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不吉に燃える夕陽の赤は、崖下を流れる平凡な清流を、赤銅に輝く緋の川のように見せていた。 花月は崖の上に立ち、息を呑んで、はるか下できらきらと、木々に隠されながらも赤と金にまたたくその流れを、見つめていた。 夕方の風が、湯上りの肌から熱気を奪って吹き去っていく。寒くはない。むしろその風は心地よかった。 「夜が来るな」 斜め後ろでつぶやく、深い声。 「うん…」 曖昧な頷きだけを返し、花月はじっと、その場に佇んで、輝く緋色を見つめ続けていた。 この崖から眺める景観が、美しいらしい。 それを教えてくれたのは、斜め後ろに控えに、夕方の風から花月を護るように立つ――今は花月と揃いの浴衣を着た、彼の大切な、最愛のサムライその人であった。だから、花月は今、この景観がどんなに美しいか、彼と語り、そして、教えてくれたことに感謝すべきなのだろう。 だが、花月に言葉は出てこない。 ――綺麗だね、十兵衛! 子供のようにあどけなく、そう言うことのできた自分は、……そう、ほんの一月前までは、そんな自分もいたというのに。 今の自分は言葉を飲み込み、ただ、うつむき加減に頑なに、憎むように景色をにらむことしかできない。 ――綺麗だね、十兵衛! そう聞いて、いったいどうするというのだろう? 彼には、何も、見えていないのに。 この美しい緋の川の輝きも、眼を射る赤い夕陽の光も。一瞬ごとに黒さを増していく木々の揺れも、何一つ彼には見えていないのだ。 綺麗だね、と、問いかけて。そうだな、と、笑ってくれた彼は、もういない。 ほかならぬ花月が、彼から光を奪ってしまった。 だから、花月は、この景色を見つめたまま、次の言葉を出す術を知らない。 木偶のようにただ……黙っている。 「最近、」 振り向かぬまま背中で聞いていると、十兵衛がゆっくりと言葉をつむぎ出した。 「お前は、美しいものを美しいと言わなくなったな」 「……そんなことは、」 相手には見えていないと知っているのに。振り向けずうつむく。 「あんなに、美しいものに多感な心を持っているお前が。宿の誰もが口を極めて褒めちぎるこの風景を見て、なぜおどおどと黙り込んでいる?」 「おどおどなどと、」 「オレに見えないものが見えているのが、そんなに重荷か?」 振り返って、だが何も言えず、花月は唇をかんだ。視線を上げられぬ花月の前で、十兵衛はどんな表情をしているのだろう。それを確かめる勇気すら、今の花月にはない。 無駄だと知りつつ、こんな僻地の温泉まで、彼を引きずって連れてきて。「きっと治るよ」などと、明るさを装った声をかけてみて。 それでも時折花月は、どうしようもなく、彼の「眼」を直視するのがつらいのだ。 こんな美しい風景を、見てしまった今のような時には、特に。 「……眼を喪って、気づいたことがある」 十兵衛の手が、花月の頬に遠慮がちに触れた。 「……なぁに……?」 「美しいものを語るときのお前の声が、どんなに美しかったかだ」 「な、」 まともな神経を持っていれば、照れて言えないであろうことを、相変わらずさらりと言いきる十兵衛の言い草に、花月の頬はかっと赤くなった。 「……手に当たるものの感触――今触れているお前の肌も、風も、光も、それがどんなに深く、大切で、意味のあることか、それがオレの前に開けた」 花月はゆっくりと、十兵衛の手に乞われるままに顔を上げた。 包帯に覆われた十兵衛の「眼」が、自分をこの上なく大事に、「見つめて」いることが花月には感じられた。 「花月、世界は美しいな」 「……十兵衛……」 「それと、お前も美しい」 「…………………」 どうしてこいつはこうなんだろう、と、ほとんど貧血すら覚える花月に、十兵衛は笑って、ぱん、と軽くその頬を叩いた。 「お前にはわかるまい。お前自身の『気』の輝きは」 「叩くなよ。……だって僕は、十兵衛の『気』の方がずっと美しいと思っているからね」 憎まれ口を叩きながらも、花月は、ひどく大切そうに、頬の上に触れたままの十兵衛の手にそっと触れた。 「十兵衛、世界は、そんなに美しいかい?」 「ああ。おまえの見ているものが見えなくても、おまえの見ていないものが、きっとオレには見えている」 十兵衛の手が、遠慮がちに花月の手をまさぐり、そして握った。 「お前の見ているものがどんなに美しいのか、オレは知りたい。……そして、オレの『見て』いるものがどんなに美しいのか、お前に教えてやりたい……」 じっとその手を握ったまま、十兵衛の、閉ざされたままの眼は花月を見つめ続けている。それを感じながら、花月もまた、夕闇に融けゆく十兵衛の姿を見つめていた。 「……うまく言えないが、花月。オレたちは……そういう二人では、ないだろうか。 何も重荷に思うことなく。……補い合う二人では、いられないだろうか……?」 花月は何も言わず。 黙って、十兵衛の手を頬に押し当て。 そしてその頬の動きで、微笑みを伝えた。 言葉少なに、目の前の風景を語り合って、どれだけの時がたったものか。 「十兵衛、もうすぐ空は真っ暗になるよ」 一番星の見える方向を教えて、花月が困ったように笑う。 「夜になったら、僕が君に教えてあげられるものは、星以外にはなくなってしまうんだろうな。このあたりは灯りもないから」 そろそろ帰った方が良いかも、と見上げれば、十兵衛は小さく笑い返す。 「闇が怖いか、花月?」 「怖くなんかないさ、けど、森の中は足元も危ないし」 「オレには昼も夜も同じだ」 「あ、」 少し眉を寄せて、花月が何か言いかける前に、十兵衛は花月の唇に触れることで言葉を押し留めた。 おとなしく口を噤んだ花月に、内緒ごとを教えるように、囁きかける。 「最近、お前はオレを、まるで力弱い病人のように扱うからな…… 少しは、お前に頼られる状況に立ってみたい、そう思われることは、不快か?」 どこまでも謙虚に、そう問いかける尋ね方をするこの男の武骨さが、花月には好もしい。 「……僕の手を引いて、宿の近くまで連れて行ってくれるかい?」 笑ってそう問い返せば、大真面目に「必ず」と頷いてくれる。 花月は、なつくように十兵衛に寄り添って、そして言った。 「じゃあ、もう少し、こうしていよう。……夜の闇が、僕に目隠しをするまでね」 ふたり寄り添って、見上げる夜空から。 花月にしか見えぬ星の光と、十兵衛にしか見えぬ涼気の風が、やわらかく彼らに降り注いでいた。 |