オレンジの灯り
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闇の灰色を混ぜた空は、ぼんやりと濁ったオレンジに発光しているように見えた。頭上すぐ近くまで雲は重くのしかかっていた。都市の光の照り返しが、空をこんな非現実的な色に見せる。そして目の前には、非現実の極みたる黒衣が浮かんでいた。……いや、浮かんでいるように見えた。 「……危ないですよ」 恐る恐る呼びかけてみるが返答はない。 ビルの屋上、フェンスの上に腰掛けてあぶなげなく、黒衣の裾をはためかせた死神は空を見上げている。強いビル風が既に帽子を奪ってしまっていた。地上に叩きつけられるように落ちたその帽子を、奇跡的な偶然で拾ったのが銀次だった。この人は風さえ我が物とするのかもしれない。そう思わずにはいられない偶然だった。 誰にも気づかれぬまま、この無人のビルの崩れかけたフェンスに身をなぶらせている頼りない柳の細身に、地上から気づいてどれほど銀次が愕然としたかなど、きっとこの人は毛ほども知らぬに違いない。 銀次は辛抱強く繰り返した。 「ねぇ、赤屍さん。風強いから危ないです。降りようよ」 「オレンジ色の空ですね」 「……赤屍さん」 「西新宿に、澄ましかえっていけすかない仲介屋がひとりいるのですが。彼女がオレンジの灯りを好むのですよ」 ごう、と風が吹いて銀次は思わず駆け寄った。引き千切られそうに黒衣がたなびき、フェンスはきしむ。だが死神の身体は揺らぐこともない。 「彼女は昔、大阪を拠点とする移動性のジャンク・キッズのリーダーをしていたそうで。彼女にとってオレンジの光は、阪神高速の高架下で眠る時の、目蓋の裏の常夜灯なのでしょうね」 声はなぜか揺らぐこともなく、帽子を抱いて眼をつぶる銀次の元まで綺麗に聞こえた。 「ねぇっ、赤屍さん――」 「銀次クン」 おっとりとものういテノールが名を呼び、今は手袋のはめられぬ白き手が、地平線の向こうを遥かに指差した。 「逃げませんか」 「……え?」 「どこか遠く。新宿の光の届かない所へ。 一緒に逃げませんか」 きっと濡れたように光を弾く赫瞳はうつろに開かれて遠くを見つめ、唇は投げやりに笑みの形に浮かんでいる。その表情が目に浮かぶようだった。背を向けられていても。 「どこまでもどこまでも。息ができなくなるまで遠くへ行きたい。 なんだか今日は、そんな気分なんです」 風に髪を遊ばれながらゆっくりと、細い肩越しに青白い顔が振り向いた。 「ねぇ銀次クン。 キミが何もかも捨てて私と来たら。私はキミのものになる」 蒼ざめた人形のような相貌の中でただ、柘榴のような暗い赤がオレンジの光を弾いて濡れたように輝いている。 うち捨てられた夜の工事現場、闇の中に更にぽっかりと深淵を覗かせる昏い掘削跡を思い出すような。……そんな、底無しに暗い、うつろな瞳だった。 何か少しでも欲に濁っていれば安心できるのに。絶望的に澄んだうつろ。 フェンスの上を見上げて銀次は声を呑む。 この人が自分のものになる。 この人のすべてが。 誰も手の届かない所へ、たったふたりで。 ……誰もいない遠くへ。 「……できないよ」 発した声は自分でも情けないほどに震えていた。 赫瞳がぼんやりと発光して自分を見下ろしている、その向こうにのしかかる曇天。 放っておいたらこの人を押しつぶして落ちてきてしまいそうな。 「できない。できないよ、オレ。 赤屍さんが欲しい、オレにあげられるものは何だってあげたい、けど」 黒衣がぼやけて後ろの曇天に溶け入っていく。どうしたんだ、と焦ってから自分が泣き出しかけていることに気づいた。 「ふたりだけじゃ、だめなんだオレたち。 オレには大事なものがたくさんあって、そして、蛮ちゃんと一緒に生きてく。 あんただって大事なもの作って、そして、周りのたくさんと一緒に生きてかないとだめなんだ」 すべてを捨ててたったふたり。閉ざされた世界で滅びるまで一緒にいて、他のすべてから逃げ出して――そんな生き方だって、きっとあるんだろうけど自分にはできないから。 命より大切な相棒。 大好きな仲間たち。 そんなたくさんのものと共に在る「自分」と、一緒に生きてほしいのだ。 「……」 自分を見上げたままぼろぼろと涙をこぼす若者を見下ろし、死神はゆるやかに首を傾げる。 ややあってその口元が、ふぅ、と笑みをはいた、とぼやけた視界でなぜかはっきり銀次が悟った次の瞬間、細い身体はふわりとフェンスを蹴っていた。 ぎょっとしてとっさに手を伸ばし、フェンスに阻まれる。 「赤屍さん!」 フェンスを突き倒そうと殴ると派手に金属の軋む音が聞こえた。 それを尻目に赤屍は音もなく、フェンスの向こう側、ビルの縁に爪先で降り立つ。 「赤屍さん、戻って!」 10cm先は50mの空中だ。銀次は手が血を噴くのも厭わずフェンスの破れ目に手を突っ込んだ。 「銀次クン、」 「危ないよ、捕まって!」 「キミはそれでいい……私には理解できないが」 自分に向けて、フェンスの破れ目から突き出された血まみれの手を見つめ、赤屍は口元に笑みをはりつけたままその手を避けて縁を1メートルほど移動した。 「動かないで!」 「たくさんのものを抱え込んで、『そちら側』にいてください。 ……そんなキミの方が、私も安心するのです」 肩越しに眼をすがめるようにして小さく笑い。 ひどく自然に、赤屍は一歩を踏み出してビルの外へ飛び出した。 銀次の絶叫をよそに、落ちる一瞬前、その背中から無数のメスがせりあがり生み出されて翼の形を成す。 めきめきと金属の軋む音をさせながら、セラミックの翼は夜闇に銀色に光って大きくはばたいた。 舞い上がるほどの力はなく、それでもゆるやかに落下速度をゆるめ、ビルの合間を縫っていく姿はもう振り向かない。 「……赤屍さん」 涙に濡れた声でそれを見送りながら、銀次はかたく瞳を閉じ、フェンスに額を押しつけてそれきり、声を呑んだ。 「早う乗れ。誰かに見つかる前に出すきに」 「すみませんね、いつも」 「まことすまんですんだら、」 「ねぇ馬車」 落ちてきた赤屍を抱き留め、助手席に押し込む馬車は聞く耳を持たず、トラックの扉を閉めると運転席へ回る。 飛び込んで車を急発進させてからやっと、「何じゃ」と問い返した。 「この仕掛の仲介屋ですが」 「ああ、あれがどないした」 「オレンジの光が好きなんだそうですよ」 「……はぁ」 「高速道路の色。風の唸る音のような、車の騒音を聞きながら、オレンジの光を瞼に映して眠った記憶が染みついているのだと――彼女は言っていました。 いけすかない女ですが、この色は私も好きなんです。このトラックで眠る時、浴びる色ですから」 パーキングエリアで、路上で、高架下で、聞き慣れたエンジンの唸り、非現実的なオレンジの光。 「この光の届かないところへ逃げたら、キミのものになると銀次クンに言ってあげたのに。振られました」 「……逃げたかったんか」 「時々ね。何もないところに行きたくなるのですよ」 帽子をどこへなくしてきたのか。青白い顔をさらして死神は小さく笑う。 「でも彼はどこへも行かない。 ねぇ馬車、彼は私が美堂クンやその周りの人を殺そうとしたら、最後には、私を殺して美堂クンたちを助ける方を選ぶでしょうね?」 ハンドルをさばきながら、馬車は片手で、傍らのボックスから煙草を引き抜く。滅多にやらないことだ。くわえて乱暴な仕草でライターをまさぐると、「はい」と赤屍がマッチを擦った。とっさにそれを拒否しかけるような仕草をしてから、馬車は黙って火を受け、深く煙を吐き出した。 どこか夢見るような声で、うつろな瞳を赤屍は静かに閉ざす。 「……彼がああだと安心するのです。 あなたがそうだと安心するように」 おだやかな寝息がその唇から漏れるようになってからやっと、馬車はきしるような低声でつぶやいた。 「……俺がどうだと、おまえは安心すると……?」 フェンスのこちらと向こう、どれほど欲しても決して同じ世界に立てない、相容れない存在だと、銀次と自分の距離を再確認し。 まだ自分たちは敵同士だと、いつかは殺し合う存在なのだと知って安心し――ならば自分は。ここにいてハンドルを握るこの自分は何を以って、この異形を安心させているのか。 瞼の裏のオレンジの光のように。 眠りにいざなうエンジンの振動のように。 そこにただ、変わらず在れば安心するものでしかないというならば―― ぐしゃ、と火のついたままのセヴンスターを握り潰し。 「……きついのう……」 赤信号の間に、ハンドルに額を押しつけて瞳を閉じる。 いっそ殺し合える仲の方が良い――と思うのは傲慢なのだろうか。 奇しくも、赤屍の背を見送る銀次と自分が同じ仕草をしたとは知らず。 後ろの車がクラクションを鳴らすまで、馬車はじっと、ハンドルに伝わる車の振動に額を押しつけ身を任せていた。 |