桜の樹の下には――夜の桜・手招く闇





 この溪間ではなにも俺をよろこばすものはない。鶯や四十雀も、白い日光をさ青に煙らせている木の若芽も、ただそれだけでは、もうろうとした心象に過ぎない。俺には惨劇が必要なんだ。その平衡があって、はじめて俺の心象は明確になって来る。俺の心は悪鬼のように憂鬱に渇いている。俺の心に憂鬱が完成するときにばかり、俺の心は和んでくる。

――梶井基次郎『桜の樹の下には』






ツケを見事に増やす行為ではあるのだが、その夜、銀次は相方やHonky-Tonkの友人たちと共に、夜桜見物――いわゆる花見としゃれ込んでいた。
新宿の裏道に詳しい、運び屋やら案内屋やらがついているのだ。穴場を見つけることなどわけはない。
広大な営業倉庫の片隅に、緑化運動・エコ推進の一環とかで、桜並木が続いている。「広いよ蛮ちゃーん」などと昂奮して走り回っている銀次に、卑弥呼が冷たい声をかけた。
「はしゃぐのはいいけど、ここって毎年、基本的に運送関係にだけ開放されてる穴場だから。トラブル起こさないでよ」
そんな卑弥呼の言葉に、ふ、と脳裏に浮かぶ姿がある。近頃不思議に思い出す――黒衣の麗人の姿が。
「……つまり運び屋がいっぱい来るの?」
「ここが初顔合わせって連中がけっこういるぐらいにね」
つまり、この場での花見は運び屋連中にとって、同窓会のような意味を持つらしい。
「人少ない日を狙ったんだから。あたしは明日もここに来るけど」
「ふぅ…ん」
人が少ない日。本当なら、望みをつなぐのに良い条件とは言えない。だが……あの人は人込みを好かないから。もしかしたら、もしかしたらこんな夜にこそ。
「……何よ?」
急に無口になった銀次をいぶかしんで、目の端に六芒星を持つ少女が覗き込んでくる。「あはは、何でもないよ」と慌ててごまかして、一緒に蛮たちの元へ一歩踏み出し――
「――ごめん、卑弥呼ちゃん。蛮ちゃんたちに、先に始めといてって伝えてくれる?」
「え?」
「オレ、ちょっと寄るとこが――ごめん!」
「な、何なの?」
戸惑う卑弥呼を置いて勢い良く駆け出す。重く枝を垂れる勢いで花咲く枝枝の、その間を駆け抜け、口の中に飛び込む花びらを吐き出し――


「――相変わらず騒がしいですね、銀次クン」


一本の大樹の陰、ひっそりと闇に融け込むように、彼が姿を認めたモノが――黒衣の死神が、佇んでいた。


「……花見なんてするんだ?」
「ぜひ来てみたいという人が、いたものですから。道案内ですよ。――それに桜は嫌いではない」
目深にかぶった帽子も、桜吹雪と同じ動きをする薄手のコートも、漆黒と桜色の斑になってしまっている。それだけが、夜闇とその黒衣を見分ける指標であった。
幹によりかかるようにして立つその柳の身ごなしを、少し気圧されて見つめる。銀次は、桜に関する様々な伝説など知らない。もちろん、この桜という樹が、古来より神のよりましであることなど、知るはずもない。だが――知らないなりに、いや、知らないがゆえに。
銀次はこの闇の中に満ちる異形の空気を、感じ取った。
「――怖い、…くらい、綺麗ですね」
その言葉の主語はいったい何だろう。桜だろうか、闇だろうか、――それとも。
「――――ええ。とても、綺麗です」
黒衣の主は、その言葉を桜への讃辞と受け取ったらしい。帽子に隠れたその瞳は見えないが、口元がきゅう、と笑みの形に吊り上った。


「――ねぇ、銀次クン」
ゆらん、と。深淵から闇の気配が濃く立ち上った気がした。この美しい化生の声は、そんなものやわらかな闇のテノールだ。
「キミは、桜の樹の下に、何が埋まっているか――知っていますか?」
しんしんと降り積もる桜の中。かすかに黒衣の裾を払うと、マリンスノーのようにふわりと花弁がそよぐ。
「……知らない、です」
「なら、教えてあげましょう」
いつのまにか、目の前の闇のひとひらが、幹から体を離しているのに銀次は気がついた。
遠くにある蒼白い電灯のせいか、ぼんやりと発光して見える桜色の絨毯を。音もなく踏みにじって黒い革靴が一歩踏み出される。
「桜の樹の下にはね、銀次クン――」
甘い血臭の漂う息吹が、闇の中にひどく白い、その下半分しか見えない顔から吹きつけてきた。
ここは。
ここは自分の場所ではない。
ここは彼の領域なのだ。
もう一歩、きしりと。革靴が桜を踏む。
「――桜の樹の下には、屍体が埋まっているから。あんなに綺麗なんですって――」


「――し、た、い」
「そう。屍体」
美しい――美しい微笑が、帽子の下から垣間見える。闇を切り取ったコートがふわん、と膨れて広がった。闇をその内に取り込むように。
『おまえ、この爛漫と咲き乱れている桜の樹の下へ、一つ一つ屍体が埋まっていると想像してみるがいい――』 梶井基次郎という人の、小説ですよ」
まるで機械のように正確に、よどみなくゆるるかに――目の前の化生は、かつて梶井の書き連ねたその言葉を朗読しはじめる。
『馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている』
コートを乱して片手が跳ね上げられ。後ろの桜に差し伸べられる。ここにその死体が埋まっているのですよ、と言いたげに。
「――や、め、」
『桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている』――見えませんか――? キミたちが、素知らぬ顔で花見をする地面の下に……しあわせそうに笑って見上げる桜の下に……腐乱した死体が埋められている」
象牙色の肌の中の、淡い紅色の唇が――ゆっくりと、なめらかに言葉を紡ぐ。頭で考えていることの輪郭を溶けさせていくような、そんな声で。
「キミたちが忌み嫌う私と、同じように。キミたちが愛でる桜が、死体を糧として生きているのですよ……?」
「やめ――やめろッ」
この空間は彼だ。彼自身だ。この桜は彼だ。でなかったらこんなに綺麗なものか。こんなに汚らわしいものか。
では自分は何だ? この綺麗で汚らわしい黒と白と赤の魔性が、貪欲に取り込んで吸い上げる――その屍体が自分なのか? それとも――それとも?
目眩がする。真っ白い手がゆっくりと目の前に迫る。桜が――闇色と白皙の桜が。死体を抱えて吸い上げようと、手を伸ばしてくる。
ひたり。
冷たい感触。ああどうしてこんな時に限って、この化生は例の手袋をしていないのか。肌の感触が――絶望的に滑らかな肌の感触が。
『――おまえは何をそう苦しそうな顔をしているのだ。美しい透視術じゃないか』………フフ…本当に」
「……あ……かばね、さん、」
「汗がひどいですねぇ、銀次クン……少し寄りかかりますか……?」
甘い闇が吹きつける。今や白皙の貌は互いの息がかかるまで近づき、銀次の視界のほとんどは闇と白と――割り込む桜の花弁に覆われていた。
金縛りに遭ったように動けない――はずなのに。ぎこちなくぎしぎしと挙がった銀次の手は、綺麗に貼りつけられた笑みの隠された部分を――その黒い帽子のつばを。ゆっくりと押し上げていく。
爛々と濡れたようにかがやく赫の瞳が、帽子の下から顕れ――そこに目が釘付けとなったまま、手はゆっくりと、モナリザの笑みを浮かべるその顔を引き寄せる――――


「――だめだよ、ジャッカル」


笑いを含んだ軽妙な声が聞こえた瞬間、ごう、と桜色の突風が吹いた。
目の前の闇が笑いの形に唇を歪めたまま、ふい、と銀次の前から存在感を薄れさせ――
はっと気がつけば、目の前にいたはずの化生は、桜並木の間に立つひとりの白スーツの男に、ごく自然に腰を引き寄せられて立っている。帽子はすでに目深にかぶられていた。
「あんまりまぶしいからって、光を誘惑して取り込む癖はいけないね、ジャッカル――」
似たような微笑を浮かべた青年に、闇の一部たる死神は答えない。
「――あかばね、さん」
かすれきってしまった声で名を呼ぶと、帽子の下にあの微笑が浮いた。
「お喋りが過ぎたようですね。キミのお仲間のところに戻りなさい……私は、道案内の続きがありますから」
この桜の向こうは闇の領域。
あのバビロン・シティの白き青年すら、その領域の住人。
「赤屍さん!」
一歩踏み出して手を伸ばしかけた時。
己の武器と同じ名を持つ青年が振り返って遮るように片手を振り上げ――


「――また、会いましょう……」


一瞬の桜吹雪に遮られた視界が晴れた時、そこに、人語を操るものの姿はなにひとつなかった。


「――何やってんだ銀次。飯なくなってから泣いても、知らねーぞ」
いつまでも姿を見せぬから、様子を見に来たのだろう。その背にひっそりと立った蛮が、ぶっきらぼうに声をかける。
背中を向けたままの雷帝の体が、ぐらり、と揺れる。
「ッおい銀次!」
その場に、どっ! と倒れかかった体を抱き支えてやると、春の宵とは思えぬ汗をびっしょりとかいていた。
「どした、銀次」
「蛮……ちゃん」
「なんか、化けモンにでも会ったみてーな顔してんぞ」
「……似たような、もの、かも」
顔を乱暴に袖で拭い。淫らに白い花弁をいっぱいに振りまく、桜の枝をじっと、見上げる。
累々たる屍の上に根を張り、それを吸って飲み干して。その汚らわしい死の気配を、指先にまで染みとおらせて。けれど、それゆえに美しく咲く――闇の化生。
つられて桜を見上げた蛮が、肩をすくめた。
「桜は魔性だって言うからな。魂抜かれる前に、気をつけろよ」
「……抜かれちゃったら、どうしたらいいと思う?」
あの微笑が視界の裏にこびりついて離れない。
あの微笑が鼓膜の裏に震わせ続けて離れない。
「そうだな、」
銀次の様子がおかしいことに、気づいてはいるのだろう。いつもだったらとりあわないそんな問いかけに、蛮は目を伏せて考え込む。
ややあって、にぃ、と苦笑して銀次の頭を叩いた。
「相手の魂抜き返すってな、どーよ?」
「……」
しばらくぽかんと見返して。はっと、闇が遠くへ退却していることに気づく。
破顔一笑、蛮に力いっぱい抱き着いた。
「――蛮ちゃん、あったまいー!」
「ばーか、今更だぜ?」


闇に引きずり込まれる前に、光の元に引きずり出してやる――と、はっきりと自覚したわけではなかったけれども。
それはたしかに。執着の、はじまりだった。