濡れ羽色の赤
あの日、彼を見上げたこわばる黒髪が、今、目前にたゆたっている。
奇しくもかつてしていた如くに、跪き、それを手に取り、ただ、笑った。
笑うしかなかった。
床に座り込んだまま、花月が髪を梳いている。常日頃それを手伝っていた朔羅は、今は、十兵衛とともに、被害を受けた女性たちのもとへと赴いていた。寒々しく広い部屋の中、花月はひとりきりだった。
ひとりきり。……いや。部屋の戸口に佇んで、俊樹がそれを見ているのだから、本来ならば、ふたりきりと言うべきなのだろう。だが、花月はひとりだった。絶望的なまでに、ひとりきりだった。
爆破が、事故だったのかテロだったのかなど、どうでも良いことだった。死んだのは七人。店の軒先のことだったから、死傷者は、戦力外の女子供がほとんどだった。不幸中の幸いだ、とつぶやいた自分を、十兵衛がにらんだ。その目つきを、俊樹は思い出していた。
――甘いな、筧。
心に一人、そう苦く笑う。
そう、事故だったのかテロだったのかなど、本当にどうでも良いことなのだ。爆発で、女子供が七人も死んだ。ならば、死んだ者に報いるためにも、その事実は有効に使わなければならない。
そして、そのことは、今、俊樹の目の前で髪を梳いている、この小さな知将も十二分に理解しているはずだった。
爆発が起きたのは、花月のよく行く店だった。美しい和紙や、愛らしい小物を扱う小さな店だった。男のくせに、あんな店に出入りして、と俊樹はよくからかって、それでも、誘われれば律儀につきあってやったものだった。店主は、よくまぁこの無限城で生きてこられたものだ、と呆れるほどに、気の優しい、小さなひとりの老婆だった……
俊樹は、気がつけば握りしめていた己の拳の、その力をそっとゆるめた。
(僕のせいだ)
あと二分、十兵衛と花月が店に早く辿り着いていたら、彼も死んでいたかもしれない。黒煙立ち上る惨劇の前に立ちつくし、血が滴るほどに唇を噛んだ花のかんばせが、そう、吐き捨てたのは、そのためだった。あの店で、花月は十兵衛と待ち合わせをしていた。「おい、オレはあの店は……」「だめだよ、十兵衛、あの店以外はだめだ」「そうだ筧、貴様、花月の命が聞けんのか」と、じゃれあいながら、困惑する十兵衛をからかいながら、三人で、たわむれるように追いかけあった。あの時、周囲に誰がいたか。……誰が、待ち合わせのことを知っていたか……
ユダがいる。
「俊樹」
凍りついたような花月の声が、彼を呼ぶ。俊樹は黙って、今はすべての髪留めを外した花月の顔を見下ろしていた。
「俊樹、メンバーを」
「すでに揃っている」
「これはテロだ」
「……」
「テロなんだ。僕たちは、亡くなった人たちの敵を討たなければならない」
「誰が仕組んだテロだ?」
「七層目」
それは、次に彼らが攻め込むべき階層だった。
「わかった。……これは、七層目の仕組んだ卑劣な爆破テロだ。仇討ちに、ヤツらを皆殺しにしてやろう」
花月が瞳を閉じる。ぎらぎら光るその黒曜石を。
「おまえはその髪を何とかしておけ。士気にかかわ――」
俊樹は口を閉ざした。花月の手が、己の髪を握りしめている。ごわごわに血がこびりつき、固まり、櫛もろくに通らぬその髪を。
瓦礫をどけようとした手、爪が無残にひび割れている。打ちひしがれた帰り道、計ったように襲ってきた敵を、珍しく、花月は手加減のかけらもなく引き裂いた。次の瞬間、十兵衛が花月の前に出て、次の敵、その次の敵、次の次の敵、すべて、背に花月を護ったまま、刺し貫いて壁に留めつけた。花月がきりきりと、無表情なその顔のまま、歯を軋らせて沈黙した。だが、彼は何も言わなかった。十兵衛も、何も言おうとはしなかった。
瑕ひとつない、玉のような美。『風雅』のあでやかな大輪。花月はそう在るべきだった。それでこそ、集う者たちは彼を信じることができる。彼に心酔し、神の如く崇めることができるのだった。
血を浴びた髪を、花月の櫛が無理矢理に裂いて押し通る。ぎしぎしと、ばりばりと、豊かな黒髪を櫛が傷めて――……
俊樹はその風景に背を向けた。
部屋を通り抜け、洗面所へと足を運ぶ。
背後で、びん、と櫛の歯が一本折れる音がした。
洗面器を持ち出して、飛沫もまともにかかるほどの勢いで、蛇口をひねり、水を張る。
いともたやすく、いっぱいに水を張ったそれを持ち上げ、水面を揺らしすらせぬ、古武術独特の静けさで部屋に戻ると、花月は唇を噛んだまま――蒼ざめた、美しいその無表情のまま、機械のように、通らぬ櫛で無理矢理髪を裂きつづけていた。
俊樹の足音にも気づかない。そして、俊樹が手に持っているものにも気づいてはいない。
高く、その手を掲げる。
洗面器が影を落としてはじめて、花月は、はっと顔をあげて俊樹を見た。
瞬間。
俊樹は一気に、洗面器を逆さになるまで傾けた。
洗面器一杯分の水を、頭からまともにかぶって呆然と、座り込んだままの花月。
重くかぶさった黒髪の狭間から、きょとん、と見上げてくるその黒曜石の瞳が、ひどく無邪気で……我に返ったように、ひどく素直であることを確認して、俊樹は身を屈め、花月の手から櫛を奪い取った。
「とし、き、」
かすれた声を無視して、櫛を持った手を伸ばす。
だが、
「花月!?」
尖った声に、花月と俊樹は同時に、戸口を見やり、そして、立ち尽くすサムライの姿をそこに認めた。
ク、と小さく、俊樹の咽喉が笑いに鳴る。
濡れ鼠の花月に駆け寄ろうと、身を乗り出した瞬間の十兵衛に、俊樹は、手に持った櫛を投げつけた。
「……雨流」
まるで、その時はじめて、俊樹の存在に気づいたかのような、片手で櫛を受け止めた十兵衛の、そんな声に、鳴った咽喉が、再び、く、く、く、と笑った。
なぜ笑っているのか、自分でもよくわからずに、それでも、あの、きつい、棘のある独特の笑い声を、抑えきれずに俊樹は笑う。
「眼が覚めたなら、さっさと仕度をしろ、花月」
言い捨てて背を向け、足早に部屋を出るその瞬間に、「俊樹」と、静かな声がかけられた。
「……ありがとう」
その声を聞く前に、名を呼ばれたことに気づかぬ振りをして、扉を閉ざしてしまったその一事が。俊樹をまた、回避かなわぬ決裂の瞬間へと近づけたのかもしれなかった。
黒曜石の瞳は、閉ざされたままだった。あの日は返り血にこわばっていた、その黒髪が今、主の鮮血に濡れていた。
倒れ伏したかつての主の、その傍らに、俊樹はゆっくりとひざまずいた。
手を伸ばし、あの日触れることのなかったその黒髪を、ひとふさ掬い、そして、ぎしりと握りしめる。
乾きかけた血糊が、彼の手に、こわばった感触を伝えてきた。
「……今この場に水があれば、」
ねっとりと絡みつき、まとわりつく血と髪の中、片手で、みしみしと髪を梳いて俊樹は笑う。
「あの日のようにぶちまけて、ぬるい感傷と自虐に浸かる貴様の眼を覚ましてやれたのにな、花月――」
語尾が不意にひび割れる。
笑いかけた顔のまま、俊樹は、自分でも理解できぬ、突然の胸の痛みに身をすくめた。
彼の大天使長が、契約と忠誠の証にと、俊樹の胸に刻みつけたその傷痕が、なぜか、ずきずきと疼いている。
不吉な予感に眉を寄せ、俊樹は、花月の髪をその場に落としてしばし、その身体を抱き上げもせず、ただ、その場に跪いておのが胸を押さえていた。
本当は、そこに理屈など存在せず。
あの美しく豊かな髪が、あの強がりな孤独な魂が、血に染まり傷む姿など、見たくなかった、それだけのために。
その髪に水をかけ、柄にもなく、櫛もて髪を梳こうとしたのだと……
そのたったひとつの事実に気づいた時が、彼の胸が契約の傷に引き裂かれるその瞬間なのだと、
俊樹は知らずとも、俊樹の傷は、予感していたのかもしれなかった。