惨酷なる優しき獣




伸びてきた手の美しさに見惚れていた。
闇の中、かすかに輝いて見える白き腕は、ゆっくりと銀次に絡みついた。
女の腕のやわらかさではなかった。修羅を斬り夜叉と化した、傷だらけの腕だった。首に触れてきた感触は冷たく、固かった。それでも、綺麗だと心から、思った。
蜘蛛の脚のように首を這う指が、ふと、そのまま首に食い込んだ。苦しくて脚で相手を蹴りつけるが、容赦なく手は首を締めあげた。
いつもの夢だ、と、どこかでわかっていながらも、苦しくて苦しくて、泣き叫ぼうとした時。
(――いつもの夢じゃ、ない……?)
あの無力なる幼き日々、絞め殺されかけた遠い思い出、過去の呼び声が喚起する夢と、これは違うのか。
そうだ、すらりと伸びて自分を殺そうとしている、この腕の白さと細さはどうだろう。どこかで見たことが、と首を振ろうとして、いっそう強い力で締められた。
(ああこれって……ビーナスの腕ってやつなのかもしれない)
この腕に抱かれて眠りたい、と思った瞬間。視界は開けて腕の持ち主が闇にほの白く浮かんでいた。


「――赤屍さん」


声がうまく出ない。名を呼びたくてたまらないのに。
目の前の美しい異形は、おっとりと赫瞳を見はって自分を見つめている。どこか、不思議そうな、……いや。不思議そうなのではない。
「……どうしたの、」
「何がですか?」
非現実的なまでに、あたりまえの、日常的な会話が流れる。首を絞めている者と絞められている者の、第一声だとはとても思えない。
首を絞める力が強くなる。苦しさに思わず、手を挙げてその手を掴み、ひきはがそうとした時、ふと、現実と夢の区別がつかず混乱する。これは夢なのか、夢から醒めた現実なのか、それとも最初から現実なのか。
目の前の赫瞳が、少し近づいて自分を見つめ直した。どこまでも蒼ざめて白い、綺麗な顔。やわらかそうな黒髪。何よりその瞳の中に、
「……なんで、……そんな、……ゲッ、」
喉仏を親指が押え込み、嘔吐感にえずく。
「なんでって、……なんで殺すか、聞きたいんですか? 今更?」
そう、ぞくぞくするようなテノールで囁きながら、覗き込んでくるその瞳、夢を見ているようにどこかぼんやりと頼りなくにじんだ真紅。
「ちが……ねぇ、おねが……」
必死の思いで、手で手を掴むと少しだけ力が緩んだ。
「なんですか?」
「なんでそんな、」


「途方に暮れた顔、してんの……?」


「……途方に?」
少し困ったように、細い首をかしげる目の前の白い顔。
しどけなくローブなんて羽織っているだけの身体だから、その細さはちっとも隠れていなくって。
思わず折ってしまいたくなる首だ――と、評したのはどこの壊し屋だっただろうか。
「……オレを、殺したい……?」
「当然でしょう? 私がいつも言っていることを忘れたんですか?」
「ちが……グ、ゥ……寝てる、オレを、絞め殺したいの……?」
「……え?」
ふ、と、力がまた少し弱まる。
指から手を離し、ずくずく言うこめかみと息苦しさに、気が遠くなるのをこらえて、そっと、手を伸ばしてみる。
少したじろぐように離れかけた頬を、怖がらせないようにそっと、両手で包んだ。
冷たい頬だ。そしてさらりとしていて、きめが細かくて、夜目に驚くほど真っ白い。
この人は息をしているのだろうか、そんなことが不安になって、言葉を紡ぐことを止めた淡紅色の唇に、そっと、指をすべらせる。
喉にかかる力がまた少し抜け……どこか、追いつめられたような瞳で、頬蒼ざめた死神はふるふる、と首を振る。包み込んでくる手のぬくもりから、逃げるように。
その拍子に、吐く息が微かに指先に伝わって、思わずほっと安堵した。


「……赤屍さん、」
喉は大分楽になっている。それでも、手を当てられて力をこめられているだけで、時折えずかずにはいられない。だが、過去の亡霊が恐怖として襲い掛かってこないのは、自分でも不思議だった。昔の自分なら、首に手がかかっただけで暴走していたというのに。……この腕があまりにも綺麗で、この顔がこんなに頼りないからだろうか。
何ですか、と聞き返す声はなく、どこか硬い表情で目の前の顔は見つめ返してくる。
声が聞こえないのが、さびしい。
「素手で人殺したこと、って、ある?」
「……」
「ない、でしょ?」
「さぁ。覚えていませんね、殺した相手のことなどは」
「俺を殺したいなら、メスで……殺せば、いいでしょ?」
この人にとっては、わざわざ馬乗りになり、力を込めて首を絞めて人を殺すなんて、えらい手間に違いない。
たった一ヶ所、軽くメスを、鍼灸医のようにとん、と差し込むだけで、人を殺せる化物なのだから。
それが今こうやって。やり方も知らなげに、ぎこちなく、いっそ愛らしさすら感じる困惑っぷりで自分の首を絞めている。
「……別に、殺し方なんて、」
言いかけて黙り込む顔が、青白い。優しく唇を撫でてみても、吐息はもれない。息をつめているのだ。
理屈なんてわからないから、素直に、感じたことを尋ねてみる。
「赤屍さん、」
「……」


「……もしかして、苦しいの……?」


手が離れた。
「あ、」
「違います」
「待っ――」
呼び止めかけた時、不意に視界は闇に変じ――


眼が醒めた時、厚く閉ざされたカーテンの隙からは、眩しい光が細く白く、シーツの上に一条の歪んだ筋を描いていた。


「……夢、……だった?」
途方にくれた自分の声だけが、やけに間抜けに響く。
いつものように押しかけた、あの人の泊まっているホテルの一室。ダブルベッドの隣は冷たく、部屋の中に気配はない。
ぐったりと疲れた身体を、むりやり動かしてベッドから降り、バスルームへと移動する。
鏡に映る、見慣れた金髪、寝不足の疲れた顔、鏡の向こうの自分が、視線をわずかに下ろしていくのが映り――
「……赤屍さん、」
喉にくっきり残った紫の、細く長い指の痕。
しばしそれを眺めてぽつりと、


「……ごめんね」


被害者は加害者へと、ひどくさびしい声で謝罪する――


「荒れてるね、ジャッカル」
歩く速度すら落とさず、粛々と進む黒衣の左右に、血と肉片と叫喚が乱舞する。
片手で静かに帽子を押さえ、ロングコートの裾を綺麗に揺らせて歩く姿は、まるで、周囲に一方的に弾ける虐殺に、まったく関係がない存在であるかのようだった。――それを作り出している張本人でありながら。
「近頃は、彼が押しかけるたびにそうじゃないかな?」
「何が言いたいのですか、鏡クン?」
姿は見えない。ただあの耳障りな笑い声を含んだ、悪戯っぽい低い声だけが耳元に囁いてくる。
白手袋に包まれた手が翻ると、キン、と音がしてライフル弾が地に転がった。
「あのビルだね、狙撃点。殺さないの?」
「面倒です」
「ねぇジャッカル、彼に『オカサレル』のはそんなに苦しい?」
ぴたり、と、足音すら立てぬ革靴が、動きを止めた。
「……鏡クン」
「身体が犯されて――心が侵されていくんだろう?」
「何を、」
「自分がとても息苦しいから……寝てる彼を息苦しくしてやりたくなった、違うかな?」
帽子の下の表情は見えない。
完全に動きを止めた赤屍に、一瞬とまどった様子を見せたものの、すぐに、群がる奪い屋の攻撃が再開される。
「ジャッカル?」
優しくあやすような耳もとの声。
「……『ここ』に帰って来たら……二度と、そんな想いもしなくてすむんだよ……?」


「……馬鹿に、してますね。
 誰も彼も」


いつのまにか、手袋の両手に出現したふたふりの、真紅の新月刀がゆらりと打ち振られ――
次の瞬間、場に動いているものは、黒衣の死神ただひとりとなっていた。


刀が形を崩しながら自分の掌にもぐりこんでいくのを、ぼんやりと眺めて、形のよい薄い唇がつぶやく。
「私があんな子供から逃げるとでも思っているのですか、鏡クン?」
「……逃げないのではなく、逃げらレ――ナ――――――ァ」
シュン、と空気を裂く音と共に、路地の片隅にメスが突き立つ。
煙を上げているスピーカーにはもはや一瞥すら与えることなく、再び粛々と、片手で帽子を押さえたまま、死神は黒衣ゆるがせて歩きつづけた。


金の獣の匂いが残る、己の身体をことさら血飛沫にさらし――半ば真紅に染まった白皙の美貌に、絶望に満ちた無表情を浮かべ。
ただ、粛々と、葬列のように。