枷もなく、翼もなく




黒衣の裾が風にあおられてはためいていた。
「何を見ちゅう?」
まっすぐすらりと伸びた、糸杉のような後ろ姿に尋ねてみる。
帽子がこちらに向いているということは、あの蒼白い、背丈に比べるとひどく小さな顔は、きっと天を向いているのだろう。
尋ねたことに返事がまともに返ることは珍しい。今も目の前の美しい背は、彼の問いに振り返ることもなかった。
「ねぇ馬車」
あの、昏く澄んだ声がまとわりつく。返事を寄越してやる前に、言葉が続いた。
「羽衣が、見つからないのです」
「……は?」
「羽衣がないと、私は天に還れない」
背を向けたまま、神経質に細い手は日光を遮るように、己の顔の前に掲げているらしい。馬車は天を見なかった。見たらこの死神は消えてしまう。そんな気がして、白く眩しい世界の中でその背中だけを眺めていた。
「ねぇ馬車、羽衣はどこにあるのでしょう」
「……知らん」
「本当に?」
「…………」
知っているような気がした。口に出してしまえばきっとわかる。
だから……沈黙を守った。
「天に還りたいのです」
死神はどこまでも天を見上げている。
「羽衣を探して……天に」



「……どういう夢じゃ」
「どういう夢なんです?」
眼が醒めて思わずつぶやいた一言に、背中からものやわらかなテノールがかけられる。
ぎくりとして振り返ると、片手にバスタオル、片手にメモ帳とルーズリーフを手にし、不思議そうに赫瞳をおっとり見張った夢の主人公が、こちらを見下ろしていた。
「ソファなどでうたた寝すると風邪を引くと、いつも説教するのはあなたでしょうに」
風呂上がりらしい。真新しい部屋着用のシャツとスラックスを着込み、馬車を追い立ててソファから起き上がらせ、隣に座る。
メモ帳には流れるような走り書きが幾筋も連なっていた。奔放な仕事の虫は、馬車にバスタオルを当然のように渡し、
「ちょっと髪を拭いてもらえますか、私はメモを起こしますから」
と言ったきり、生真面目にルーズリーフにメモの内容を書き起こしている。
何となく溜息をついて、がしゃがしゃと頭をシェイクするように髪を拭いてみるが、ルーズリーフを走る几帳面な字は揺らぐ様子もない。バケモノだ。
「奪い屋のフェーズを、今回私が代理で担当することになりましたから。奪ってからのルートの選択は、あなたに任せます」
むしろ気持ち良さそうなその声にもう一度溜息をつき、「終わったぞ」と声をかけてバスタオルを放り出した。
「そうですか。こちらもちょうど終わりました」
渡されたメモを眺め、死神の手のシャープペンシルを取り上げるといくつかチェックを入れ、矢印を引いて金額を書き込んでいく。最低限の見積もりを立てないと、今回の仕掛で提示される報酬が、真っ当なものかどうかがわからない。
「……そんなにしますか?」
「車を途中で替えにゃいかんき……邸の見取り図は」
「明日、覗き屋から」
「ふむ」
「ねぇ馬車」
シャープペンシルの芯が、ばきりと折れた。
「……ん」
空いた一瞬の間を、夢によるデジャ・ヴのせいだと認識する前に、赤屍はおっとりと首を傾げて馬車に問う。
「奪還屋という仕掛屋を、知っていますか?」
「……奪還屋?」
「最近、代替わりをしたそうですよ」
言われて眉を寄せ、考え込む。
「そんなに……歳をとっとったか?」
「いいえ。新しい奪還屋も、まだ16・7の少年ふたりだとか」
「は、」
思わず苦笑してしまう。最近はとみに、若い異能の仕掛屋が増えた。あまり歓迎できることではない。大人のルールの分からないジャンクキッズの進出は、業界を荒らさせる。
その苦笑ひとつで、雄弁に言いたいことを表わして話題を打ち切ろうとした馬車の、手もとのルーズリーフを眺めてシャープペンシルを取り、自分の侵入&脱出ルートについてつけ加えながら、薄い唇は静かに言葉を継いだ。
「しかも片方は無限城の雷帝で、片方は奪い屋の美堂蛮です。……あの若さでは、ろくな仕事は来ないでしょうが……楽しめそうな面子だとは、思いませんか?」
語尾にひどく不吉な何かがするりと忍び込み、馬車は取り返したシャープペンシルを走らせる手を止め、眼前の赫瞳を覗き込んだ。
「……俺の仕掛は、」
やんわりと、だが有無を言わさぬ力で、眼前の白く尖った顎を掴み、息のかかるほど近くまでその顔を引き寄せて囁きかける。
「おまえの遊びのためにあるのとは、違うぞ?」
「わかっていますよ」
気のない声で返事をしてから、赫瞳は不意に、にぃ、と細められた。
「しかし、私の仕掛は、私を楽しませるために存在しているのです」
馬車の仕掛は目的を達成するためにあり。赤屍の仕掛は過程を楽しむためにある。
彼ら二人が長くつきあっていられるのは、互いがそれを把握し妥協点を探そうと努力するからだ。運び屋としての馬車の身の内に、敵を叩き潰すことを楽しむ病んだ気風があることも、赤屍の気に入る一点ではあったのだろう。
「あなたがスムースに仕掛をこなすのを、邪魔しようとは思いません」
「……なら、俺もおまえの楽しみを邪魔はすまい」
顎を放し、何事もなかったかのように、ルーズリーフに視線を落とす。
近い将来、この死神は奪還屋を見出すだろう。仲介屋を唆し、策略をめぐらせ、きっと、自分で見つけた気に入りの店を見せびらかすように、馬車を巻き込んで仕掛を編む。情熱を傾けて。喜びに溢れて。
痛々しい傷痕を浮かせる手の甲と、細い指がルーズリーフの上を這い、ここには問題が、ここには疑惑が、と指差しながら、何でもないことのように、しかしひどく優しく笑って囁きかける。内緒のことですよ、とでも言いたげに、馬車の耳元に唇を寄せて。
「……彼らなら、今度こそ、私の欲しいものを与えてくれる……そんな気がします」


『羽衣を探して……天に』


「……そうか」
それきり黙ってルーズリーフに走らせる馬車のシャープペンシルが。
めきり、と小さな音をたてて……握りの部分でわずかに歪んだ。


「今日は、空は見上げんが?」
「良いのです、羽衣はもう見つけたから。後少しで天に還れます」
天へと吹き抜ける風から帽子を奪われまいと、片手で押さえて細い立姿は振り返る。
その赫瞳の翳りに馬車が、無言で言葉を促すと、
「ねぇ馬車」
困惑したような声が返ってきた。
「羽衣をくれないのです、彼らが」
「……なしてかわかるか?」
「わかりません。私のことが嫌いなのでしょう。彼らは羽衣を持っているのに、私にはくれようとしない。私はまた、天に還るのを待たなければなりません。
 本当に、あともう少しなのに」
どうしたらいいでしょう、と打ち沈んでうつむいた白皙の容貌が、帽子のつばの下に隠れる。
「……羽衣を、」
低い、どこかが錆びついた軋るような声で馬車はゆるやかに答えた。
「渡してしもうたら、おまえは天に還る」
「勿論です」
遠い憧憬を映して、赫瞳は再び天を見上げる。
その姿から、目をそらすまいとにらむように見据えて馬車は言葉を継いだ。
「おまえを天へ還してやるほど……あれらは、おまえを嫌いでも、好きでもないきィ」
「どうしたら良いのでしょう? もっと嫌われたら良いでしょうか?」
白くて細い、長い手指が空を掴む仕草をした。馬車に背を向けたまま。
「還りたいのです」
せつなげな声が風に吹き上げられ天へ消える。
「これほどまでに還りたいのに、誰も、羽衣を返してくれないのです……」



ぐったりと額に手を当て、落ち込んでいる馬車を、ソファの上に座って赤屍はしげしげと見下ろしている。
「最近、夢見が悪いのではありませんか」
「……そうらしい」
羽衣、羽衣とおまえが夢でわめきよるき……と文句を言ってもはじまらないので、そのままむっつりと黙り込む。
床で寝てしまったせいか、体の節々が微かに痛い。緩慢に身体の向きを変え、片肘だけついて頭を支え、半身で起き上がった馬車は、ソファに座って自分を見下ろすその赫瞳を覗き込み、尋ねた。
「小僧どもは、おまえと殺り合うてくれたか?」
「……」
少し寄せられた眉が、言葉より雄弁に結果を語る。
無限城で仕事をすると――奪還屋も一緒だと、たのしげで一方的な連絡が入って以来、久しぶりの来訪。愚痴りたくて来たのだろう。慰めて欲しいのかもしれない。こと、血と汚泥を振りまく殺し合いの分野において、この死神は、変に乙女ぶった一面を見せる。それだけ、求めるものに対して純粋だということかもしれない。
「あと少しだったのです」
言い募る声が夢の内容をリアルに再現する。
「そうか」
馬車の手に羽衣はなく。羽衣を持つ者たちはそれを与えようとはしない。
天の高処へと、伸ばされた手は届くことはなく……それでもいつかは、


「……馬車?」
ソファからすらりと伸びた脚、また勝手に風呂に入ったらしく裸足の足首は少し上気して馬車の目の前にある。
気がつけば馬車は、肘を突かぬほうの腕を伸ばしてその足首を、己の頑丈な、万力のような手で握りしめていた。
これは人外の生物だ。いつかは天に――人の届かぬ領域に飛び去っていく。
されど――
「馬車、」
みしり、と足首の軋む感触が手に伝わるが、馬車は力を抜くことはしなかった。
ソファに座ったままの死神も、それを拒むことはない。じっと、少し眉をひそめた表情のまま、足首を握る馬車の手を眺めている。
「――、」
何かを――確かに何かを、己は言おうとした、何を言おうとしたかわからぬままに、馬車が唇を開いた瞬間、


ゴキッ!


鈍い音と共に赤屍の足首は、外れて異様な角度に曲がり、だらりと床にしなだれた。


「……馬鹿力ですね」
少し顔色の白さが増した死神は無造作に己の足首を両手で掴み、聞いている方が痛くなるような音をたてて関節をはめ直した。
「すまん」
「いえ」
加害者の形ばかりの謝罪に、おざなりに答えた被害者はつと、己の足首を眺めてふわり、とどこか疲れたような、微妙にうつろな笑い方をして馬車に脚を突き出した。
「見てください、馬車」
「……」
「まるで足枷のようだと思いませんか」


くっきりと、白い足首に赤黒くついた握り手の跡。
馬車は黙ってそこから目を背け、立ち上がると背を向け、キッチンへ向かった。
「馬車、」
「しまっとり」
「は?」
「逆脚も、外しとうなる」
背中を向けたまま、がき、と己の手指の関節を片手で鳴らしてみせる。
「おかしな趣味ですね」
「おまえに言われとうはないが」
飯を作るからそこにいろ、とつけ加えてから肩越しに、一度、振り返った茫洋たる表情のままで。
「そう簡単に、天へ還れると思うなよ」


返答を待たずキッチンへと、その大きな身体を割り込ませる瞬間に。
「思うぐらい、許してください」
そんな小さな声が聞こえたような気がしたが、夢の残滓に違いないと理性と願望で決めつけて。
馬車はその声を叩き消すように力一杯、蛇口をひねって鍋に水を受けた。