忘れじの行く末まではかたければ今日を限りの命ともがな
――儀同三司母






病院の個室の、窓が開いてカーテンが風に揺れている。キングサイズのベッドに横たわり、正体なく眠る男は、ミイラのように顔を包帯でくるまれていた。点滴が射し込まれた腕も、浴衣の狭間から覗く首元も、すべて、包帯とガーゼに包まれていた。
夜風に吹かれても、男が目を覚ます様子はない。皮膚の病だろうか、塗り薬の匂いがきつい。魁偉な体躯を見るに、本来は、頑丈な男なのだろうと思われた。
窓の外で、木々の囁くざわめきが少し強まった。当直の看護婦が、見回りに来る気配はない。男は夜風に吹かれたまま、眠りつづける、と――
夜闇に、病的に白い手が浮かび上がり。パタン、と静かに窓を閉めた。
カーテンがそっとかき寄せられ、病室の中に闇が満ちる。常夜灯すらついていない。この病室は、夜闇を恐れず、敵の襲撃を恐れる――そんな世界の住人のために、作られた特殊な個室だ。誰かが忍び込めば、即座にセキュリティ室に通報される。そんな仕組が完備しているはずだった。
白い手が宙に浮いている。
手は手首のあたりでかき消えていた。……いや。それは黒衣に包まれているだけだった。すらりと伸びた首から顎のあたりがほの見えた。だがそれも、黒髪と、帽子らしき闇色に断ち切られて全体が見えない。
ゆらゆらと、闇の中にわだかまる影はじっと、白のシーツに横たわる病人を眺め、見下ろしている。カーテンから漏れる光が、一瞬、帽子の下に隠れる瞳の、不吉な赫をはじいた。
白い手が伸びる。男は目を覚まさない。
男の首に手は当てられて、じっと、そのまま彫像のように動かなかった。
「……何をしちょる」
かすれた声が、咽喉を震わせ、白い手にも振動を伝えた。
男が目覚めたのだ。
「みています」
見ているのか、診ているのか、看ているのか。
それを問い返すことはせず、
「そうか」
それきり男は沈黙し、ふたたび、包帯とシーツと毛布の中に埋もれた。
白い手は首筋から顎のあたりを這う。不意にぱらり、と包帯がほどけた。ほどける一秒ほど前に、きらめいた金属の輝きを、男が見ることはなかった。目蓋も何か悪いのだろうか。男の目は包帯によって塞がれていた。
ぼこぼこと腫れた顎から首筋を、白い手がゆっくりとつたう。
「蜂ですか。死んでもおかしくないダメージだと、聞いていたのですが」
「前にもさされとったら、死んどったな」
考え込むように、白い手が止まる。
喋ることもつらいのか、一度黙り込んでから、かすれた声が囁いた。
「……死んどったら……お前は、どうしとった?」
「何も」
無機的に即答して、手はダメージを確認するように、ほんのわずかに力を込めて、腫れ上がった顎の一ヶ所を押した。男が低くうめく。
「ただ、」
白い手は男の顎を離れ、何か考え事をしているように、己の口元に当てられた。
「ただ……?」
「何かは、残ったでしょう。今はまだ、それが何なのかはわかりませんが。
 あなたの死によって、私に消えない何かが残るだろうと。報せを聞いた時に、思いました」
「……そうか」


少し歪んだかすれ声は、頷いてから、歪んだままの声で、答えた。
「死んどっても、良かったかもしれんな」


不意に男の唇がふさがれる。
跳ね起きようとした両腕が、肉の薄い掌からは信じられぬ強力で、押え込まれた。
「な、」
何をする、と言うために開いた唇へ、押し当てられた薄い、紅い唇から何かが一気に流し込まれる。
押しのけようとする男の体の上に、いつのまにか、馬乗りになった闇色の影は、有無を言わさず、流し込んだものを飲み下させた。
唇が離れ、咳き込む男の口元に、白い顎に溢れて伝った液体がぱたぱたと滴り落ちる。
灯りがあれば真紅を見たであろうその液体は、鉄錆の匂いをさせてなまぬるかった。
「きさん、」
「お静かに」
言葉を喋れば、さらに唇から血は溢れ。細い流れを首筋に作り、黒衣の下に消えて行く。
「私の血は武器であり毒です。24時間たたないうちに、あなたの胃袋から全身へ巡って、体内の毒を綺麗に殺してくれるでしょう。抗体ごとね」
「……お前の毒でわしが死ぬとは思わんのか」
「それはありえません」
馬乗りになったまま、ふたたび唇が、目を塞がれたままの男の顔に近づく。その吐息は、血臭にしてはひどく甘い。
毒の香りだ。
「なぜそう思う」
「理由は簡単です」
動けぬ男は、動けぬ悔しさに歯を軋らせて問いかける。
返答はさらに、男に動けぬことを悔やませる甘さに満ちていた。
「あなたの体は、私の体液に慣れている」


「……確かに、」
点滴を受けておらぬほうの腕で、のしかかる影を押し離して男は言った。
「お前の毒は、わしの芯まで染み込んどるな」
「眠りなさい。朝までは、高熱と激痛が続きます。耐えられなかったら、死にます」
過激な言葉を、恐れる様子もない。腕は緩慢に、了解の意を示して振られる。
「良い夢を」
影は、鮮血と誘惑を滴らせながらものやわらかく囁き。
そして、次の瞬間には、最初から誰もいなかったかのごとく、闇の中へと同化していた。


悪夢に耐え抜いた男が、眼の痛くなるような白の中で目覚めた時、その身体の無数の腫れは完全に喪われていた。
闇色の影の到来を、示すものは何ひとつなく。乱れたシーツに、己の顎に、餓えた口中に滴ったはずの、赤の染みすら失せていた。
ただ、腹の奥に、あの血の味を忘れられない鈍い疼きだけが残り。朧な出会いを、夢だと思わせようとしない。
「……この毒は……よう抜かん」
つぶやいて男はベッドを降りた。
今宵、あの影がこの病室を訪れる保証はなかった。男は、確実にあの影を捕まえなければならなかった。
打ち込まれた毒を、小憎らしいあの朧に叩きつけ、打ち込み返さねば、自分は死ぬ。
そんな、埒もない錯覚に囚われて。男は、必要のなくなった包帯を、力任せに引き千切り、そして、床に捨てると一歩を踏み出した。




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