花吹雪――真夜中の桜




「――『IL』を奪還しに来るメンバーが判明した」


無機的な声で読み上げられて行く名前に、血の気が引くのがわかった。視界が薄暗くなり、気がつくと自分は膝をついていた。
姉が何かを言っているが、聞き取ることができない。震える手でこめかみを押さえ、必死で、自分を落ち着かせようとする。ここで取り乱しては、多分、二度と立ち上がれない。だから動揺と混乱を、押さえつける。
「……十兵衛、」
少年の声。MAKUBEXか。ああそうだ。さっき名前を読み上げたのは彼じゃないか。ビースト・マスターの名を。雷帝の名を。そして。


「……十兵衛、キミに1日だけ時間をあげるから。
 絃の花月と敵対するか、彼の元に行くか――よく、考えて」


誰よりも愛しい彼の友の名を――








外へ行く、と言い出した花月を、十兵衛は止めなかった。十兵衛が花月に従うように、花月は雷帝に従ってきたのだから、ある意味それは当然のことに思えた。
ただ、まとめあげてきたチームを、ここでしか生きていけない仲間たちを、残していく花月はひどく、心残りであったらしく、
『十兵衛、』
思いつめた顔で相談しに来た時、何も言わせず十兵衛は一言答えた。
『オレは残る』
『……』
『おまえがオレの分まで、雷帝を見極め、その相棒を見極め、そして外の世界を見極めればいい。
 オレはおまえの分まで――この世界を護っていくから』


一時の別れだと思っていたから。
外の世界なら、この無限城よりは安全だと思っていたから。
だから、『必ず迎えに来るから』と手を振り手を振り出て行く花月を、『何かあればすぐオレを呼べよ』と少しだけ笑って見送ってやれたのに。


「なぜ――」
目の前にゆったりと枝を広げる葉桜を見上げ、
「なぜ、……なぜ、」
己の手を傷つけるほどに、指に挟み持った飛針を握りしめ、


「――なぜオレの敵となった花月!」


愛しい友との絆の証を断ち切るためにと、
無限城の未来を勝ち取るためにと、
一度替えた主君を二度替えるなど、死よりも重い禁忌なればと、
振り上げた飛針を眼前の瑞々しき葉桜に振り下ろすことができずそのまま――


「……十兵衛」
ひっそりとかけられた声に、きつくつぶられていた瞳を瞠目した。








気がつけば目前に、あの夜と同じ満開の桜。
茫然とそれを眺めていると、
「十兵衛?」
背後からもう一度、かけられた声、忘れるはずもない、間違うはずもない、
「――かづ、き」
振り返るのが怖くて、桜吹雪を見つめたままかけた声は、笑えるほど掠れて。
リン……と、鳴る鈴の音が何よりも雄弁に返答を与える。
赤目の悪趣味な悪戯か――と一瞬思いかけ、いや、ちがう、と自ら打ち消した。
他の誰が騙されても、絃者の技に「筧」は騙されない。この声は、


「――花月、」
振り返った眼に映る糸杉の姿、大理石の肌、桜色の頬、そして黒曜石の瞳、は、
「――十兵衛。会いたかった」


なぜここに、と問う前に身体が花月を抱き寄せた。








「オレは、――オレは、夢を見ているのか、花月」
「――そうだよ」
眼前にある黒曜石がゆったりとまたたき、そのあまりのリアルさに畏れすら覚えた瞬間、ひらり、と桜の花弁が視界を邪魔する。
「――そうか。そうだな」
この季節に桜が咲いているはずはない。第一、つい先程まで、この桜はうっそりと葉を茂らせた葉桜だったのだから。
「夢か」
「うん」
「夢ならば――」
きつく抱きしめて背をまさぐると、しなやかに細い背が震えた。
「――何を言ってもいいな」
「何を言いたいの……?」
「好きだ」


「オレには生涯おまえだけだ、花月」


簡潔すぎるほど簡潔に告げて、背に揺れる髪を握りしめ。
見上げて来る瞳が見開かれたのを見て、その唇が茫然と開かれたのを見て、
「何も言うな」
「じゅう、」
「夢だから。……これはオレの夢だから」
だから返事はいらないと。
囁いて、さらに何かを言い募ろうとする下唇を軽く噛み。
「何も……言うな」
そのままさらりと、その唇にくちづけた。


ざあ、と風が枝を揺らして花弁をもぎとっていく。
背を桜吹雪に打たれながら、何度も何度も、ひどく優しくついばむようなくちづけを繰り返すと、おずおず、と背に手が回された。
閉ざされた目蓋が、少女のような睫毛が、ふるふると震えているのが、定まらぬ視界に映り。
「花月、」
囁きかけるとおっとりと黒曜石が現れた。
「たとえおまえを殺すことがあっても、
 ……それでも、オレにはおまえだけだ」
「十兵衛、」
「オレが己の譲れないもののために、おまえを殺しても。
 おまえがおまえの譲れないもののために、オレを殺しても。
 おまえを永遠に想っているから」
「……勝手だね」
「良いんだ。夢だからな」








手を引いて幹の根元に座り、子供にするように膝に乗せてやり。
一瞬たりとも離したくないかのように、再び抱き寄せてその秀でた額に、花弁がくすぐり行くこめかみに、ほっそりと花弁色の頬に、先程より赤味の増した唇に、己の唇を押し当てる。
満開の桜特有の、匂いというほどのものでもない、瑞々しく湿った花弁の香が、絡む舌を煽った。
「――前に、」
上がる息を静めて目の前の白い首筋に、獣のように鼻をこすりつけ。
「この樹の下で、誰かへの想いを殺して埋めていると――言ったな」
「……うん、」
力が抜けるのかがくりと傾いた細い首を支え、背に回した手に伝わる肋骨の感覚を、指でたどり。
「オレもこの下に埋めていこう」


「ここでおまえへの想いをすべて吐いて。
 殺して、埋めて――」


……そして現実に出会ったおまえを、オレは全力を挙げて殺すだろう。
そう囁くと、背を這う手に小刻みに震えていた身体が――きつくきつく、十兵衛を求めてすがりついた。









ふ、と視線を上げる。
立ち尽くす自分の目の前には、ゆったりと枝を広げた葉桜があって。
「……やはり、夢か」
なまなましく手に、唇に、舌に、……身体のすべてに残る感触を嗤うと、手に持てる飛針を眺めやる。
先程まで、夢の中でさえ――いや、夢の中だからこそ、儚く美しく背をそらせたあの体を、抱いていた手に、今、彼の命を奪うべき飛針が乗っている。
とても夢とも思えない凄まじいリアルの後の――悪夢かと思うような現実に、
くらり、と一瞬の目眩。
振り切って飛針の感触を確かめ、しかと握りしめ。
「――証じゃない」
桜に触れることなく背を向け。
「――この桜は、墓標だ」
告げられぬ想いの、殺される欲の。
そしておそらくは十兵衛の生命そのものの。


歩き出す十兵衛の背から、はらり、とひとひら散り落ちたのは――








「……そう」
あくまでおまえに味方すると、淡々と告げてくる十兵衛の言葉に、しばし目を伏せて銀髪の少年は聞き入った。
「用件はそれだけだ。何かあったら呼んでくれ」
背を向けて去り行くその背中に、「十兵衛、」と声をかける。
振り返ったその瞳は、


「似合うね、そのミラーシェード」


「……そうか」
目礼して今度こそ背を向けたその姿を、透徹な瞳で見つめてぽつり、つぶやく。
「……かけさせたのは僕なんだろうけど」
外界のすべてから、己の感情を遮断してしまいたくて。
いつか出会う「敵」の瞳から、己の瞳を隠してしまいたくて。
けれども、たとえば塔の住人たちのように、すべてを韜晦することなどは、あのまっすぐなサムライには出来やしないから、瞳を覆う。
「……朔羅、」
名を呼ぶと、この国で最も愛された花の名を持つ女性が音もなく、MAKUBEXの背後に歩み寄った。
「少し眠りたいんだ。寄りかかっていていい?」
「どうぞ、MAKUBEX」
おだやかに突かれたその膝に頭を乗せ、見上げると無限の悲しみと諦観を湛えた湖水の瞳に出会う。
「――怨んでいいよ、僕を」
やわらかく言うと、痛みを感じたようにすがめられた瞳がそっと閉ざされ、首が静かに振られた。――横に。
「……そう」
同じように瞳を閉じ、額にひんやりとした手が乗せられたのを感じて、小さく笑った。
「十兵衛ほどじゃないけれど……
 僕も、良い夢が見られそうだね」











扉の向こうで光の脈動を繰り返す、母なる電脳のその片隅に。
元々は風鳥院花月という個体をオリジナルとした、一体のヴァーチャル・ドールのデータの残骸が保存されている。
MAKUBEXを親とするそれは、稼動から5時間にして、終了と共にひっそりと――誰も命じることのないままに自壊した。


哀れなヴァーチャル・ドールが自壊したその理由も。
MAKUBEXが気まぐれのようにそれを作り出し、十兵衛のもとに送ったその理由も。
夢に花月をその腕に抱いた――と信じる十兵衛が、ミラーシェイドに表情を隠し、桜を斬らずに友と戦う意を決したその理由も。


知るのはきっと、あの塔の高処に座す呪うべき神――ただ、ひとり。