我思う、されど我はなし




大理石の床の上を、あたたかな音と共に湯が滑っていった。
知らず吐かれた満足げな歎息を、聞き取ったらしい。壁にもたれた観察者の唇から、わずかな笑みが漏れる。
浴槽の中で、森林の香のくゆる白濁の湯に身を遊ばせている客が、顔を上げてそちらを眺める。
「何ですか?」
不審げに、細い眉が寄せられた。普段は、それこそ大理石のように蒼ざめた冷たい頬をしているのに、今はそれがほのかに上気している。
「綺麗だな、と思ったんだよ」
「先ほどから、そればかり言っていますね」
「いくら言っても、言い飽きないんだ」
「私は少し聞き飽きていますが」
「ごめんね、語彙が少なくて」
「お気になさらず」
湯が透明ではないことも、開放感に輪をかけているのだろう。その気になれば泳げるほどの広さの浴槽の中を、ゆらゆらと白き死神は漂う。
本当に、色が白い。常日頃の、憎らしいほどに貞淑な黒衣をすべて脱ぎ捨ててしまうと、この身体に色のついた部分はほとんど失われ、白だけが、無垢なる殺気の象徴であるかのような傷だらけの白だけが、残る。
にごり湯からほんのわずかに透ける身体をじっと眺めているのは――塔の住人。
こちらは、湿気こもる広大な浴室の暑さにも、汗ひとつかかず、上気すらしない。
いや。
そもそもこの男は、服を脱ぎすら――靴を脱ぎすら、していないのだ。
白いスーツも柄物のシャツも、とても水に濡らしなどできなさそうな高価な革靴も、すべて。しっかりと身を包んだまま、浴室の壁に背を預け、2メートルほど離れた浴槽の中のジャッカルを、視姦でもせんばかりにじっくりと観察している。
しどけなく湯に遊ぶ死神と、それを見下ろす着衣の観察者。
なぜか、後ろめたいほどの背徳の漂うその光景の理由は――ただひとつ。


『ジャッカル、キミが殺し合いの次の次の次ぐらいに好きなものをあげるよ。
 せっかくの誕生日だし』


唐突に、赤屍の端末に己の画像データを落とし、話しかけてきた鏡の誘いだった。
ベルトラインに鏡が持つ拠点のひとつに、浴室を造ったからおいでと。言われて最初、赤屍はすげなく断った。
『仮想現実の風呂に入って何が楽しいんです?』
その断りは予想の範囲だったのだろう。たのしげに含み笑う鏡は答える。
『仮想現実じゃないよ。ちゃんとホンモノ』
『……本当に?』
少し心が動いたのだろう。赫の視線ははじめて画像に向かった。
『キミの眼は、幻と現実を見極めてしまうじゃないか。そんなキミに、幻をプレゼントしたって意味がないだろう』
おいで。
そう手招いて画像は消え、端末は落ちる。
晩秋の寒さに、完治しているとは言えどうしても古傷の疼く死神は――無限城という場所の特異さを差し引いても、その誘惑に負けた。


「気持ちイイ?」
壁から背を離し、瞳を閉じてその長身を湯の中でくるりと反転させた死神を覗き込む。
浴槽の底に手を着き、腕立て伏せを終えた時のような体勢になっていた白い身体、その端正な顔がこちらを見上げる。
「おかげさまで、くつろいでいます」
その前髪から滴る雫に、伸ばされた手は、だが、雫に触れることなく。
「背中ぐらい流してあげられると、いいんだけどね」
小さく鼻で笑うと、湯の中の身体は再びくるりと反転した。仰向けになり、浴槽の壁に背を預けると、枠に肘をかけて座る。厳然たる観察者の視線は、湯の中から唐突にあらわれた細く尖った鎖骨に突き刺さった。
「幻に流される背中などありませんね。塔の住人はいつもそうだ。決して実体で降りては来ない。
 臆病な亡霊のように」
「言うね、ジャッカル。幻にだって、刺されれば痛みを感じる。それはこの前の戦いで、実感済みだろう?」
「刺しますか?」
「……これ以上、この身体に傷が増えるのはいやだな」
浴槽にそってかつん、かつん、と靴を鳴らして歩き。浴槽の枠に手をかけてぐっと身をかがめ、端正な白い顔を脇から再び覗き込む。
斜め上から眺めると、そのほっそりとのびた首筋の傷が、上気して赤く浮き上がっているのがよく見える。
斜め後ろからの視線に、赤屍は振り返らない。ただ、冷えた肩を再び湯の中に沈め、浴槽の枠に首を預けてくてん、と傾けた。
「ねぇ、ジャッカル」
「何です?」
「もうひとつ、あげたいものがあったんだよ」
「……?」
おっとりと開かれた瞳が見たのは、湯に浅く差し入れられた鏡の手だった。
一瞬の違和感にまばたきをした瞬間、ピシャッ! と湯が跳ねて赤屍の顔にかかる。
「……――ッ!?」
瞳を閉じなかったのは、反応できなかったからではなく、それを幻だと理性が判断したためだ。先ほど、無限城の幻に慣れた彼の赫瞳は、鏡の姿を仮想現実だと見抜いた。浴槽の水は本物だった。ふたつの事物は触れ合うことはない。ゆえに、鏡の手の上の水は仮想現実だ。


水はあざけるように、赤屍の顔を叩いた。


一瞬の意識の空白が命取りだった。気がつけば鏡の手が伸び、赤屍の首を両手で掴んで浴槽の中に引きずり倒していた。
「――ァッ!」
声をあげかけて、水を飲むまいと口を閉じる。湯は濁っていて、目を見開いても鏡の手さえ見えない。すさまじい力が、首を締め上げる。
――これは? これは幻なのか?
その意識が先に立って、とっさにメスを出す手が止まった。幻ならメスで切り払ったとて意味はない。「これは幻だ」ということを100%認識すれば、苦痛は消える。
だが――
かくっ、と喉が鳴った瞬間、耐えかねて赤屍は大きく口を開けた。水が勢い良く流れ込んでくる。
「ジャッカル」
もがく体の動きのせいで、盛大に波立つ水の中にいるというのに、鏡の声はやけに鮮明だ。
「嘘か本当かなんて……本当に意味があることなのかな? 可愛いジャッカル。」
抵抗する気を失わせるような、重い倦怠感が、死神の四肢をくるむ。
不意に何もかもが、あがくに値せぬような気がして動きを止めた。
この水と痛みが本物なら、この身は滅びる。偽物ならば、……偽物でも、意識を失った時点で「死」と同じだ。
本物でも偽物でも……たしかに、変わりはしないのだ。
――どのみち、
湯の中に、人形のように力なく四肢を伸ばし、瞳を閉じる。


――どのみち、私を殺してくれなどはしまい……塔の人形どもは……


意識が白い湯の中で闇に閉ざされた。


「赤屍さん、」
頬を軽く叩かれて顔を上げる。
「赤屍さん、大丈夫?」
「……銀次クン?」
気づいて己の身体を見下ろす。
常と替わらぬ黒衣。
「オレのことは、わかるんだね。よかったぁ……」
ほっとしたように抱きついてくる銀次に、とっさに反応できずされるがままとなる。
「どういう……ことです?」
平凡な問いしか出てこない己をどこかであざ笑いながら、座り込んだ自分を膝立ちで抱きしめている銀次を、その腕の中で見上げた。
身体が重く、けだるく……倦怠感で動きづらい。
「ここは、ロウアータウンのベルトライン側だよ赤屍さん。知らないでこんなとこまで来てたの!?
 化け物がうじゃうじゃしててすっごく危険なんだから、もう来ちゃだめだよ」
「……はぁ。……キミはなぜここに?」
「MAKUBEXから連絡があって。十兵衛のトモダチが、赤屍さんをベルトラインに連れてっちゃったって」
十兵衛のトモダチとは、おそらく鏡のことだろうと推察しながら、赤屍は眉を寄せる。
「よかった……無事で……オレね、ここで本当に、……本当にいっぱい、なくしたんだ。赤屍さんまで、なくしちゃったらどうしようかと思った」
身体を撫ですさる手の動きから緩慢に避けつつ、失調から回復しきれぬ死神は、なんとか意識をはっきりさせようと軽く己の人差し指の背を噛んだ。
ふと、ある可能性に思い至って銀次の顔を見直す。
「……赤屍さん?」
「銀次クン、」


「キミも、偽者ですか」


「……何が?」
きょとんとまばたきする銀次を見上げて、周囲の景色を眺めて。
愕然と目を見開く。
どこか霞がかかったような――夢の中にいるかのような違和感がけだるくまとわりつき。
そして現実と仮想現実の区別がつかない。
目の前にいる銀次は現実なのか。
己の膚に残る石鹸の香は仮想現実なのか。
「とりあえず、もうちょっとロウアータウン側まで下がろう? 歩ける? ……赤屍さん?」
拒絶の意を示して手を振り払い、立ち上がりかけてぐらりとよろける。
肺の中に水がたまった感覚はない。だが身体の重さは回復することがない。
――薬?
浴槽の湯か? そもそもあれは現実だったのか?
鏡の術中にはまったのはいつのことか? そもそも術などかけられたのか?
「……赤屍さん、顔が真っ青だよ!」
まるで自分が気分が悪いかのように、つられて蒼ざめた銀次が腕を強引に捕らえてくる。
赤屍は逆らわず、銀次の肩に重くもたれた。
仮想現実の術中なら、鏡が飽きるまで――己の感覚が回復するまで、遊ばれてやるしかあるまい。
現実に銀次の腕の中にいるなら、この少年の扱いがたさは充分思い知らされている。遊ばれてやるしか、


――ああ本当に。現実でも仮想現実でも……何も、何も変わることはない……


頼ってもらえるのが嬉しいのかいとしげに、ぎゅっと抱きしめてくる銀次。それに抵抗することなく赤屍は、黙って身を任せ。
幻見通すはずのその赫瞳を、疲れたように静かに閉ざした。


「プレゼントだよ、ジャッカル」
薄暗い部屋の無数のモニターの前で、鏡は笑う。
「不安と疑惑と……自分の感覚を他人に閉ざされる不快と。
 それから、雷帝の与える肉体の快楽」
浴室に在った時と変わらぬスーツの、襟を軽く整え直し。
「楽しんでもらえると、いいんだけどね?」
めくばせひとつ。
モニターはすべて電源を落とし、部屋は真闇に侵されてそれきり――
生の気配も、死の気配もない静寂のみ。