チープなハート
街中が甘い匂いに満たされているような、そんな夜に、死神の赫瞳はどこまでも沈鬱だった。その傍らに銀次も黙って、ダッフルコートの襟に埋もれ、うつむき加減に佇んでいた。
聖夜の運び屋は多忙だと言うが、不吉を体現したような死神に、恋の運び手を頼むほどの愚か者はいないらしい。人形のような無表情で、帽子の下、赤い硝子のような瞳は、どこか遠くを眺めている。姿勢よく佇んだその姿を、銀次は見上げた。綺麗だな、と素直に思った。血に濡れていない、ということが銀次に好意的に作用したのだとしても、それは綺麗な立ち姿だった。
「銀次クン、ご覧なさい。街がハートマークで一杯だ」
「そ、そうですね……」
赤屍と「ハートマーク」という言葉が微妙に不釣合いで、銀次の腰は少し退けた。だが、死神はそんなことにはお構いなく、病的に白い――手術用の手袋なのだから、印象としては当然だが――その手を掲げ、子供が引っ張りまわしているピンクのハート型の風船を指差した。
「君は、あれが何を意味しているか知っていますか?」
「へ?」
銀次は、赤屍の視線の先を、背伸びして眺めやる。たしかに赤屍は、そのハートマークを見つめていた。赤屍の意図するところがわからず、だが、銀次は彼なりにせいいっぱい、真面目に答えた。
「えっと、その……ハート、じゃないんですか?」
「“Heart”……そうですね、キミの言う通りです」
綺麗にこもった発音は、普段聞き慣れた「ハアト」という音とはまったく別のものとして、銀次の耳に飛び込んだ。びっくりして見上げる銀次に、前を向いたまま視線だけを流し、どこか気だるく目元だけで死神は微笑した。
「英語ですよ。……意味、わかりますか」
「すいません」
銀次は即座に謝った。いいんですよ、と再び笑ってから、そのやるせない笑顔のままでぽつりと言った。
「心臓」
「……なに?」
「心臓です。形が似ているんですよ」
「ご覧なさい、銀次クン。
街中に、心臓が満ち溢れている。たやすく安価で、チョコレートで作られた心臓が……投げ売りのように」
淋しそうに、視線を落として死神は笑う。
「破っても血の流れない心臓に、興味を持てるはずもない。
……あれはココロを指すのだと、言う人もいますがね。ココロならなおさら、……街中に、数百円で投げ売りされるココロに何の用がありますか?」
己を追いつめ、敵を追いつめ、その真っ向勝負にのみ喜びを――絶頂のような喜びを覚える死神に、気軽な愛など必要とされるはずもない。
銀次は言葉を失ってうつむいた。ポケットの中に手を入れる。かさり、と包みに手が当たった。
「……心臓は、あげられないし……ココロも、オレ、よくわかんないです」
「そうでしょうね」
「でも」
感情の抜け落ちたような無表情に戻って、路傍から寒風の中、吹き晒されている孤独な黒鴉。
それが、銀次の「でも」に一瞬、かすかに眉を寄せる。
「何か……よくわかんないですけど、何か、渡したい何かがあって……」
銀次は一度言葉を切り、赤屍に向き直った。まっすぐ彼を見上げながら、ポケットからがさがさと、小さくチープな包みを引っ張り出す。
「今日は、チョコですけど。オレ、逢うたびに、何かを赤屍さんに渡してるつもりなんだ。それが、今日はチョコになっただけで……」
いかずち放つ右手が、その小さな包みを赤屍に差し出した。
「受け取ってもらって、いいですか……?」
逢うたびにいつも、せいいっぱいの何かをあなたに伝えている。
あなたはそれを拒絶してばかりだけど、それでも、何かが伝わっていると、信じている。
「…………私が心臓を欲しがっていると、知っていて……チョコレートだけ、押しつけるつもりですか」
「ごめんなさい」
謝りながらも、ぐ、とヘの字に曲げられたきかんきの表情は変わらない。
「でも、食べ物に罪はないよ……そうだよね」
受け取るまでは帰らない、そう雄弁に語る雷獣の両眼を覗き込み、ふ、と死神は嘆息した。
包みを受け取ると、見ることなく己のコートのポケットに突っ込む。
大鴉が翼を広げるように、コートの裾が翻った、と見る間に、それは銀次に背中を向けていた。
「来年の今頃までには……キミの心臓が、貰えているでしょうか」
「来年の今頃までには……」
繰り返して、銀次は、ポケットに手を入れたままの赤屍の後姿を見つめた。
「……その頃までには、もっと違うもの、やり取りできてたらいいなって、思います……」
……ココロとか、ココロとか、ココロとか。
偽物のココロをポケットに押し込んで、死神は道を遠ざかる。
痛む心臓を胸に抱えたまま……銀次はその姿が消えるまで、寒風の中に佇んでいた。