桜の樹の下には――昼の桜「一期は夢」





 一期は夢よ ただ狂へ

――閑吟集






春の空は、秋の空のような眼に痛い蒼さはない。見上げれば、そこにあるのはぼんやりとどこか白く霞んだような、生ぬるい青。
しかも、行き交う人の頭上に現在、蒼い色彩は驚くほど少ししか見られない。あとはけぶる桜色の洪水。萌える芝の緑の上に、覆い被さる花弁の吹雪。広大な公園は花見真っ盛りらしく、平日だというのに、昼間から千鳥足の者もちらほら。
どこか遠くで、無遠慮な笑い声がしていた。
そんなのどかで雑多な空気の中を、漂う桜の花弁と戯れるように。ふわり、ふわり、と軽やかに。頼りない足取りで、黒のひとひらが歩み行く。その、喪に服すかのごとき黒ずくめの異装は、桜の洪水の中では、さぞや浮こうに、彼はすんなりと融けていく。むしろ、おっとりと舞うように歩く姿は、注視しなければ桜の陰にけぶって消えてしまいそうであった。
「ドクタージャッカル」
優しい囁きが耳元に滑り込んで、そのふたつ名を持つ彼は歩みを止めた。ふわん、と風がその黒衣の裾を乱し、桜の斑を吹きつける。
「ドクタージャッカル」
二度の囁き。
黒のスラックスに包まれた脚が、ゆるるかに方向転換して、桜並木の中に踏み込んだ。「立ち入り禁止」の札を優雅にまたいで超えたその姿に、数人が何かを言いかけて、ふと、畏れるかのように口を閉ざした。この国には千年の昔より、触れてはならぬ、入ってはならぬ闇の領域が存在する。彼らは一様に、その甘く冷たい闇の匂いを、桜の向こうに嗅いだのだった。


「――……また私に花見の案内をさせるつもりですか? ……鏡クン」
ものやわらかに発せられた皮肉にも、パールオフホワイトのスーツで佇む男の、微笑は崩れない。
「この前は邪魔が入ったからね」
厭味になる半歩手前まで洗練された仕草で、す、と手を伸ばす。
わずかな空白ののち、誘われるままに黒衣は動き、男の目の前まで歩み寄った。
「警戒してるの?」
「ええ、誰にでもね」
「…………誰にでも? 本当に?」
「何か問題が?」
意味深な会話に、やや苛立った様子で黒い帽子が打ち振られる。貼りついた花弁が散った。
「非戦闘系のスキルの持ち主には、特に警戒したりしないんじゃないかな……と、思ったんだけどね。他人のことなんかで時間つぶしたくないから、この話はやめよう」
「非戦闘系のスキルの持ち主」が誰なのかは言うことなく、鏡は伸ばした手で、おだやかに赤屍の肩の花弁を払う。別段拒絶するでもない様子を見て、何気ない所作で、ひょい、と帽子に手で触れた。同時に突風が吹きすさび、勢いで帽子を遠く吹き飛ばす。
「……何の真似ですか?」
「顔が見たくて」
「なら、そう言いなさい」
「言ったら素直に帽子を取ってくれたかな?」
「取るはずがないでしょう」
取りつく島もない風情。帽子を取りにいくことなく、おっとりと佇んだまま、鏡の手が触れるに任せた姿勢。
「――冷たいね、ジャッカル。呼びつけたことを怒ってるの?」
「キミがいつまでも本題に入らないからですよ、鏡クン」
「本題?」
首筋に薄い筋となって覗く傷を、軽く指先で撫でる。赤屍は抗わない。どこまでも静かに、おだやかに佇んでいる。まるで、あなたのことはどうせいつでも殺せますから、と言っているかのように。……それとも何か、別の理由が。
「本題。――なぜ私を呼びつけたのです?」
「キミが綺麗で」
「は?」
「だから、夜桜の下のキミがあまりにも綺麗でね。昼の桜の下でも綺麗だろうな、と思ったんだよ」
首筋から手を離し、ゴム手袋に包まれた手を、ひどく気を遣って握ると、ねじくれて浮いた樹の根の上に腰を下ろす。引かれて腰をかがめたその手を、さらに引いた。
「鏡クン?」
「キミに会いたくて、キミと話がしたくて、キミと一緒に桜が見たかったって、いちいち言葉で言わないとわからないのかな、ジャッカル?」
「……なぜ私と?」
「いいから、座って」
「帽子を……」
「いくらでも買ってあげるから。一度地に落ちた帽子なんて、キミには似合わないよ」
言われ慣れぬ言葉を連発され、さすがに対処にに困ったのか、しばし、その細い首を傾げて赤屍は考え込む。すぐに、一緒に花を見るぐらいなら、考え込むほどの問題でもない、ということに気づいたらしい。あっさりと、「まぁいいでしょう」と、隣に浮いた根に腰掛ける、と――
あっさりと、男とは思えない細い腰に、回った鏡の手が赤屍を抱き寄せていた。
「……あのね、鏡クン」
「ン?」
「キミ、もしかして、私が人の視線など気にしない性質だと思っていませんか」
非常に答えにくいその問いは、聞こえなかったことにして。鏡は、さきほどまでは帽子が護っていた赤屍の黒絹の髪に、はらはら、と花弁が落ちかかるのを、目を細めて眺めていた。
「……鏡クン? 聞いて――」
「聞いてるよ」
「……」
「本当に聞いてるよ。綺麗な声だね、ジャッカル」
「……要するに声は聞いていても言葉は聞いていないのですね?」
「だってオレの聞きたい言葉を言ってくれないから」
つれない唇だよね、と、冷たく薄い、鴇色の唇を軽く人差し指で撫でる。やはり抗うことのないその唇が、ゆっくりと開いて、
「……では、キミは私の唇に、どんな言葉を望んでいるのですか?」
「決まってるじゃないか」
無言のまま、無表情のまま、よくできた人形のように、その返答におっとりと首を傾げる死神。
鏡は小さく苦笑して、行儀良く木の根に腰掛けた死神の柳身に向き直った。
「……鏡クン?」
「好きだ、とか」
軽く掴んだ手を引き、なぜか一瞬の抵抗ののちに、おとなしくされるがままとなった赤屍の、その身体をことん、と木の根元に押し倒し。
「傍にいて、とか」
スーツが汚れることをいとわないのか、地の上に膝を突いて身を乗り出し、黒衣の両肩を両手で押さえ込む。
「鏡クン、」


「……一緒に、あの場所へ還りましょう、とか――」


「か――」
「言わないで」
「――私は、」
「何も言わないで、ジャッカル」


それでも何かを言いかけた赤屍の眼前に、片方の肩を放し、ゆっくり、と握った拳を鏡は掲げる。
黙ってそれを見上げる赤屍の顔の上で、ニコ、と笑うと拳を開く。
途端、
「――ッ」
降り注いだ桜の花弁に、赫瞳が少しだけ驚いたように開かれた。
はらはらと顔に降りかかる花弁を、だが、赤屍は避けようとしない。
「……何のお遊びですか?」
「喋らないで」
少しむっとしたようにひそめられた眉を、鏡の長い指が優しくつつく。
「桜の樹の下で。
 花弁に埋もれてるのは、死体なんだろう?」
「あれは土の中に――」
「花弁の方が、キミには似合うから」


「だから、黙ってオレの下にいて、ジャッカル。
 今のキミは――死体なんだから」


オレと、おんなじ。


囁かれた言葉に、赤屍はうつろな赫瞳をゆっくりと閉じ――
鏡の掌から、尽きることなくふりかけられる花弁はひらひらと、ひらひらと――


「――ありがとう、オレと遊んでくれて」


その言葉に、閉じた瞳を開けば眼前に、
含み笑いの「塔の住人」。
うららかな春の陽光に半ば透けたその身体を、貫き通してはらはらと、はらはらと、桜が降り注ぐ――


そして赤屍がもう一度まばたきをし終えた時、その身の上に、謎めいた微笑の男の姿はなかった。


「――本当は最初から、気づいていたんだろう?」
耳元で囁く声。
「……さあ?」
答えて赤屍はものうく身を起こす。


樹の根元を、手袋に包まれた手でおざなりにまさぐると、無数のケーブルが伸びる小さな箱を取り出した。
ケーブルの先は、立体映像の投影装置に続くに違いない。無限城製の、空恐ろしいほどにリアルなものが。
「……ドクタージャッカル」
囁くのはその無力な小箱。
バッテリーが切れたのか、その声は徐々に低く、回転数の低いレコードのように。
「ジャ……カァ……ゥゥ……」
掌の上に小箱を乗せて、見守る紅き視線の先。
断末魔に向けてどろり、と止まりかけた音が最期の一瞬、夕陽の残光のようにひどくクリアに輝く。


「………………………アイシテルヨ」


「……象牙の塔の賢者が、戯言を」
ぷつん、と音の切れた小箱から、伸びるコードを指先ですぱん、と切り落とし。
手の内のメスでいともたやすく貫き、桜の幹に留めつけて。


その一心に桜の花弁を貼りつけたまま。
耳の奥底に繰り返される、塔の住人の囁きに答えることなく。
……だれにも、他愛ないCGの「ごっこ遊び」につきあってやった理由を語ることも悟られることもなく……


つばの切れた帽子と、ものさびしく火花散る小箱を置いて。黒衣の死神はゆらゆらと、陽光翳りゆく公園の出口へとひとり去っていった。