重症患者たちの恋




銀次はふたつの病に冒されている。
それは慢性金欠症と、そして慢性恋愛症。


報われぬ恋をする青年の常で、彼は想い人に熱心に贈り物をしようとする。
しかし不知の病はふたつ。
慢性恋愛症のおもむくまま、君にこの夜空をプレゼントしようと気取ってプラネタリウムに招待する、そんなイカれたことに使う金銭すら、彼の自由にはならない。
……もっとも、そんな真似をして彼の命が保証されるはずもないのだから、慢性恋愛症とバランスをとった彼の慢性金欠症は、病名に反して彼の命を救っていると、言えなくもない。


それでも彼は、安っぽくもチンケな日常生活の中で、彼が見つけた感動を懸命に、つたない懐をやりくりして想い人にプレゼントする。相手はただの想い人ではない。人間ですらないかもしれない――と、彼の周囲の友人たちは危惧するが、彼は聞く耳を持ちはしない。
博物館の前の屋台のたこ焼きが、すっごく美味しかったんだよ。
このゲーム知ってる? 身体を動かすゲームは嫌いじゃないって言ってたよね?
今日は晴れるんだって、夕陽がきっとすっごく綺麗だと思うんだ。
……そんな彼の熱心なアプローチを、もてあましたようにぽつんと少し離れて、想い人は眺めている。
どうして自分はここにいるのだろう、といった物想う表情をしながらも、想い人は物珍しさも手伝ってか、案外銀次につきあってくれる。常に変わらぬ黒衣、常に変わらぬ物憂い相貌、常に変わらぬ不吉な静寂、常に変わらぬほのかな殺気。……それでも、銀次が差し出したたこ焼きも食い、無感動な瞳のままでも、じっと夕陽に眼を注ぐ。
ゴージャスに金を使うことなど、この無機質な死神は望まない。何かちょっとした、不思議や意外さこそが、退屈に死にかけるこの病んだ精神を癒してくれるのだ。
本能的にそれを知る銀次は、ふたつの病にふらふらしながら、今日もまた、チープな感動を想い人に披露しつづけている。




だがある晴れた夕暮れ、血を見る機会もなかった簡単すぎる仕事の後、物憂く、銀次が教えた夕陽の美しさをじっと鑑賞している死神は、その銀次が差し出したものを見て、ふと表情をかげらせた。
「あんまり綺麗だったから」
まるで戦いでも挑んでいるかのような――いや、確かにそれは二人の精神の領域を奪い合う戦いだった――、まっすぐな、大きな薄茶の眼が、死神のうつろな瞳を捉えて離さない。
「赤屍さんに見せたくて、買っちゃいました」
銀次が差し出したまま、赤屍が受け取るまでは頑として引っ込めない、と全身で語るそれは、滑稽なことに、ひどく可憐な一輪の、紫色のガーベラだった。
「今は紫に見えるね、夕焼けがあたってるから。でも本当は蒼いんですこれ」
薄暮に移り行く風景の中では、死神の瞳もまた、赤から濃紅へと変化する。そのせいか、表情が常よりさらに、沈んで見えた。
子供の傲慢さで、王者の強さで、恋する青年のがむしゃらさで、銀次は花を差し出して動かない。
死神は黒衣に包まれて沈黙している。
だがやがて、ひどく緩慢に手を伸ばし……ふ、と青年の口元がほころんだ、と見るやその手を一気に横に薙いだ。
はらはらと紫に染まった蒼が散り、茎が指先のメスで寸断され、銀次の手を離れて落ちる。
「……赤屍さんっ」
受け取ってもらえるとは思っていなかったのだろう。憤りすらなく、ただ、まっすぐに。ただ、真剣に。濃いトパーズの眼はしっかり見開かれて10センチ上の顔を見上げている。
何かを、奪い合っている。何かを、与え合っている。恋を知らぬ死神に、自分は恋を叩きつけている。理屈でなくとも、銀次は身体でそれを理解しているのだった。ゆえに、一歩も退くことはない。
先に視線をそらしたのは、深く帽子を被って表情ごと、視線を遮断した真闇の死神だった。
「次の仕事がありますので」
けだるい声がそう告げて、黒衣はゆったりと翻る。
翻った瞬間に、ふと滑り出た、といった様子の一言が漏れた。
「……形として残るものは、いただきたくありません」


滑るように、物静かに去る薄暮の中の闇を、銀次はじっと見送った。
「うん、」
相手に聞こえない、と確信できる距離になってやっと、答えを返す。
「次は、何か美味しいものを探しておくね。
 ……食べたらなくなっちゃうようなヤツをさ」
理屈を知らぬ青年は、与えられた一言を理解できぬままに、だが、その一言を相手が投げるようになってくれた、ただその一事を大事に抱きしめるのだった。




MAKUBEXの使いとして、電脳の海を介するには少々危険ないくつかの伝言を、伝えに死神の部屋を訪れたのは十兵衛だった。
礼儀正しくドアをノックし、少し部屋の中で何か身じろぐような気配ののち、そのドアが開かれる音を聞いて中に入る。
街中ではさすがに包帯で歩くわけにも行かず、鏡面加工のサングラスをかけた盲目の男は、一歩を踏み込んで足を止めた。
「……どうしました?」
そこはかとなく沈んだ、ものやわらかなテノールに問われ、ややあって、正確に「それ」の方角を向く。
「蝋燭を、灯していたのか?」
「……いい鼻ですね」
蝋燭を灯していたこと、それをつい今消したこと、どちらも同時に言い当てられて、死神はほの暗く笑ったようだった。
「和蝋燭は、懐かしくてな……」
十兵衛はそう言うにとどめ、死神のほの暗い思考には気づかなかったふりをした。
ヨーロピアンスタイルの瀟洒なホテルは、仲介屋が手配したものか。明りがつけられている気配はなかった。十兵衛がドアをノックするまで、この部屋の明りはたった一本の和蝋燭のみだったのだろうか。
暗闇に視界を失わぬふたりの男は、ビジネスの話を手短にすませ、それから、ふと訪れた沈黙をじっと味わった。
珍しく、沈黙を破ったのは死神の方だった。
「……和蝋燭は良い匂いがし、煤もほとんど出ないと銀次クンに吹聴したのは、キミですか」
やわらかく闇深い声をしたこの死神が、どんな格好をしているか、十兵衛は知らない。衣擦れの音からして、シャツとスラックスのように思われた。想像の中の死神はひどく白かった。黒衣ひとつを脱がせただけで。
十兵衛は軽く頷いた。
「キミのせいで、私はキミの元上司に部屋まで乱入され、どんな匂いだろうねぇどんな明りだろうねぇと騒がれた挙句、蝋燭を押しつけて置いて去られてしまいましたよ」
「……良い香りだっただろう? 煙草の残り香を消す効果もある」
十兵衛のその言葉に、決して悪気はなかっただろう。だが、死神の口元は神経質に歪んだ。彼の黒衣を煙草のにおいで染め上げる男が、ひとりいた。無骨な……朴訥な、それでいて怖ろしいひとりの運び屋が。
「銀次さんは、贈り物に意味を持たせるほど搦め手に長けてはおらんよ」
心を読んだかのごとく、十兵衛はぽつりと言った。その愚直とも言える物堅さは、死神の気を損ねはしなかった。彼は物堅い男が好きだった。物堅くも怖ろしい、情の深い男が好きなのだった。
「……形の残る贈り物は、始末に困ります」
やんわりと彼は、話題を煙草の香りからそらした。「そういうものか」と言ってから十兵衛は、何かを思い出したように、ああ、とつぶやいた。
「そうだな。……困るな。手に持つものが増えていくのは」
死神が何かを言う前に、十兵衛は言葉を継いだ。
「オレの話だ」
眼前のほの暗い気配が尖ったことを、十兵衛は感じ取っていたのだった。彼は思い出していた。MAKUBEXが赤屍の居場所を突き止めた時に意外そうに、へぇ、とつぶやいた時の台詞を。
『珍しいね。いつもはホテルを渡り歩いてるのに、ここしばらく一箇所にいるみたいだよ』
端末ひとつ……それさえも、面倒になればいともたやすく打ち捨てて新しいものを買い求める。ふらりと誰かの元に寄り、ふらりとそこらのホテルに泊まり、この死神は、何も手に持つことはなく、ただ自由に、ただ孤独に、宿から宿を渡り歩く。
家を持つ男が相手なら、その家に、贈られたものを預けることもできただろう。たまにはその家を訪れて、預けたものを眺めて喜ぶそんな、他愛ない楽しみぐらい、この死神にもあったかもしれない。
だが病に盲目となったあの青年には、宿すらない。
夢中になって、彼が贈った小さな一本の蝋燭を、この死神が、ホテルの部屋に据えてひどく純粋に、ひどく無知に、途方に暮れるさまを、十兵衛は想像する。
何も持ってはいなかったのに。
彼の両手は自由だったのに。


一本の蝋燭を使い切るまでは、一輪の花がしおれるまでは、彼は、この小さな牢獄を動けなくなってしまったのだ。


――ここはまるで、この男の心の中のようだ。
十兵衛は心にそうつぶやいた。
無機質な、仮の宿、彼のものは何一つなく、ゆえに、彼は己の心からすら自由であったというのに。
その部屋の中に乱雑に、傍若無人に、小さな他愛ない贈り物が、ひとつ、またひとつと増えていく。
……彼の心の中に懸命に、銀次がひとつ、またひとつと、何か小さな、やさしい痕を残していこうとするかの如く。


「キミは――……」
ぎしりとベッドの軋む音がした。
その音が、疲れ知らずの死神の意外な疲労を伝えた気がして、十兵衛は一歩近づく。
「何だ?」
「誰かから贈り物をもらって、困っているのですか?」
「……ああ、」
朴訥に頷いた自分が医者の顔になっていることに、十兵衛は気づいていた。
「もともと守人だ。物に執着するようになっても困る。それに、ロウアータウンは危険が多い。なりふり構わず逃げ出さなければいけない時に、あれを忘れた、これを取りに帰る、では命を落とす」
十兵衛の言ったことは真実ではあったが、真実の全てではない。彼の最後の一線は風鳥院花月という存在がすべてなのであって、結局、物はしょせん「物」でしかない。たとえそれが、花月の与えたものであっても、十兵衛は、花月の盾となるべき自分が生き延びるためなら、たやすく打ち捨てることができた。自分の命が何のためにあるのかを、彼は知り尽くしているのだった。
だがそれを、この無垢なる殺戮人形に言って聞かせたとて、彼は理解するどころか、今の苛苛とした不安な精神状態を、ますます深めるだけなのだろう。
案の定、
「そういうものですか」
どこか納得したような、安堵したような声でほの暗いテノールは吐き出され、そして、小さな嘆息が聞こえた。
「物はしょせん物だからな。……両手をあけたくなったら打ち捨てる、ぐらいに思っている」
相手に教えるのでも、相手を説得するのでもなく、あくまで己に言い聞かせる口調をとって十兵衛は言った。
「そうですか」
ゆったりたゆたったその声を聞いて、十兵衛はやはり正確に、ハゼロウの香りの元へと歩んだ。ベッドサイドに、小さな陶器の皿と共に置いてある、一本の和蝋燭。おそらく色は赤いだろう。十兵衛はそれを取り上げた。
「声が少し荒れている。体内の『気』が滞りやすいんだろう。良ければ診よう」
手探りにマッチ箱を探り当て、しゅ、とマッチをすって火を灯す。
「ああ……何だかやる気が起きないと思ったら、そのせいでしたか」
あっさりと、己の不調に理由をつけてもらって納得したその身体が、ベッドにうつぶせに横たわっていると声音で悟り、背に手を当てる。
冷たい、気の凍りついた、淋しい背中だった。
――この背中が、銀次さんのあたたかさに触れれば、たわんで歪むのも当然か。
銀次が、戦いのような恋の中で、この死神を追いつめていることは知っているけれど。
医は仁なりと言うが如く、今宵、魂の戦いに倦み疲れた死神を、恋の病から這い上がろうと悶える同じ穴の狢であればこそ、癒してやりたいと十兵衛は思うのだった。




HonkyTonkにすらりとした黒ずくめの姿がある。普段はろくに周囲に気を配りもしないが、今日の彼の、うつろな赫瞳は少し様子を違えていた。
彼は、カウンターに脚を組んで腰かけたまま、頬杖をついてぼんやりと、テーブル席のある一点を眺めていた。珍しく無防備げなその姿が見つめる先には、居心地悪そうに眉を寄せた、ひとりの佳人――と見まがう長髪の青年が座っていた。
赤屍は、鈴の音もすずやかなその美貌を先程から飽きることなく、ぼんやりとずっと眺めているのである。
「……どうしちゃったの、赤屍さん」
先程から、何を話しかけても生返事しかしない想い人に、怒るというよりむしろ気味が悪くなって、銀次はそっとその袖を引いてみた。
それに答えることはなく、赤屍はすまして銀次を無視したまま、ものやわらかな声を、視線の先の佳人――花月にかける。
「キミの大切な彼は……」
「……誰のことですか?」
寄せる眉の間に皺ができ、花月は、キッ、と視線を強くした。美しく整ったその表情をじっと見つめて黒衣の死神は、
「……飛針使いのあの彼は、」
珍しく、きちんと表現しなおしてそして、一度口をつぐんだ。
何をもったいぶっているのか、ときつい視線を送る花月は、だが、ふと、赤屍はもったいぶっているのではなく、言葉を探しているのだということに気づく。
すこやかな幼年時代と、愛された過去を持つ青年は、追及を控えて相手の言葉を待った。
その反応を、言葉を探しながら死神はぼんやりと観察する。
そして少し視線をそらし、言葉をまとめて、うん、とひとり頷いて言った。
「あの彼が丹精込めたおかげで、キミは一般的に言う、『美しい姿』をしているのでしょうね。
 身も心も」


「……………………は?」


凍りつくふたりの元ジャンクキッズを、優雅な身振りで一瞥したのちに、ふわりと立ち上がって赤屍はとどめを刺した。
「とても気持ちが良かったと、彼にお伝えください。……あなたは良い人を傍に置いている」
そしてその視線をやんわりと銀次に流し、律儀なことに、彼にもとどめを刺してやる。
「キミにも見習ってほしいものです」


凍ったままのふたりを置いて、赤屍はさらさらと伝票にサインを施し、そして、戦艦のように機能的かつ堂々たる後姿を、HonkyTonkのドアの向こうに消えさせた。
「かかかかカヅッちゃん、だめだよぅ十兵衛ちゃんと捕まえといてくれなきゃさ!」
「な、そんな、僕と十兵衛はそんなんじゃっ――」
狼狽した声が飛び交う背後に、ちらりと意識をやってひとり、赤屍は帽子のつばに手を当てて低く笑う。
少し、気分が良くなった。あの晩、ねんごろな手当てを受けて「気」が正常な流れに近づいたせいだろうか。
その間、ずっと灯していた和蝋燭が、先日やっと芯まで焦げ果てて寿命を迎えたせいだろうか。
……それとも、あの不逞な重症患者と、そして、あんな尽くされ方を20年間味わってきた贅沢者を、少しは、慌てふためかせてやることができたせいだろうか。
「フ……、」
不意に無骨な男に逢いたくなって、赤屍は淡い笑みを口元に軽くはいたまま、ポケットから携帯を取り出した。今日も新宿を流しているであろう、彼の物堅い運転手のナンバーを、プッシュするために。