正しい毛並の撫で方




床に座り込んで、仕事の間に溜まってしまった新聞をのんびりと読んでいる馬車のその後ろで、もぞもぞと何かが動く気配がした。
別に、蟲でも湧いたわけではない。彼の背後にあるソファには、今日も、長長と脚をはみ出させた死神が、部屋中で一番寝心地が良い場所を独占して、気持ちよさげに惰眠を貪っていたところだった。
何か唸り声のようなものをこぼして、ソファの上でごそごそ身じろいでいる。構ってやったとて、寝起きの機嫌の悪さを助長するだけだろう。そう判断して、馬車は一向に頓着することなく、新聞をめくってそれに見入った。
「……ふむ?」
トラック運賃の規制緩和について書かれた、小さな記事に目を留める。ふむふむ、と読み進めているうちに、背後の「ごそごそ」がどうも耐え難く存在感を主張しはじめた。
どうも今日の寝起きの黒猫は、機嫌が悪いなりに、かまって欲しい気分らしい。それとも、かゆいところでもあるのだろうか。あほか、本物の猫でもあるまいし、と黙殺して記事を読み進める。
やがて、背後の気配が静まりかえり、ひとりやれやれと安堵して、馬車は本格的に新聞に没頭しはじめようとして――……あぐらをかいたその尻が、数ミリ浮いたのではないかと思うほどにビクリと肩をおびえさせた。
肩にひんやりと、冷たい手が置かれている。
「……なんじゃ」
驚いてしまった自分も気恥ずかしく、その手を邪険にどけて新聞をめくろうとすると、大人しく振り払われた手は、とん、と床につけられた。
その大人しさを不気味に思う暇もなく、ついた片手はゆっくりと、それこそ猫が伸びをするように、うんと前方へと押し出される。
自分の膝の横をずずずずず、と前方に移動していく手を呆然と眺めていると、その手を追うように、もう片手もなやましげに床を這っていった。
「……おい、」
さすがに声をかけてみるが、返事はない。もう一度、
「おい――」
声をかけようとして、馬車はそのまま絶句した。
手の先には腕があり、腕の先には肩がある。やけにやわらかい動きでぐぐ、と伸びをしながら、しなやかに、人型の黒猫はソファから片膝をおろしたところだった。
まだ眠気を完全にとりはらってはいない、とろんとした眼が馬車を不機嫌そうに眺めやる。
馬車はその赫瞳から視線を離し、自分の背中の方にまだ残っている、すんなり伸びた腰からもう片脚まで、眺め渡してからもう一度、相手の顔に眼を戻した。
――猫ちゅうよりは、黒豹じゃな。
定期的にゆっくりとまたたいている赫瞳は、すでに馬車の顔の方を向いてはいない。うつむいている。新聞でも見ているのか、と思いきや、背中の方で、ぱたん、ぱたん、と脚が何やら動いている。
何をもぞもぞしちょるか、と言おうとして、もう一度背中を振り返った馬車は、長長と伸ばされていたはずの片脚も、床に向かってちょうど降りたところを目撃した。
――降りるんか。
やれやれどこへでも行っとれ、と新聞に向き直り――同時に、新聞が、伸びた手によってひどく邪険に、ぐしゃ、とまとめて遠くへ放り出されたことに仰天する。
ばらばらになって床に舞い散る新聞を呆然と眺めているうちに、調子づいたらしい獣はさらに、のっしのっしと膝と手をついて馬車の膝の上に居座った。
……居座った上に、長長と……うんと伸びをしながら、体重をかけてうつぶせに、膝の上に横たわった。


膝枕、などというなまやさしいものではない。ちょうど、ベルトのあたりが馬車の正中線に来ているのだから、赤屍の頭は、馬車の膝などとうにはみ出している。
――わしにこれをどうしろと!?
膝を占領され、新聞との仲を遠く引き裂かれたままの馬車は、目の前の長い物体を、ただ絶句して眺めていた。
要するにこの謎めいた――いや、むしろ謎以外の部分がほとんどない人型の獣は、馬車が自分を放っておいて、新聞に熱中していることに腹を立てたらしい。だが、だからといって馬車の膝に長々と伸びる必要はどこにもないはずだ。
――喋れちゅうんか? それとも撫でればええがか? まことわけがわからんが!
なぜか「放り出して叱りつける」という選択肢を思いつかなかったらしい馬車が、混乱の中でもとりあえず、手を伸ばしてわしゃわしゃ、と後ろ頭から背中を撫でてみると、この選択は正しかったらしく、長い長い満足の吐息をついて、膝の上の体は弛緩した。
いったいこれは何事か、と、それでも撫でつづけながら混乱の渦中から何とか抜け出そうとする馬車の耳に、ふと、――やっと、外の物音が聞こえてくる。
――雨か。
はっと馬車は顔を上げた。
古傷を痛ませる、肌寒くじめじめした外の天候を、今更ながらに思い出したのだ。
今、撫でている薄い背に、無残に刻まれた傷痕を思い出して、そして、思い出してから、思い出してしまう自分に思わず苦笑する。
呼吸に従ってゆっくりと、広がり、またおさまるなだらかな背。
傷の痛みに起きたはいいが、覚醒しきらぬ頭では何もままならず、この黒猫は「おまえがなんとかしろ」と傲慢に、馬車の膝に身を投げ出してみたのだろう。
――やはり、豹やのうて猫やき。
冷たいその背を、苛々させぬ程度に、生来あたたかい己の手で撫でてやりながら、やれやれ、ともう一度馬車はつぶやいて苦笑した。


くてん、と白い項をさらしたまま、傍若無人な人型の獣は馬車の上で寝息を立てている。
だがやがて、よほど現状が気に入ったらしく、ねむたげに瞳を開くと肩越しにうっすらと馬車を見た。
「何じゃ」
気恥ずかしさに手を止めれば、ううん、と大きく伸びをしながら赤屍は、ごろりと膝の上で寝返りを打つ。
「うおっ」
半分シャツもめくれかけた白い腹が、目の前に見事に晒されて、馬車は思わずのけぞった。
それをうるさそうに薄眼をあけてひと睨みし、さぁお撫でなさいと言わんばかりに、がくん、と顎がのけぞった。
そう主張されても、この状態でいったいどこを撫でれば良いものやら、馬車には見当もつけかねる。これが本物の猫だったなら、腹から顎でもくすぐってやればよかろう。だが、背中や髪程度ならともかく、この白い腹やこの白いおとがいや、ましてやほっそりした下半身に目をやれば……どう考えても、今更ではあるが、人倫にもとる振舞に違いない、と馬車は潔く自分の思考を切り捨てた。
すでに、自分がそんな行動に出たことなど覚えてもいない、といった様子で、赤屍は再び、咽喉を晒したまま眠りに落ちている。薄い腹がゆっくりと上下するそのさまを眺めているうちに、馬車はふと、とある欲求が頭をもたげたことに気づいた。
目の前の、息づく白い腹。
――いかん。
視線をそらせてみたり、新聞を読……むことはできないので、テレビのリモコンをつけてみたり……しようとして、この腹を乗せたままでは手を伸ばすこともできない、という重大な事実に気づかされる。
自然、欲求の原点である白い腹に、視線は釘付けだ。
そして、
――まぁええき。
実は存外図太い馬車は、あっさりと諸手を挙げて、その欲求に屈服した。


鈍い音と共に火花が散った、と自覚した時にはすでに、馬車の視界は白い腹から白い天上へと大きくぶれて移動していた。
後頭部と顎がガンガンと痛んで熱を持っている。脳味噌が揺れたのか、気分が悪い。基本的に無縁だが、乗り物酔いとはこんな感覚なのかもしれない、と、馬車は呑気なことを考えていた。
そうやって床に転がっている馬車を、その長い脚で優雅にまたぎ、微妙に肩をいからせた赤屍はのっしのっしと寝室の方に消えていく。
――ま……そら怒るわにゃあ。
馬車は神妙に、そう心中につぶやいた。
ピシャン、と寝室のドアが閉まる音がする。
そのドアを閉めた、毛を逆立てた人型の黒猫の、細く薄いその腹に……今ごろ、馬車がつけた淡い歯形が、浮いて消えていることだろう。
――やけんど、ありゃ食いとうなって当然やき。
常識的に考えれば、あまり当然とも言えない。だが、馬車は図太くそう文句を言いながら、痛む頭をこらえてごろりと寝返りを打つ。
寝息を立てる傍若無人な猫の、その腹があまりにも気持ち良さそうに、のんびりと、呼吸に合わせて上下しているものだから……つい、馬車はその脇腹あたりをかぷりと噛んでみたくなったのだ。
――あの反応も猫じゃな。
跳ね起きて馬車をひっかき……いや、殴り飛ばし、寝室に逃げたきり、拗ねこもって出てこない赤屍を思い出して、やれやれと馬車はもう一度寝返りを打つ。
「おい、わしが悪かったき、出て来ぃ」
返事はない。
「……飯作ったるき、ほれ、しゃんしゃん来ぃ」


細く寝室のドアが開いたことを確認すると、馬車はひとりひそやかに笑い、がくがくする顎を撫でながらも「よっこらせ」と立ち上がってみせたのだった。