のランをこなして帰ってくるたび、ひどく不機嫌な疲れた様子を見せる――その度に、誰へのものかひどくけだるい嘲笑を浮かべて、彼の言う台詞だ。 新宿で昔、この死神の身に何があったかはわからない。本当はごくごくくだらないことなのかもしれない。それでも―― 目の前では、ソファに半分以上顔を埋めた新宿嫌いの死神が、左眼だけを覗かせて、じぃ、と馬車を見守っている。 「……しゃあないの」 「引き受けてもらえるんですか?」 どうして自分はこうこの黒猫に甘いのだ、と、今更ながらの慨嘆を繰り返し。ぴん、と肘を突いて跳ね起きた赤屍の鼻先に指をつきつける。 「道中、我侭は控えぇよ?」 「もちろんです」 「荷物を運ぶ以外のことは、せんぞ?」 「はいv」 無限城の、「Volts」上級幹部ふたりの部屋に、新品の傷一つないダブルベッドが届くのは、それから一週間ほど後のことであった。 ナチュラルに夫婦漫才な、この運び屋二人の正体と、ダブルベッドが運び込まれるまでの、犬も食わない経緯については――もちろん、知らぬが仏というものである。 |