天才とパトロン




あれはカゲロウ。
ほらゆらゆらと揺れている。


道行く人々が皆振り返る。
ゆら、ゆら、と音もなく道を滑る漆黒の影。
どう考えても暑苦しいことこの上ない漆黒のコートに同色の鍔広の帽子。
なのに向けた視線の先がひいやりと冷たくなるような錯覚。
そう、あれはカゲロウ。
新宿という魔都が、ぎらぎら光る太陽にスパークし、白き灼熱の中で悶え生み出した一瞬の冷たき闇。


「お待たせしましたか」
黒きカゲロウは、ガードレールに腰掛ける蛮の目前までやってきて、ひどく涼しい影をそこに作る。
背に太陽。
逆光のために白皙の相貌すら昏く霞み。
死神は彼の目の前で朧な影の塊と化す。
「……誰が待つかよ」
3本目のマルボロを地に落として踏みにじる。アスファルトのなんと白いこと。
白い太陽、白い空、白い地面、白いガードレール、圧倒的な質量を持って押しつぶしてくる真夏の光はすべてを漂泊するのに。
目の前の昏く涼しいカゲロウだけがどこまでも昏く透き通って、ゆらゆらと夏に揺れている。


帽子が少し下に傾き、逆光の影の中でわずかに唇が微笑を浮かべるのが見える。
だがそれすらも眼の錯覚と言えてしまいそうな朧さで。
おそらく3本の吸いきられた煙草を見て笑ったのだろう、とは思うものの確証はなく。
心地よい涼しいカゲロウの闇に、引き寄せられるのをこらえ蛮は立ち上がる。
「今日はてめーの奢りだぞ」
「わかりました」
先に立つ蛮に付き従う、影なる死神、それは決して彼に逆らうことがなく。どこまでもやんわりと、ふわり、ふわりと、歩き出す彼の後に歩く。
太陽を背にして後ろに付き従う影。それは自然界には有り得ぬものだ。
だからこれはカゲロウ。
太陽の殺意に白く染まる夏の、一瞬の幻。
不意に振り返り手を伸ばす。
伸ばした手は、同じように伸ばされていた黒衣の手をはじき。
その黒衣の手を掴みたかったのか。
最初からはじくつもりで伸ばしたのか。
排気ガスとビルの反射光に白く死に絶えるこの街の中では、それすらも判然とすることはなく。
「……失礼……驚かせるつもりは、なかったのですが」
白い手袋の冷たい手は、はじかれてなお、ゆっくりと蛮の頬に伸び。
手に持ったハンカチでそっとその頬の汗を拭った。


枯死寸前の灼熱から逃げ、影を付き従えて滑り込んだホテルの一室。
先ほどまでの惨酷な白さに慣れた眼は、カーテンに日光を遮断された部屋の風景を、はっきりと捉えることができない。
書き物机の前、帽子を取らずゆっくりと腰掛けた黒衣の影は、そのまま薄暗い部屋に拡散していきそうで。
乱暴に帽子を手で撥ね退ける。
ゆっくりとあげられた顔は、夏の白さではない。
幼い頃を過ごした西欧の、あの邸の片隅に、ひいやりとただそこに在った大理石の彫像の、冷たさと白さそのままで。
「どうしました?」
ものやわらかに声は放たれる。
「部屋に入れば帽子を取るってのは、最低限の礼儀だろ」
暴君を気取り顎を掴んで顔を近づけ。
白き殺意から逃げ出した部屋の、薄暗いカゲロウの細い首筋をきつく噛む。
あ、とかすかな声をあげるも抗わぬその黒衣姿は、常に、蛮の専横をおっとりと赦す。
時には気まぐれに、ひどくひたむきにその身体に奉仕してみせることさえあり。
今も蛮の望むまま、己からネクタイに手をかけするりと前を解く。


「昨日は何人殺した?」
「覚えていません」
「明日は何人殺す?」
「決めていません」
「今日は」
「あなたとしか、会っていません」


それは、時に年上の女が、歳若き恋人の暴君ぶりを可愛らしいと喜ぶ、そんな心情にも似ているのかも知れず。
椅子に腰掛けたまま、しどけなく肩から衣服を落とし腕にまとわりつかせる死神は、血の色の瞳に愉悦を増しながら、乱暴な蛮の仕草に決して抗わない。
黒衣を解かれることによって、白き夏の殺意の中に黒く透き通っていたカゲロウは、薄暗きうそ寒い部屋の中に白くほのかに浮かび上がり。
性急に身をまさぐるその手にくつくつと、細い喉から笑いが漏れ、すぐに、
「……ぁに笑ってんだよ」
「いえ、別に――……ッ」
嘲るような誰何と共に、与えられる痛みすれすれの悦楽。椅子の上でほっそりとした長身がたわむように捩れる。
「……チッ」
舌打ちをして身を離し、蛮は傲然と、椅子の上の白い身体を見下ろして顎でベッドを差した。
その希有な赫瞳を細め、大理石の肌の上に影のようにコートをまといつかせ、おとなしく、死神はシーツの上に横たわる。
白い寝台の上の白い身体。黒のコートはそれを侵蝕する闇のように、薄暗い部屋の朧な視界に融け行き。
「やる気にさせてみな」
苛々とマルボロの吸口を噛みながら言う若き暴君に。少し首を傾げてから、黒まといつく白は起き上がって己の身体を開いた。


最初に誘ったのがどちらだったか――そう尋ねられても、きっと答えることはできない。
生気なき黒のカゲロウと、呪われた堕天の蛇。
『私と少し遊びませんか』
その言葉を最初に吐いたのは、白光に灼かれつつゆっくりと手を伸ばしてきたあの黒の朧。
だが、その「遊び」をベッドの上に限定したのは蛮だった。
それから何度。こうして朧なカゲロウを散らし征服したか、もう、覚えていない。


「てめぇ」
「はい」
「俺のことが、好きだろう」
「好きです」
「雷帝のことも、好きだろう」
「大好きです」
「けれど銀次は、嫌いだろう」
「ええ。大嫌いです」


ベッドに蛮を横たえ、その上に、ひきずるように黒衣をまとわりつかせたままの死神が、ほの見える白い身体で覆い被さる。
大きな黒い鳥に包まれるような――悪夢に訪れる死神そのもののような。
蛮の身体から衣服を取り払い、ゆっくりと手を這わせて熱を高めていこうとする、その赫瞳に浮かぶ色。
いつくしまれている。
それは若き天才を庇護するパトロンの瞳だ。
こんな他愛ない「服従ごっこ」にも、甘んじてつきあい、その身を満足させてやることを、ためらわないほどに――愛されていると。
だから、


「俺は、世界で一番てめーが嫌いだよ」
「知っています」
蛇生む右手にうやうやしくくちづけ、カゲロウは笑う。
それは一瞬の幻。
いつか自分を殺してくれる若き天才に、やさしく、あまく、ひたむきに尽くし、「おしまいの日」を待ち望む殺戮のゴースト。
どこかでそれを理解できる自分がいることに、耳をふさぎ。
その美しく歪んだ想いに、溺れてカゲロウと同化したくなるその欲望に、目をふさぎ。
白い光の中にあるために、身体だけを溺れさせ、睦言の代わりにきつく罵りの言葉を吐く。


「てめーだけは……赦さねえ」
「知っています」
「絶対……思い知らせてやんぜ?」
「待っています」


己を嫌悪し、牙を剥き、殺す獣のみをどこまでも手放しにいつくしみ。
愛し生かそうと己を追ういかづちの王者からは、どこまでも頑なに逃げをうつ。


キリストと同じ傷を持つ手は、呪われし瞳を静かに閉ざさせ。
「待っています……ずっと……」
まとわりつく黒衣に縛られたカゲロウは、芒、とゆらぐその身を蛮の上に静かに重ねて瞑目した。
馬車ならば愛憐を。
銀次ならば愛欲を。
不動ならば愛憎を。
鏡ならば寵愛を。
その冷たい身体に伝えたであろうが。


「……ケッ」
吐き捨てて身体の上下を入れ替え。
蛮はただ、蛇のあぎと生むその手で、冷たい身体をかき抱き――
きつくきつく。己が欲望を叩きつけただけだった。