我は征く盲目の如し



君こそは遠音に響く
入相の鐘にありけれ
幽かなる声を辿りて
われは行く盲目の如し



女性の肩を借りて歩くことは、はっきり言って本意でない。満ち満ちる陽の気を、丹田に貯めて少しずつ循環させる。両脇の女性の体温が暖かい。その暖かさを強く意識する。若い異性の気は、取り込めば傷の回復を早めることができるからだ。
視界は闇。最後に見たのは誰よりも愛しい友の姿。一歩一歩、頼りなくも進める脚の、その向こうに必ずいる。前に進めば辿り着く。ならば命が尽きるその瞬間まで、自分は歩く。老人の声に憐憫が交ざろうと。姉の声に悲嘆が交ざろうと。一歩歩けば、一歩彼に近づくのだから。



君ゆゑに我は休まず
君ゆゑに我は仆れず
嗚呼われは君に引かれて
暗き世をはつかに捜る



がくん、と膝が崩れた拍子に、姉の髪が頬に触れる。
「少し休む――」
冗談を言うな、と言うために息を吸ったら、
「――わけ、ないわよね」
その短い言葉の間に、声の響きは諦観から決意へと変化する。
ぐい、と腕をつかんで肩を担ぎ直すその力強さを感じ取り……腕に触れるわずかな首の動きで、姉がきっ、と前を見据えたことを知った。
光に満ちたあの優しい過去を共有する、数少ないはらからを。一歩一歩進むごとに、喪う可能性が増えていく。彼も。姉も。向かう先は死地である。互いに口から言葉が出掛かる。「あなたは帰れ」と。
その言葉を飲み込んで。飲み込んだ言葉の代わりに出せる言葉を、これ以外に知らない。
「――すまない」
ひっそりと、つぶやく。
もう後には戻れないのだ。彼も。姉も。暗闇に浮かぶ泥塗れの泣き顔を忘れられないから。絶望に挑む少年の後ろ姿に背を向けられないから。
「謝ることなんて、ないんじゃないの」
反対の脇から声がする。
「一秒休んだせいで、一生後悔するなんて――あたしは、いやだもん」
「……そう、だな」
あなたにも、と問うてみたい。あなたにも、あるのかと。ただその人に会うために、死地に赴くことがあるのかと。今あなたの進む一歩は、誰に近づく一歩なのかと。
敵なのに。敵だから。この、童女の面影濃い――もう彼にそれを見ることはできないが――きつい瞳の少女にも。護るべきものはあるのかと。暗闇に差し込む残光はあるのかと。



ただ知るは沈む春日の
目にうつる天のひらめき
なつかしき声するかたに
花深き夕を思ふ




「――光も、見えないの?」
ためらいがちに発せられた少女の声に、「ああ」と短く答えを返す。
「最後に見たのって……なに?」
「なぜそんなことを聞く?」
「ん? 別に。ただ――」
先程から小さな咳が混じっている。何か良くないものを吸い込んだのでは――と、思ってから、この少女が毒使いであることを思い出した。肺を傷つけ血を汚し、そうやって闘うのは何のためなのか。誰のためなのか。
「――ただ?」
「ただ。良いものだといいな、――って」
最後に見たのが。そうつぶやいて、姉と同じように、ぐい、と腕を抱え直す。
「――良いもの、だったさ。何よりも」
最後に見たのは強烈に差し込む陽光。その陽光に照らされた逆光の繊細な美貌。涙もろいところは幼い頃からちっとも変わっていなくて。何も悲しむことはないと、報いを受けただけなのだと、言ってみても涙は後から後からほろほろと。
竹林を抜けて、息を乱して、琴の音に惹かれて、あの日出会った彼の運命。彼の存在理由。暗闇に落ちても。魂が砕けても。あのたおやかで意地っ張りで、悪戯好きで誰より強い、あの主君を護るために我はあるのだと、おのれの胸につぶやくだけで、彼は誰よりも誇り高くあることができた。真っ直ぐに生きていられた。
彼にとって、護るべきものにどう思われているのかは、どうでも良いことである。大事なのは、彼が、護るものを忘れないでいること。忘れたくても、忘れられないだろうが。
彼にとって、あの涼やかな声は。あの滝の黒髪は。あの白玉の肌は。あの気高く意地っ張りな魂は。
……あの軽やかな笑い声、あの胸の痛くなるような泣き声は。
「……光だ」
「え?」
「光を。最後に見た」
「……そっか。じゃあ、良かったんだね」
きっと姉はこの少女の反対隣で、瞳を伏せたところだろう。彼にはわかる。
そうやって瞳を伏せる仕草を、何度となく、彼は見ぬ振りをして――こうして、死地に発って来たのだから。



吾足は傷つき痛み
吾胸は溢れ乱れぬ
君なくば人の命に
われのみや独ならまし




「……ちょっと、待ってくれ」
く、と軽く腕を引いて女性ふたりを引き止める。
言われて止まったふたりから、そ、と腕を外した。
「どうかした?」
姉の声が曇る。安心させるように首を振ってみせ、気を探った。少しずつだが、力が戻って来ている。
「――もう、大丈夫だ。ひとりで歩ける」
「だめよ」
「やばいって」
異口同音の抗議に、もう一度首を振った。
「抱えられたままの格好を、花月に見られたくはない」
馬鹿な意地だと、笑われても構わない。それでも、自分の脚で立ってあの光へと辿り着きたい。
彼はあれを護るために向かうのであって、彼の足手纏いになるために向かうわけではないのだから。
「――目が見える時と同じように動けると思ってはだめよ。今の貴方はめしいなのだから」
めしい。
その言葉に、小さく笑って。



「――心配はいらんよ、姉者。
 オレはもう遠い昔に――めしいている……」



あな哀し恋の闇には
君もまたおなじ盲目か




「……いいじゃん」
快活な声。基本的に、愛されて育った快活な少女なのだろう。
つまりそれは、誰かを愛することを知っているということなのだ。
「見えなければ、余計なもの見て迷ったりしないですむよ」
「……そう、ね。そう、なのでしょうね」
そ、と遠い遠い昔にしたように、やわらかな手が彼の手を取る。



「私も、めしいに――なってみようかしら」
「なってみようと思ってなるもんじゃ、ないと思うんだけど」
「……たしかにね」
ふふ、と両側で優しい――少しだけ、ものさびしい笑いがはじけ。
ああ女という生き物は強いのだ――意味もなく、そんなことを思う。
「行きましょう十兵衛。……あなたの光と。わたしの光の元へ」
す、と手をつないだまま、姉は先に立って歩き出す。
斜め後ろにひたりと少女が控え、間に挟まれて。むずがゆい気恥ずかしさを感じた彼は、少しの間だけ――
これより赴く死地を忘れ、やわらかく、苦笑した。



手引きせよ盲目の身には
盲目こそうれしかりけれ――――

『落梅集』島崎藤村