思えば、この愛しい友人の髪の長さを、一番知っているのは自分だったかもしれない。
記憶にある花月は、ぽっくりを蹴立ててころころ笑いながら走る、華やかな振袖の後ろ姿。作務衣姿の十兵衛は、いつ転ぶかわからない、いつ急ブレーキをかけるかわからない、そんな気まぐれな仕草を見守りながら、後ろからゆっくりついていく。「危ないぞ」「前を向いていないと転げるぞ」そんな言葉に、「僕はそんなのろまじゃないよ!」と鈴を振るような声で笑う禿姿が、次の瞬間、草に脚を取られてつんのめる――
あのまぶしく優しい楽園を追われ、このがらくたの城に逃げ込んだ後は。――いや、逃げ込んだ後も。拳を握りしめ地を踏みしめて立つ、そんな彼の。背を見つめ。背を護り。そうすれば時折ちらりと振り向いて「無事?」と黒曜石の瞳が問いかけ。緊張したその容貌に、かすかに笑い返してやると――
肩先で揺れていた絹糸の黒髪が、背を覆うまでに伸ばされていくのを、ずっと、十兵衛は見守ってきたのだ。今もなお。このがらくたの城で。はたりはたりと、重たげに揺れる黒の滝を。
夜の無限城は、生活エリアの繁華街などを除けばおおよそ、薄ら寒いほどの静寂に包まれている。狂躁的な「陽」に喘ぐこの城は、だから、陰たる夜には死に絶えたように沈黙する。その懐に、忌まわしいいくつもの陰の営みをはらみつつ。
いくつ角を曲がったか、もう思い出せない。前を歩く花月の背を見つめたまま、1時間ほども歩いただろうか。
あの場所に行くのに、同じ道を歩いたことは、一度もない。あそこは十兵衛と花月が知っていれば良い場所であって、尾けまわすつまらない輩に、知られて良い場所ではないからだ。
結界を越え、絃を指で切り、飛針で押さえ。廃材に埋もれた一角へとたどり着く。
「――無事かな」
「無事に決まってる。おまえの張った界だ」
花月が虚空に手を伸ばすと、ぴん、と小さな音がして、何本めかの絃が切れた。並みの人間なら、近づいた時点で輪切りになっている、風鳥院流の結界「人払い」。
次に廃材の山から、十兵衛が留め針をいくつか引き抜く。がらがらと廃材が崩れ落ちた跡には、
「……ああ、よかった……今年も無事だ」
そこには、桜の若木が一本きり。ひっそりと、塀に囲まれた空き地の中で、闇に抱かれてほのあかるく咲き誇っていた。
花月が、抱えていた床几を、降り注ぐ桜色の雪の元に開いて置く。桜の幹に向き合うように座り、その細い背を、十兵衛に向けた。
「じゃあ、十兵衛……今年も、よろしくね」
「ああ」
壊れ物に扱うように、そっと、その髪に触れ、髪紐を解く。
豊かな黒髪が、おもたげにゆったりと肩に広がって、その上に、その黒絹を恋うかのごとく、はらり、と桜の花弁が落ちた。
うやうやしい手つきで、背を向けたままの花月の髪をすくいあげ、近づけた右手に――
さく、とやわらかい音をたて、黒髪が桜の絨毯に散る。
十兵衛の手にあるのは、古風な銀の剃刀。
一房、髪を手にとっては、背の半ばほどでさく、さく、とそぎ切って放す。それを、規則正しく繰り返す。
桜はひらひらと、髪はしんしんと、ふたりの足下に降り積もる。
「――何度目……だろう?」
この日に君に、髪を切ってもらうのは――と、口に出さずとも十兵衛はその問いを感じ取り。
「4度目だ。……オレが数えで15になった歳からだからな」
「君は、僕がこの日を選んだのを、不思議がったね」
「……そうだな」
風鳥院の当主には、一年に一度、「この日は必ず髪を切る」という日を決めている。
髪は「神」に通じ、髪を切られて神通力を喪う化生が多いように。風鳥院の大輪たるその艶やかな技にこもる気は、彼ら彼女らの長い髪と、決して無関係ではないと、古来彼らは信じていた。それゆえに、髪にまつわる呪的な取り決めは多い。
このがらくたの城に逃げ込んだ花月が、己の髪を切る日を決めたのは、数えで14になった歳。
――十兵衛、
あの夜の、花月の思いつめた声が、あざやかに十兵衛の脳裏に蘇る。
――十兵衛、髪を切って
大きな黒曜石の瞳が、あおざめた白い肌の中に炯炯と輝いていた。
――君が……僕の「筧」だから
それは旧暦の2月15日。
大切に大切に、「外」から持ち込ませて育てた桜の若木。そのもとに十兵衛を連れ出して。
――僕の髪を切るのは君だけだから、十兵衛、僕の髪を切って――
炎上する館より逃げてのち一度も、ただの一度も切ることのなかった滝のような髪を、ばさりとほどいてあの夜、花月は十兵衛を燃える黒瞳でねめつけた……
「ツ、」
かみそりの柄に髪が一本ひっかかる。
「す――すまん」
焦ってその髪をほどく十兵衛に、花月は背を向けたまま、クスリ、と笑った。
「はじめて僕の髪を切った時、手ががくがく震えていたね――十兵衛」
「仕方ないだろう。緊張していたんだ」
千の敵を前にしても眉ひとつ動かさない十兵衛でも。この白い細首のすぐ近くで、しかも慣れた飛針ではなく鋭い剃刀を、当てなければいけないとなれば、緊張しても仕方がない。
何より、彼は「筧」だから。
――僕の髪を切るのは君だけだから
――お前の髪を切るのは俺だけだから
風鳥院の宗家において、その当主に刃物を持って近づくのは、すべて、筧の当主にしか許されていない。
禿姿の幼い頃、爪も髪も、花月を整えたのはすべて、十兵衛の父だった。
花月の髪を慈しむ父の仕草を、下座から眺めつづけ。15の成人を迎える前に、その父を失った花月の髪に、十兵衛はけっして触れようとしなかった。
15の成人を迎えるまで、頑なに。
「君が――」
さり、さり、と膝の上に削ぎ落ちる髪を、眺めながら花月が囁く。
「――君が、15になった夜に僕の部屋に来て、髪を切らせてくれと言った時は――本当に嬉しかった」
「昔の話だ」
風鳥院の言い伝えを、信じているはずもなかろうに。頑なに花月もまた、髪を切らずに待ち続けたのだ。
そして訪れた十兵衛に――
「……旧暦の2月15日に。桜の樹の下で切ってくれと。お前は言った……」
「……そうだね」
小さな笑声ののち、背を向けて座ったままの花月があっさりと言い放つ。
「いやだったでしょう?」
「……」
「その日は『死』の匂いが強すぎるって、君は思ったはずだ」
「……ああ」
「『願わくば花の下にて春死なむその如月の望月の頃――』」
「『――桜の樹の下には屍体が埋まっている』」
死の気配を爛漫と撒き散らす夜桜の下で。それでも花月は髪を切れと。
「ならばなぜ、反対しなかったのかな、十兵衛」
何気ない問いにこもる、何か痛々しいほどの真摯さ。
一瞬、髪に触れる手を止め――ややあって。もう一房髪をすくう振りをして、そっと……そっと、決して花月に気取られぬように、その髪にくちづけを与える。
「――十兵衛?」
「花月、おまえが」
「言うことを聞かなければ死んでしまうような――気が、したから」
あの夜のあおざめた頬、輝く黒瞳、血の気の失せた白い唇、それらがほどかれた髪によって隠れた瞬間、十兵衛はそれを抱き寄せて抱きしめていた。
支えてやらなければきっと倒れる。あの髪の重みで崩れてしまう。そんな根拠のない恐怖で、ただ、ただ、背の髪を握りしめ、息もできぬほど抱きしめて。
――大丈夫だ、花月。ちゃんと、切ってやるから――
その場に膝をつきくずおれた体を、支えて十兵衛は、伸ばされつづけた髪に剃刀をそっと当てたのだった。
「……桜の樹の下には、屍体が埋まっている……」
手を止めた十兵衛に、花月がゆっくりと立ち上がって幹に手を当てる。
「……逆に言えば。桜の下で死んだ屍体は、桜になれるんだよ。だから西行も、桜の下で死にたかったんだ」
十兵衛が、花月の為に死ぬことを望むように。
「……花月、」
「前髪も切ってくれる?」
くるり、と振り返った白磁の頬が、かすかに笑う。
「花月、」
「ねえ、早く」
「おまえは、死にたいのか」
「……」
「桜の下で。死んでしまいたいのか」
「……死んでしまいたいんじゃない」
伸びた前髪の下から、初めて会った時とかわらぬ美しい黒曜石が見上げている。
魅入られたように動けない十兵衛の前で、2度、ゆっくりとまばたきしてから、唇がゆっくりと言葉を紡いだ。
「僕はこの樹の下で髪を切るたびに――殺しているんだ。
殺さなくてはいけない想いを」
「……それは、」
「髪を切りながらでも話せる?」
「あ、ああ」
黒曜石の瞳が閉じられる。
細心の注意を払って、前髪をすくうと、ひそやかな吐息が手の甲にかかった。
「忍ぶ恋、って言うのかな。……もうずっと、想いを殺す為に、髪を切って、この桜の下に置いていく、それを繰り返しているんだ」
「……なぜ、忍ばなければいけない?」
「優しい人だから。きっと、僕が想いを告げたら苦しめる」
「……お前に想われて、嫌がる人間などいるものか」
「いいんだ」
「かづ、」
「いいんだよ」
手にやわらかく触れつづける吐息。
優しい声を花月はつむぎつづける。
「死んで捨てられた『その人を想う僕』の死体の上に。こうやって綺麗な花が咲いている」
僕はそれだけで構わない、と花月はひどく、綺麗に――微笑った。
ちょっとした山になった髪に土をかけ。
十兵衛を振り返って花月は笑う。先程の笑い方ではない。いつもの通りの、明るい含み笑いだ。
「帰ろう、十兵衛」
「花月……」
「そんな顔しないで。君がこうして髪を切ってくれるから――想いを断ってくれるから、僕は重い髪を捨てて、こうして生きていけるんだ」
帰ろう、とごく自然に十兵衛の手を取り。やや軽くなった頭を面白そうに振って、花月は綺麗に笑う。
誰を想って笑うのだろう。
誰を焦がれて、あんな、あんなあおざめた頬を――
「――オレは、」
歩き出した花月に手を引かれてだが歩き出さず、
「十兵衛?」
「……オレなどでは不足かもしれんが、オレはずっと、」
お前を――と言いかけて、きり、と一瞬歯をきしらせ、
「お前と共にあるから――友として、『筧』として」
「……うん」
かなしげに笑って、そっと、花月はつないだ手を振る。子供の頃のように。
『優しい人だから。きっと、僕が想いを告げたら苦しめる』
それは、きっとお前のことだ、――そう、半歩後ろを歩きながら、十兵衛は思う。
誰かかなわぬ相手を想うお前に、俺が想いを告げてしまったら、もうお前の傍にはいられまい。
だから。
花月の髪が、できれば俺の想いも吸って、一緒に地中に埋もれてくれれば。
せめて捨てる想いだけでも、あのすこやかに美しい桜に吸い上げられて、春が来るたびに花と散れたら。
互いにその瞳に映るのは互いだけだと、知らぬ彼らは愚かに愛しくすれ違ったまま。並んでゆっくりと、結界の外に追われ行く。
無駄に捨てられつづけるその想いを知るのはただ――人知れずがらくたの城に咲く、一本の桜の若木だけだった。
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