ただ一度の記念日




太陽が、しらじらと寒々しい陽光をそそいでいる。
漆黒のコートに身をくるみ、襟に顔を半ば埋もれさせて、その風景を見ているのは、黒衣で知られる108の武器の死神――では、なかった。
ロウアータウンから高く斜めに突き出した、広告塔の残骸にひとり佇み。
目のくらむような眼下の風景は、その黒目がちの大きな瞳に、本当に映っているのか、恐れる様子もなく。
身を切る風が頬をなぶるたび、リン…… リン…… と鈴が揺れる。
「ここにいたのか。皆探していたぞ」
上り切って赤い色を喪った朝日に、顔を向けたまま、滝なす黒髪に鈴の揺れつづける青年――花月は沈黙を守っていた。
声をかけてきたのは、彼がもっともよく知る男だ。朴訥に、だがあぶなげなく、突き出した広告塔の上を歩んでくる。黒衣の死神に似た、その喪に服すような黒ずくめの背に、一歩、一歩、注意深く近づく男の名を、筧十兵衛と言った。
何か気が沈んでいるのか。花月は答えない。
「雷帝に、挨拶に行かないのか」
その言葉に背を向けたまま、ゆっくりと、大きな黒瞳がまたたく。濡れたような光沢が光をはじいた。
「……じきに」
囁くように花月は答えた。
どこかで爆竹の爆ぜるような音が聞こえる。あれは中華系の住民が、正月を祝って鳴らしたものだろうか。それとも、そんな生ぬるい祝いは夢のまた夢で、今日もまた、攻め寄せた者たちが銃を乱射しているのだろうか。
西のかたに最後の日が死に絶え、東のかたに最初の日が生まれる新年の朝。
花月は19歳になったところだった。
数え年なら20歳である。
「……またひとつ、年を取ったよ、十兵衛」
重い黒に包まれて花月は、静かに言った。
母の仇、家の恨み、幾多の謎、なにひとつ晴らすことなく……20歳の冬を迎えている。
「まだ、而立に10年も至らんな」
やわらかく、無骨に、十兵衛はそう言葉を返した。
花月はゆるく微笑んで、ゆっくりと身体を翻した。コートの裾が風にはためき、逆光の中で、十兵衛の見上げる花月は、黒の濃淡のみの一個の影と姿を変じる。
唇が微笑を浮かべている。それ以外の表情は、髪と逆光のせいで他人には知れない。
少し出てくる、と言ってパーティを抜け出した花月に、着て行けと己のコートを手渡したのは十兵衛自身だ。だが、一回り大きい黒のウールはひどく、重く花月にのしかかって彼を痛々しく見せていた。
十兵衛の漆黒に包まれて、花月は淡く口元を笑わせたまま、不意に言葉を紡ぎ出した。
「元旦が誕生日だと、本当に忙しいね。そうは思わないかい、十兵衛」
「挨拶回りで、ろくに祝う暇もないからな」
「いつも周りに人が溢れていて、目を回していた記憶しかないね」
明るい声、重い黒、逆光の中の見えない表情。
逆に花月から、十兵衛の表情は見えすぎるほどに暴かれていた。頑迷なほどに、堅実に、花月を見守るその薄茶の瞳が。
「……そうだな」
答える前の一瞬の沈黙に、花月がゆっくりと首を傾げる。
そして明るい声が、その沈黙の理由を言い当てた。
「一回だけ、君とふたりだけで過ごした誕生日があったね。
 覚えているかい、十兵衛!」
陽光と声のまぶしさに目がくらみ、十兵衛は後ろめたい者がするように眼を伏せてうつむく。
だが低い声はやさしく答えた。
「覚えているさ。
 ……忘れられるはずがない」
高処にたたずむ、主君たる最愛の友の御前。光を避けて頭を垂れる侍は、忘れられぬその日を思って瞳を閉じた。





肉を裂き、骨を凍らせるのではないかと思わせる、そんな、重いみぞれが注いでいた。
数刻前までは、おそらく雪だったのだろう。路地には、溶けかけたかき氷のような、半透明の氷と水が積もり、彼らふたりに、座り込むことすら許してはくれなかった。
雪なら、肩に積もれば払うこともできる。だが、みぞれは重く服に染み込み、そして、その下の皮膚と心にひどく、寒々しい思いをさせるのだった。
少しでもみぞれを避けようと、わずかに張り出した軒下にふたり、駆け込んで身体をぴったり寄せ合う。
変声期が終わったばかりの、少年らしい幼さの残る声で、花月が十兵衛に囁いた。
「年明け早々、ひどい天気だね」
「よりによってこの日に、連中が攻め寄せてくるとはな……」
いまいましげに口を引き結び、だが十兵衛は、はっと花月の顔を覗き込んだかと思うと不意に彼を抱き寄せた。
「な、十兵衛っ!?」
くぐもった声を無視して、包み込むように抱きしめる。
首筋に顔を埋めて――花月の姿を路地の向こうから隠した。
いくつかの足音が駆け抜ける。
「何人?」
「12人だ」
見た目には雨宿りの恋人同士と映るであろう彼らは、気を鎮めて風景の一つと溶け込みながら、緊迫した声で囁き合う。
「花月、唇が紫色だぞ」
「キミなんて鼻の頭が紫色じゃないか」
腕の中で花月が震えるように笑った。耐え切れなくなってきた身体の震えを、笑いでごまかしたのかもしれない。花月は、呼吸するように自然に、主君たるものの振舞を叩き込まれてきた少年なのだった。
コートの中に抱き込んで、空しく聞こえることがないよう、声を励まして言葉を継ぐ。
「すぐに雨流が来てくれるさ。そうしたら奴らを挟み撃ちだ。ベルトラインとて恐れるに足りん」
「うん、じゃあ俊樹のためにあめゆきをとっておいてあげなくちゃいけないね。綺麗なところを」
明るく己の声も励まして、花月はそう答えるとふと、ふふ、と笑って十兵衛の肩に顔を埋めた。
「花月?」
「こんな誕生日が来るなんて、あの頃は思いもしなかったよ」
あの頃? と問いかけて、問うも胸の痛む、あの光に溢れた日々のことを思い出す。
花月が差しているのは、彼が光の下に在った日の、……風鳥院の宗家として、祝福され愛されて、愁いなく迎えたあの幼い時分の誕生日のことであろうと、十兵衛は思い当たる。
無数の弟子と分家にかしずかれ、祝福され、ほほ染めて振袖を翻し、お辞儀をしていたあの愛らしい姫若が……今はこうして、たったひとりの家臣に抱かれ、ぬれねずみとなって惨めに震え、敵の目に怯えて息を潜めているのだ。
「こんな、日が来るなんて……」
十兵衛の肩に、そっと頬をすりつけて、震える花月はただ、笑う。
「……きっと一生忘れないよ」
その言葉に、十兵衛は黙って瞳を閉じた。
腕の中のぬくもり。
やさしく震える身体。
彼だけを頼りに、立ち尽くす、いまは、彼だけの――


「……十兵衛?」
「見るな」
「……馬鹿だなぁ……」
抱きしめられて、腕を挙げることができない花月は、困ったような、笑い顔のまま、こつん、と十兵衛の肩を額で叩いた。
その頭を、己の顔を見ることがないよう、強靭な手で己の肩に押さえつけ、十兵衛は頑なに前方を――醜い落書きに彩られた路地の壁を、見つめる。
ぱた、ぱた、と花月の背に、十兵衛の頬から落ちた水滴が、滴っていく。
一生忘れまい。
この日のことを、一生忘れまい。
このように愚かな部下ひとりしか、傍に置けぬ哀れな君主が、迎えたこの日を、生涯忘れまい――





「キミは泣いていたね、十兵衛」
その声に我に返り、十兵衛ははじかれたように顔をあげた。
眼を射る陽光、容赦なくすべてを暴くその光が、花月の美しいかんばせの輪郭を、逆光の影絵に仕立て上げる。
表情が見えない。
「……泣いてなど」
「泣いていたよ」
風が吹き、重い漆黒のコートが翻る。花月を束縛したがる十兵衛の想いそのもののように、その細い身体にまとわりついて。
「僕がみじめな誕生日を迎えたことが、悔しかったか、哀れだったのか……とにかく、泣いてた」
逆光のかんばせがふいとそらされ、十兵衛の眼前で、花月は再び、挑むように朝陽に向き直った。
「花月、」
「僕はね、十兵衛!」
さえぎるように、半ば叩ききるように、明るい――あるいは、明るさを装った花月の声が輝く。
「僕はね。あの日のことを、つらい思い出として一生覚えているわけじゃ、ないんだよ」
「……花月?」
わずかに花月が、身体を朝陽に向き直らせたまま、肩越しに彼を振り返った。
逆光の中におぼろにうかぶ、その口元に浮かぶ笑み。その黒曜石の瞳は、見ることができず。
十兵衛もまた、己の表情の全てを晒されたまま、決して眼をそらすまいと、その姿を必死で見上げる。
まばゆい光の中の逆光の影絵は、身を切る風の中の春色のかんばせは、わずかに振り返るその姿のまま、彼の臣下に言葉を継いだ。
「この先、僕に何回の誕生日が来るかは僕にもわからない。
 けどね十兵衛、きっと、キミと二人だけで迎える誕生日なんて、あの一度きりだと僕は思う」
十兵衛は息を呑む。
不意に彼は、花月が泣いているのではないかという、まったく根拠のない予感にとらわれて一歩を踏み出した。
斜めに突き立った尖塔、脚をかけ、だが――だが、度し難いことにその先の一歩を踏まず。
ひたすらに明るく輝く声は、再び十兵衛から背けられ、そして、言った。
「僕は一生忘れない!
 キミとたった二人だったあの日、キミが僕を想って泣いてくれたあの日を。生涯、忘れることはないだろう!」


『違う、花月』
その声が、必死でおしとどめる己の理性を振り切って、十兵衛の唇からまさにほとばしろうとする。
血を吐く如く、咽喉を裂いて、今にも彼から飛び出そうとする。
泣いたのは、たしかに花月のため。
だがその理由は、彼の想うような、そんなやさしいものではない。
十兵衛は己の愚かさに哭いたのだ。
あれほど彼のいとしい主君が、寒さと飢えと孤独に震えていたというのに。
その身体をひととき、一年でもっとも特別なあの日に独占できた己が、一瞬、たった一瞬であったとしても――


しあわせだと、想ってしまったその、己の愚かさに。


「花月、違――」
「行こう、十兵衛」
まとわりつく黒衣を翻して、花月は振り返り、そして――跳んだ。
「花月ッ」
己に向けて飛び込んでくる身体を、必死の想いで受け止め、足を踏み外すまいと、己もまた後方に飛んでふたり、尖塔の根元に転がる。
「あははははっ」
明るい笑い声をあげた、腕の中の身体は、常と変わらぬ……彼の主君であり、親友であった。
「――花月、」
「さすが十兵衛だね! さぁ、銀次さんのところに行こうよ」
何事もなかったような顔。
乾いた頬。
先程一瞬感じた、「何か」――は、彼のうぬぼれが見せた幻ででもあったものか。
「……そうだな、行こう」
軽く花月の頬を撫で、十兵衛はともに立ち上がる。
安堵と苦悩にはさまれながら。
それでもなお――その一言を、言わずにすんだという一事を、喜ぶ己に唾棄すべき臆病さを、感じながら。


連れ立って、屋内へと入る愚かな彼らのその背中を。
すべてを暴くはずの陽光は、冷たく白く、容赦なく射抜き続けていた。