羽音に飛針を引き抜いた瞬間、傍らの花月が覚醒した。覚醒した時にはすでに、耳元の鈴に手が当てられていた。
「……」 ふたり、一瞬迷い、一瞬視線を見交わしたのちに――武器から手を離す。 そんな二人を、女の髪のたとえともなるその濡れ羽色の瞳で眺めた不吉の鳥――一羽の鴉は、一瞬すくむほどに長大なその翼をゆっくりと広げて、一声高らかに啼いた。 呀(ガァ)! 「――ッ」 花月の身体がこわばる。 その不吉な、耳をつんざく声と共に、窓枠から飛び立った鴉――その姿が見えなくなるまで見送ってから、まだ幼さの残る少女めいた貌に、疲れをにじませて花月は瞳を閉じた。 「……『敵』だと思う?」 「さぁな……オレたちを『見て』いたのは確かだが」 「鼠も鴉も……こんなにたくさん無限城にいたんだね。……知らなかったよ」 「厄介だな」 言ってから、弱音を吐いてしまう己を憎み、十兵衛は口を引き結んだ。シン、と一瞬の沈黙が雰囲気を重くする。 ビースト・マスターと呼ばれる異能者――冬木士度と、勢力争いから諍いを起こして、今日まで数日。ヒッチコックの映画の世界に放り込まれてしまったかのような、悪夢の連続だった。一羽の鴉、一匹の鼠にさえ神経を尖らせる日々が、続いている。 交替で睡眠を取りながら、姿を見せぬ敵を探し。薄ら寒く薄暗い午後の一時、睡眠を取るのは花月の番だった。十兵衛には、花月の睡眠を妨げたあの鴉が心底憎かった。引き裂いてやろうかと思ったほどである。 その思考に感応したわけでもなかろうが、 「なんかもう……無限城中の鴉をかたっぱしから縛って落としたい気分だよ」 花月はぐちっぽく、だが意図的な明るさを込めて笑った。笑いながら、座り込んだまま十兵衛の肩にこつんと寄りかかる。仲睦まじい二匹の小犬のように、昔から彼らはこうやって肩を寄せ合い、額をぶつけあってじゃれたものだった。 「殺しても『外』からまた入って来るだろうがな」 悲観的な一面を持つ十兵衛は、肩をすくめかけて動きを止めながらつぶやいた。今肩を竦めたら、花月の額を落としてしまう。 「それはそうだけど」 冗談に紛らわせた言葉だったのに、生真面目に返された花月は頬を膨らませる。だがふとその瞳の黒曜石が、何かを思いついたようにまたたかれ、それから小さく笑顔を形作った。 「花月、どうした?」 覗き込んでくる十兵衛に、何でもないと首を振ってから。 「ここに熊野午王の誓紙がさ、1万枚ぐらいあったらいいなと思って」 熊野午王の誓紙とは、熊野午王宝印のことである。言ってみれば御札なのだが、その霊験から誓紙として使用され、江戸時代には遊女が約束をそこに書きつけ、誓いを立てたという。 熊野権現に立てた誓いを破れば、熊野の神鳥である鴉が三羽死ぬと言い伝えられている。そのため、 「1枚で3羽だったら、1万枚あれば3万羽の鴉が死ぬんだね」 「その為には1万の誓いを破らねばならんが」 「1万も誓いを立てるのがまず、大変だ」 こわばっていた空気がほぐれ、ふたり、フフ、と笑い交わす。砥石を取り出して飛針を磨きはじめた――別に花月をないがしろにしているのではなく、これは筧流針術師共通の精神安定法である――十兵衛を、膝を抱えて眺める花月はふと、先程の笑いの余韻のような笑顔のまま、小さな声で言った。 「それに十兵衛は、それがどんな誓いであっても、一度たてたのを破れるほど器用じゃないよ」 時に歯がゆいほどに朴訥で、愚直なほどに率直で……一本気で、そして優しい彼のサムライ。 花月はその、愚かとも映る振舞がねたましいほどに好きだった。自分とて、このがらくたの城においてはあまりに直に過ぎる――そう、危ぶむ仲間や弟子がいる。だが十兵衛には、なかなかかなうものではない。 「キミは僕なんかよりずっと、優しくて……まっすぐだから」 花月は膝を抱えたまま瞳を閉じ、十兵衛の肩にこめかみを押しつけて、シャリ、シャリというその音に身を委ねた。 十兵衛からの返答はない。黙ったまま、ただ、砥石が飛針を擦る音だけが響く。 だがやがて不意に、 「そうでもない」 飛針を見つめたまま十兵衛はぽつり、とそうつぶやいた。 「十兵衛?」 「オレは、おまえが思っているほど誠実なわけでもない」 「……十兵衛、」 瞳を開き、肩に押しつけた箇所をこめかみから頬に替え。至近距離から、すでに少年の甘さは喪われた親友の顔を、花月は見上げようとする。 その頭を片手で抱えるようにして肩に押しつけさせ、すっぽりと花月の瞼を覆って十兵衛は静かに言いきった。 「オレは、おまえが一夜、あのいまいましい鴉どもを忘れてゆっくり朝寝するためなら―― 三千世界の鴉すべて叩き落とすまで、不義非道を行って悔いはない」 「……だから、」 一瞬の、己の声の震えの理由を理解できぬままに、花月は囁く。 「だから、キミはまっすぐなんじゃ……ないか」 たった一晩。 ……一晩の朝寝のために、百万の誓いを破っても、三千世界の鴉をすべて殺しても、花月のためなら構わぬと。 それは花月が、風鳥院の大輪たる宗家当主であるがゆえなのか。 それとも、 それとも―――― 「三千世界の鴉を――、と、言うならね、十兵衛」 同じ性別を持つとはとても思えぬ己の手を、瞼の上の、めぐし護り手の指にそっと添わせる。 わずかにその手が震えたのはなぜか、己の声が震えたのと同じ理由だ――と、その「理由」さえも未だわからぬそのままに、花月は確信する。 「花月、」 「朝寝しなきゃいけないのは、僕だけじゃない。……『主と朝寝がしてみたい』と」 なぜか頑として花月の瞼から手を離さず、頑なに、光を奪う十兵衛の手を、幽玄の音生む花月の指がゆっくりとたどり、十兵衛の首に両手は回される。 「かづ、き、」 「眠ろう、十兵衛」 見上げようとした姿のまま、肩に押しつけられたその白くほっそりとたおやかな容貌、吐息は十兵衛の頬にかかるかからぬと判然とせぬまでに、細く、はかない。 「朝まで――朝になっても――眠ろう、鴉なんて……もう、いい」 「……わかった」 壁に寄りかかる十兵衛に、寄りかかる花月。 三千世界の鴉のかばねの、その上で。血潮の如き朝焼けを浴びて眠る姿を二人、奇しくも同時に思い浮かべる。 彼ら二人が想いを――これほどの、これほどまでの言葉と態度で伝え合ってなお、超えられぬ壁を砕くほどの、想いを遂げるにはきっと。三千世界の鴉をすべて、殺し尽くすに等しき罪を犯さねばなるまいと。 同じ性別を持ち、宗家と従者、ともに、子を為し流れを継ぐ者が、400年の血の流れを塞きとめ澱ませ、相通じる――その下に在るは、 ――似合いだ、我々には。三千世界の鴉のかばねこそが。 ふたり、言葉に出さぬままにそう思う。 こうして寄り添うて眠るだけでも、秘めし欲への慙愧――罪の意識が身を砕くのだから。 夕暮れに染まる赤き部屋。 一羽の鴉が不吉な羽音を響かせて、開け放たれたその窓枠にゆっくりと羽根を休める。 闇色の眼は、壁際で眠る二人を見つけ。 大きく口を開いてあの、叫びをあげる、その、まさにその瞬間―― 「――――!」 花月を抱き寄せた左半身は微動だにせぬまま、十兵衛の右手首のみが翻り、鴉の口に飛針は突き立っていた。 声を上げることすら許されず、窓の向こうに落ちていく鴉を、憎しみすらこもった眼でねめつけ、だが……身じろいだ花月に落とした視線は静かだ。 花弁のような唇よりふたたび寝息がもれるまで、息を潜めて待ってから、十兵衛は口の動きだけでつぶやく。 『だから言ったろう、花月』 オレはまっすぐなどではないのだ―― 共に朝寝をと求められても、眠ることなく。 共に生きようと求められても、先に死ぬと心に決め。 花月の言葉に逆らえぬ男の仮面を、忠実にかぶりつづける己のどこが、朴訥にして愚直なものか。 闇色の鴉が口より吐いた血と、等しく赤い夕陽の光を浴びたまま。 ただ左半身だけがひどく静かに、花月を抱き寄せて十兵衛は――光の喪われる最後の一瞬まで、眼前の赤を、にらみつづけた。 願わくば、たった今己が破った約束が、誓紙書かずとも熊野の神の怒りに触れれば良いと―― 百獣統べるビースト・マスターの、手先たる鴉が三羽、血を吐いて地に落ちれば良いと―― 心の底から、願いつつ。 |