夏草の線路



蝉の鳴き声が、灼けつく空気に飽和していた。鼓膜が引き裂けそうで、思わず十兵衛は片耳に手をやった。
「ふふ、」
隣でちょうど同じ仕草をしていた花月の唇から、小さな笑声が漏れた。怪訝そうに十兵衛が、瞳閉ざされたままの顔を向ける。そういえば見えないのだ、と今更に実感して花月は軽く、十兵衛の耳の脇の手に手を触れた。
「暑いね」
「まったくだ」
そしてきっと、全てが白く灼けつき焦げつくほどに眩しいのだろうと、言葉に出さず、十兵衛は天を見上げることでその想いを表わした。じりじりと汗がTシャツの下を滴り落ちる。いっそ上半身裸になってしまいたいほどである。
「すごい草の匂いだな」
「うん。……それと土の」
ぴぃぃん、と花月の片手にあや取りのように張られた弦が、先ほどから細かく震動して幽かな響きをたてている。虫追いの音だ。おかげで蚊に刺される心配もない。
蝉の音と夏の陽に追われるように、ふたり、やや顔をうつむけて歩きつづける。ぽつりぽつりと、言葉を交わしながら。
やがて、蝉の留まるような木々がなくなるにつれてその破壊的な音も遠ざかり。ただ逃げ場のないぎらぎらと暴力的な陽光と、伸び放題の雑草だけが広がる風景へと、二人は辿り着いた。
ぽつりぽつりと、使われなくなった倉庫のようなものが遠くに横たわっている。辺りは死んだように静まり返っていた。
「……あ、」
花月がふと、うつむけていた顔をそのままに、その場にしゃがみ込む。
「花月?」
「ああ、こんなに近づかないとわからない」
「あったのか?」
「うん、ほら……」
手を伸ばしてそっと十兵衛もしゃがませる。その嗅覚がたしかに、錆びた鉄の匂いをかいで頷いた。
手探りに伸びた手が、陽光に熱く焼けた鉄塊に触れ、ばねじかけのように引っ込む。
「大丈夫?」
「ああ、心配ない。……ここか」
そのままふたり、奇しくも同じ方向にずっと、顔をめぐらせた。彼らの足下まで続き、彼らの足下からさらに続く、鉄の道――
昔、ここには鉄道が敷かれていたのである。


「すっかり雑草に埋もれてしまっているな。そんなに昔のことだったのか」
「少なくとも、10年近く昔には違いないと思うが……」
「そうか。……そうだな。昔、だね……」


それは、まだ苦難の道もがらくたの城も、謀略の罠も遠い世界のできごとだった頃の彼らの思い出。
ろくに外に出してもらったことすらない花月が、一度電車に見てみたいとせがむのに負けて、十兵衛はこのささやかな単線のレールが見える丘まで、花月の手を引いてきたのだ。
実際には、そんな我侭が通るはずもないと、幼心にかなしく自覚する花月は、ただ、1時間に1本、かたこととのんびり通って行く電車を見て歓声をあげるも、決して「あれに乗りたい」と言い出すことはなく。ほとんど数えるほどしか乗っていない乗客に、振袖姿でせわしなく手を振り、「あれはどこへ行くの」と十兵衛に息せき切って尋ね。そして帰りをうながす十兵衛に「また来ようね」としっかり手を繋いで笑いかけるも……二度と、電車を見に行きたいと、我侭を言うことはなかった。
「……あの時、」
「うん?」
問い返す声に返答せず、花月はしゃがみこんだまま膝を抱えた。十兵衛は片膝をついてその肩に軽く触れる。気遣う友人の顔で。主治医の顔で。
この距離、この関係が彼らの過去であり、現在であり、未来。……の、はずだ。そしてそれに耐えていけると、十兵衛は思っていた。だが……
十兵衛は置いた手をゆっくりと、不自然でないように気をつけつつ離して己の膝に置いた。花月がちらりとそれに目を向けたが、十兵衛は気づかない。
「僕を邸に連れて戻った後……キミ、ひどい折檻されただろう」
「……さぁ、覚えにないが」
「相変わらず嘘が下手だね、十兵衛」
苦笑して花月は、夏の暴虐に萎れる雑草を軽くつついた。十兵衛には表情は見えないのに、顔をうつむけたまま。
「花月、」
何か言いかけた十兵衛の言葉を遮るように、花月はぱっと立ち上がった。
「ここが廃線になったって聞いたのっていつだったかな、2年ぐらい前? きっかけはなんだったか君は覚えている?」
MAKUBEXが路線図のプログラムを出して遊んでいたんだ、と、答えながら十兵衛も後を追って立ち上がる。1メートル半ほど先に、間違えようもないたおやかな気配が、夏の陽炎のように咲いていた。
『十兵衛、ねぇ十兵衛、あの電車はどこへ行くの!』
あの日の華やかな笑い声。
幼い心の、幼い世界の、その中で互いがすべてだった、互い以外を知らなかった、そんな夏の、今と同じように陽は暴力的に暑かったはずの、なのにやけに優しくやわらかい思い出。
立ち上がった十兵衛を見上げ、すぐに視線をそらして背を向け、遠くを見晴るかすようにせのびをして花月は言葉を継ぐ。どこか熱に浮かされたように。
「あの頃の僕は、この電車が無限に続いているような気がしていた……本当はとても短い単線列車でしかなかったのに。
 永遠を、信じていたんだね」
いつまでも変わることなく、母は厳しくも優しく、邸は四季に姿を巡り、そして花月の斜め後ろには十兵衛がいて、手を伸ばせばその手を握り返して笑ってくれると。
……いつまでも同じ場所に立っていて、振り向けばそこにいて、そして手を伸ばせば触れるけど、手を伸ばさないと触れてくることはないと……
「今ならわかるんだ。
 ……僕たちはレールの上を走っていたから、不変でいられたんだね、十兵衛……」


もしもあのまま、あの幸福な、小さな世界の中にいることができたなら。
花月も十兵衛も、いつか妻を娶って血脈を育み、教えを伝え。
十兵衛は妻よりも子よりも花月を想い、花月はそんな十兵衛に支えられ。
そうやって生きていくことも、きっと赦されていただろう。
けれど眼前にレールはなく。ふたりだけが至上だった小さな世界は喪われ。
十兵衛にはMAKUBEXが、花月には銀次が。見届けるべき存在として現れた。
風鳥院という重き名への、畏敬の念だけがふたりに残されて、それを背負うとも振り払うとも決められぬまま。ふたりの道は分かたれて悲劇を生んだ。
互いを手に入れたいと願う欲と、互いだけで世界の埋め尽くされることへの畏れが乖離して……1メートルの距離を生む。


目の前の1メートル。それをつめて、それから?
ただ隣に立つのか、ただ後ろに立つのか、抱き寄せるのか、……1メートルの距離を保つのか。
それさえも決めることができないまま、十兵衛は踏み出しかけた足を止める。
1メートル先の気配は、誰よりも大切な気配。
この気配が喪われれば、己に生きる意味も理由もなくなるのだと、今でもそれだけは変わらずに大切な。


「十兵衛」
呼ばれて顔を上げ、反射的に一歩踏み出す。
「一緒に考えよう」
気配が動く。手招いたのか。すぐに、十兵衛が見えないと知って近づいてきた。
互いに一歩踏み出すと、互いの気配は目の前にある。
「僕たちが何なのか。僕たちにとって互いが何なのか」
汗に濡れた手が汗に濡れたTシャツを引っ張った。


「僕たちが互いの何になりたいのか」


手を挙げて思わずその髪に触れ。
変わらぬ絹糸のような感触が伝わってなぜか、不意に安堵する。
笑師は、惚れた女の膝の上で死にたいと言ったけれども。
自分が最後に還るのはこの絹糸の感触だと。
……こんなよじれた、苦しんだ、悩んだ声をしながらなお。十兵衛に甘えるまいと。負担になるまいと。懸命に声を紡いで、彼を導こうとする年下の生意気で可愛い主君。
「……考えよう」
確かめるように、十兵衛もそう囁いて。
恋人でも主従でも親友でも、あるいはもっと遠ざかることを、ふたりで考えて、そして決めたとしても。
自分がいつかこの愛しい存在のために死ねたら良いと、願いつづけることだけは変わりはしないのだと、それはきっと、二度と花月に言うことはないけれど。


「考えよう、一緒に」


十兵衛の手がぽん、と花月の頭を叩いて、手探るとでもなく自然に花月の手をとる。
「十兵衛?」
「暑くて気が探れん。先導してくれ」
それが言い訳なのは、互いに見え見えではあったけれども。
子供の頃に返ったような仕草にほっと、花月は吐息をつく。
この人を欲しい――という想いだけで動いてしまうには、花月には少し、しがらみが多すぎて。
この人そのものを含め、大切にしたいものも多すぎて。
「……うん」
手を握って半歩先に歩き出す。
日はいつしか西に傾き。
蝉の声が近づきはじめる。
あの日の線路に背を向けて。
汗ばんだ手を取り合って。


『十兵衛、ねぇ十兵衛、あの電車はどこへ行くの!』
『遠くに行くんだ。俺たちも知らないような遠い所』
『どこまでも?』
『どこまでも!』


傍らを駆け抜けていく作務衣と振袖の幻影に、目を細め。
つないだ手を振りながら、ふたりはゆっくりと歩きつづけた。