我が背 君がため
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「十兵衛、あなた」 わずかに眉をひそめた朔羅が、そっと袖を引いて十兵衛は振り返った。一瞬、ピキ、と背中がひきつるが、平成の表情で押し通す。 そのまま何食わぬ顔で問い返した。 「どうした、姉者」 「……十兵衛?」 ものやわらかな声が彼方より呼び、「ああ、すまん」と言いかけると朔羅が押し被せるように言葉を引き継ぐ。 「十兵衛ったら、袖のほつれが」 「姉者、そんなことで――」 「いいんだよ十兵衛、先に行ってるから」 「しかし花月、」 ニコリと笑って花月は背を向ける。 ひどく気が焦って、十兵衛はきつい眼差しを、袖を捕らえて離さぬ姉へと向けた。 だが同じ程にきつい眼差しの姉の顔に、難詰の言葉は飲み込まれる。 「姉者――?」 「服を替えていらっしゃい、十兵衛」 「……?」 「背中に血がにじんでいるのよ」 十兵衛は言葉をのみ、ややあって黙って頷いた。 「今取りに行かせたから」 「すまない、姉者」 素早く左右を見てから、その場でTシャツを脱ぎ捨てる。 朔羅が一瞬眼をすがめるようなものが、そこにはあった。 「……じき治る」 雰囲気を感じ取ったのだろう、十兵衛がぽつりとつぶやく。 筋肉の揃いはじめた、少年から青年に移るはざまの背中。 肋骨に添って脇腹まで、みみずばれのようなひっかき傷が走っているかと思いきや、肩甲骨は重いものを落としたような打撲の跡が蒼く残っている。腰の辺りには、鋭利な刃物で切り裂いた裂傷が、傷は塞がりつつも、赤黒い血の跡をこびりつかせていた。 「手当は、」 「薬臭いのは好かない」 「……あなたって子は」 朔羅はうつむいて瞳を伏せる。十兵衛が暗に示したことを、理解したのだ。 薬の臭いをさせていれば、花月が必ず感づくと。 それでも、メンバーの足音に顔を上げ、十兵衛が見えないように巧みに視線を遮って服を受け取ると、早々に追い出す。 腰布を取り、手近に水がないために乾いたまま、弟の背から血糊をこそぎとった。 「すまない、姉者」 それはきっと、腰布を汚したことへの謝罪では、なかったのだろうけれども。 「洗えば落ちるわ」 敢えてそう言いきって朔羅は、新しい服に身を包み、花月の後を追う十兵衛を、見送った。 知らず、胸の前で手を組み合わせ――そんな宗教には縁がなかったのに、そのまま、祈るようにきつく己が手を握りしめたまま。 『――――――――ッッ!』 声にならぬ絶叫と共に跳ね起きた花月を、力ずくで押さえつける。 あの美しい、誰もが風鳥院の大輪とたたえてやまなかった少女めいたかんばせが、憎悪と苦痛にひきつり歪んでいるのを見て、息を飲んだ。 『花月……花月! 目を覚ませ、かづ――』 人間とは思えない力で背をひっかかれ――いや、皮膚をえぐりとられ、必死に苦鳴を殺して覆い被さる。 『花月……大丈夫だ、花月、大丈夫だから、』 「殺してやる」とか、そんな「人間の言葉」を叫ぶうなされ方なら、どんなに安心できただろう。 いや、言葉にならなくてもいい、獣のように泣き叫んでくれるだけでも―― 『……ッッッ……!』 ただ、覚醒して、ヒィ、と息を呑んで。だが、一声でも悲鳴を上げたら己が壊れてしまうとでもいうように、ひたすら、限界まで見開いた眼で天井を睨みすえ、シーツを握りしめて引き裂く。 その手をシーツから引き剥がし、握り、己の背に回させて抱きしめ、思いつく限りの言葉を、かけて、かけて、……最後には、己の無力さにぎしぎしと胸を締めあげられながら、ただ、その名を呼びつづけ、抱きしめつづける。 叫ぶ言葉さえ、憎悪の悲鳴さえ、奪われた、裏切られし当主、彼の大事な大事な姫若。傷ひとつつけまいと、強き風にあてることすらためらって、走れば転ぶかと焦り、跳べば落ちるかと慌て、いつかは、共に妻を娶り、互いの子をまた行き通わせ、……そうして時は過ぎていくのだと、信じて疑わなかったのに、なのに。 この昼なお薄暗い、みじめながらくたの城でたったひとり。……十兵衛のように姉とふたり、共に生き延びようと誓うことすらできぬ、最後の、唯一の「風鳥院の大輪」が。この広い世界にたった一人の「皆伝」が。憎悪と恐怖、焔の赤と闇の黒、裏切りと殺意に引き裂かれ、ずたずたにされ、やっと逃げ延びてなお、心休まる時もなく。 夜が来るたびに、壊れ逝く自分自身と血みどろの闘いを繰り広げている。 殺してやりたい、己を。これほどまでに、しがみついた十兵衛の背をかき裂くまでに、蝕む狂気に抗っている、誰よりも大切な、誰よりも愛しい人を、抱きしめる以外に何もできない役立たずの己を。狂わせてやることも、引き上げてやることもできない、ただ、傍にいる以外に術を知らぬ、いや……知っていても踏み込むことのできぬ、醜く弱き己を、……殺して、力強い己を新たに生まれ変わらせたい。 洗濯機の蓋を閉めた手の格好はそのままに、朔羅はしばらく、じっと蓋を睨んで立ち尽くしていた。 細かい振動が、蓋を押さえた手に伝わってくる。洗濯機の中で回っているのは、十兵衛のTシャツと、それから…… 花月の手の返り血を拭ったバスタオル。 ――……背徳的ね。 絡み合って水の中で踊っているであろう二者に、そんなことを考えてふと、朔羅は絶望にも似た不吉な想いをそこに抱いた。 『カヅキ!!』 せっぱつまったという表現でさえ軽すぎる、そんな十兵衛の声に、ためらわず花月の部屋に飛び込んで絶句したあの晩のことを、思い出す。 しがみついてばりばりと背に爪を立てる花月を、覆い被さるようにして抱きしめていた彼女の弟。 『十兵衛、』 呼びかける声にも気づかぬように、ひたすら主の名を呼びつづける、呼ばれる主の、顔を背けたくなるような恐怖と憎悪の表情…… とっさに部屋に駆け戻り、熱湯やホットミルク、包帯にガーゼ、バスタオル……何かを振り切るように、普段慌てなどしない彼女が走り回って準備を整えた。そうでもしていないと、自分までおかしくなってしまいそうで。 あれほどまでに。 あれほどまでに背を裂かれて、苦鳴ひとつもらさずただ、愛しい者の名を呼びつづける弟と。 あれほどまでに狂気の淵に身を投げ込みながら、最後の一線で踏み止まろうと、声だけを頑なに呑みつづける主と。 ――……どうして。 邸の者は皆、父の厳命によって口には出さなかったけれども。十兵衛のいない所では、皆、心からかの若当主を誇りに思っていたのだ。風鳥院の大輪と、それを支える筧の添え木。まこと、これ以上なき「対」のふたりと、二家のますますの栄を、誰もが信じて疑わなかったのに。 「朔羅さん?」 不意に声をかけられて朔羅は思わず、取り繕うことを忘れて目元を拭った。 巡回を終えたのだろう、花月がベランダに続く扉を開け、外からこちらを覗き込んでいる。気まぐれに、外から帰って来てベランダに飛び込んだらしい。 「……朔羅さん、」 再び、今度は気遣うような、まっすぐな声をそっとかけてきた花月に、さらに涙が出てしまいそうで朔羅は必死に自制した。 「大丈夫……洗剤が、眼に」 「早く洗わないと!」 ひょい、と中に飛び込んできた花月が伸ばした手の、爪のひび割れが朔羅のうるんだ瞳に飛び込む。 「その、」 聞いてはいけない、 「え?」 「その、怪我……は、」 「……ああ、」 割れて血のにじむ爪を目の高さに挙げて、花月は少し見開いているように見える、ひどく無邪気な大きな瞳で……眺めて言った。 「寝ている間に、ぶつけたみたいなんです。 意外に寝相悪かったんですね、僕」 「……そう、」 「それより早く、」 爪のひび割れも構わず、花月は優しく朔羅の手を引いて洗面所へと誘う。 狂気ではない。 狂気と戦うための自衛本能が、忘却という手段をとらせたのだ。 誰も助けてあげることができない、たったひとりの――闘い。 ――どうして、……どうして……! 悲鳴は唇から外に出ることなく。 悲劇の源たる「風鳥院」そのものを否定してしまったら、出会えた喜びさえ否定してしまうのだと、知っているから。 朔羅はそっと花月の手を握り返し、子供のように他愛なく、手を引かれて洗濯機の前から離れた。 「十兵衛」 割れた爪に丹念にテープを巻き、手首に鍼を置いている十兵衛に、頭上からやわらかな声が降った。 一瞬の沈黙を、テープを巻き終え留める作業でごまかし、それを終えてから十兵衛はやっと顔を上げる。 ベッドに腰掛けた花月は、傍らに膝をついて治療する十兵衛をじっと見つめていた。 どこまでも端正で、どこまでも凛とした、風鳥院の唯一無二の宝玉たる黒曜石。 「……花月、どうし――」 「メンバーの子に聞いたんだけど、十兵衛、キミ、背中にひっかき傷つけているって本当?」 ぎくん、と十兵衛の喉が鳴る。 それを見やっておかしそうに眼を細め、花月は首を傾げる。無邪気な傲慢さと、上に立つものの優しさと気遣いを込めた、そんな眼差しで。 「そんな顔しなくたっていいのに」 己の頬を汗が落ちぬことを祈りながら、十兵衛は言葉なくただ、花月を見返す。 だが花月の次の言葉は、十兵衛の予測を大きく外れた。 「そういう傷って、男の勲章だって言うしね」 「……は?」 茫然と問い返してから、はたと花月の言いたいことに思い至る。 瞬間、十兵衛が己の念じたのは「ほっとした顔をするな!」ということであった。 何とも言えない表情で沈黙している十兵衛を、焦りのためだと判断したのか花月はクスクスと笑い出す。 「ねぇ十兵衛、」 あやすような、やさしい声。 「赤ちゃんできたら、筧の若当主だね」 なぜかその言葉がひどく胸に突き刺さる。 花月の、やさしいやさしい微笑。 だがその中に絶対的な……絶望的な孤独を見て、十兵衛は胸の痛みの理由を知った。 「オレは子供は作らんよ」 するり、と言葉が出てしまう。 「どうして」 花月が目を見開いた。 返事の代わりに、手を伸ばし。 何かごみでも払った、といった仕草でそっと……頬の横の鈴をリン、と指先で鳴らす。 「……まだ、未熟者だしな」 その答えは、もしかしたら、言い訳めいた響きを持ってはいたかもしれないが。 「そっか」 花月もニコリ、と笑って首を軽く振り。 鈴の音だけがリリリ、と軽やかに鳴るこの部屋の空気を――十兵衛は、歪んでいるがゆえにひどくかなしく、……いとしいと、声に出さず花月の髪を手で梳くことで己に確認した。 孤独な風鳥院の君よ。 狂気と正気の狭間で姉者さえも――オレさえも、「筧」であるがゆえにその孤独を癒せぬというならば。 この背にしがみつき爪を立てるように、風鳥院の名に、宗家当主の名にしがみつき、臣下を従えることでしか、立ち直ることができぬというならば。 オレは傍らに、その望むままに控えよう。 いつか誰か――その上に立つ者が現れて、おまえを呪縛から解き放ってくれる、その時まで。 だからそれまで、この背をいくらでも裂いてくれ―― 「十兵衛?」 知らず、己が肩を掴むような仕草をしていた十兵衛に、悪魔の少年王は問いかける。 「十兵衛、肩…痛いの?」 「……いや」 つぶやくように答えて手を離す。 「ならいいけど……キミは大事な戦力なんだから、無茶はしないでね」 ニコリ、とやさしい、やさしい笑い。 ミラーシェイドの奥からその微笑を見た瞬間、 ――ああ、そうか。 ひどく昔に思えるその光景を、夢に見た理由を悟って眼を伏せる。 臣下を従え、狂気に立ち向かい、夢に怯え、それでも上へ上へとめちゃくちゃにのぼりつめる孤独な我が君。 ――オレも姉者も、こういう星の下に生まれついたのやもしれんな。 そんな想いに囚われて、もう一度、「大丈夫だ」と手を振ってみせてから……もう誰にも覗かれずにすむ、ミラーシェードと立襟に表情を隠し、小さく笑う。 記憶に甦る――この笑顔と重なる、遠い面影。 ――おまえは、もう大丈夫だな……? 雷帝という拠り所を見つけ、外の世界に羽ばたいた彼の愛しい、最初にして最後の主君。 ――オレの背はもう……いらないな? その言葉が浮かんだ瞬間、ひどい疲労に襲われてひとり、瞳を閉じる。 それでもいい、花月が健やかに己の道を進めるならば、と、疲労と虚無の中でもなお、自分が思えたことに……十兵衛は少しだけ、安堵して瞳閉じたまま、かすかに頷いた。 そっと胸中に呼んだ名、まさにその人が、外の世界より彼の刃の前に立つとはまだ…… 夢にも思わずに。 |