Femme Fatale
「真の『魔性』ってのァ――あたしにゃァひどく無邪気で自由な生き物に、見えッことがァござンしてねェ?」
――――色里にてその最たる魔性……「女」を描き続けた、それは無名の絵師の言葉。
扉を開けて押さえ、「入れよ」と顎で中を差すと、目の前の黒ずくめの姿は小さく肩を震わせてクスクスと笑った。
殺気など微塵もないのに、一瞬、ぷん、と香る血臭。
「何がおかしい?」
「……意外に紳士でらっしゃる、と思いまして……」
「フン……相手を選んでんだよ」
少なくとも、ドアを押さえて相手を先に通せば、背中を見せずにすむ。そういう意味では、誰にでもすることではない。
「それはそれは。光栄です」
台詞にしなかった真実を、どう汲み取ったのか。帽子のつばの下で変わらぬ微笑をはりつけたまま、彼はおだやかに答え――
ゆら、ゆら、と、悠然と顎を上げて不動の前を通った。
黒いコートにつつまれた細い後ろ姿は、不動の視線の先で物珍しげに部屋を見渡し、警戒の欠片もないように思える。
その背に触れるタイミングをはかりつつ、不動はその黒いコートと、その下に当然あるであろう肉体に視線を這わせた。ひとつしかない瞳に、見るだけで犯せるのではないかと思えるような意志をこめて、じっくりと。
ウェストがひどく細い。不動の腕なら片手で一回りできるだろう。背や肩は薄い。着やせでもないようだ。体重は不動の半分しかないのではとさえ、思わせる。スピードを極限まで追求した身体。
――つまり、力押しが効くってことだ。
口元だけで笑うと不動はゆっくりと扉を閉め――
後ろ手に鍵を、かけた。
眺めるというより「舐め回す」といった方が良い視線を、感じているのかいないのか。不動の脚で半歩先、黒ずくめの後ろ姿は自然な――自然すぎる動作で、す、とポケットから手を抜いた。
そのままふたり、視線を刺す者も刺される者も、永劫に等しい一瞬を共有する。
だがそれは所詮一瞬の均衡。
――噂のメスで、俺も斬るか?
そう心で呼びかけながら、無造作に手を伸ばして――
手が届く一秒前、不動の脳裏に迫るワン・セコンドのメスのヴィジョン。
「……ツ、」
ぴた、と手を止めると同時、ゆるゆると振り向いた黒ずくめの中の白い微笑。
あどけない、とさえ言えるような、そんな微笑のどこにあのヴィジョンが?
「どちらにかければ?」
「……は?」
「帽子」
口元だけをわずかに見せて貞淑に顔の上半分を隠していた帽子は、取り去られて、今は手袋に包まれた手に携えられている。
はじめて見る白い全貌をしげしげと眺めながら、小憎らしげに鼻を鳴らして不動は、伸ばしていた手をそのまま、差し出された帽子に伸ばした。
「貸しな」
受け取った帽子を小脇に抱え、ついで、といった仕草で、
「コートも脱げや」
とかけた言葉と同時に、やはり無造作に手を伸ばし、――今度は物騒なヴィジョンもなくぽん、と肩に手を置く。
掴んだ感触はやはりひどく細く、薄い。
「ああ、すみませんね」
手伝われるままにする、とコートを落として現れた白いシャツ――
「こいつぁ……」
コートを脱ぐためにぐ、と逸らせた肩、シャツ越しに細く浮き出した肩甲骨、首の細さゆえに少し余る襟ぐり、
…………………その襟ぐりから覗いたうなじ。
「どうかしましたか?」
斜めに視線を寄越してくる切れ長の瞳。
「……いやいや、めっけもんだな、と思っただけよ」
とん、と肩を押して部屋の中にと入らせた。
この底の読めない美人を拾ったのは、裏新宿の一隅、けだるい昼下がりだった。
黒ずくめ、鍔広の帽子、はりついたような笑み、香る血臭、一分の隙もない立ち姿、
Dr.ジャッカルだと、一目で知れる「澄んだ凶凶しさ」。
お互い名が売れてはいたが、仕事がかちあったことはない。
道をふさぐように立つと、「?」と首を傾げてにこにこと笑う。
名を名乗っても、「ああ、あなたがあの」とにっこり頷くだけで、警戒する様子もない。かといって侮る様子でもない。
せめて人間らしさの欠片でも――たとえば眉をくもらせる、目を伏せる、そんなわずかな何かでもあったら。その瞬間に、この冷たい生き人形への興味を一気に失うことができるだろうに。
どこまでも綺麗で、ゆったりと動く、冷たい――読めない、人外の化生。
「サトリ」と言っても、伝説のように相手の心まで覗くことができるわけではない。どうにも扱いづらい相手だ、と思った時に連想したのが――「彼」であった。
『旦那ァ、欲に振り回されすぎさァね。まァた女ァ殺しやがッてよゥ。あれァ売れっ子だったンですよゥ?』
独特のけったいな口調でのんびりと煙管をふかしながら、彼は絵筆を走らせる。
『うるせぇな』
殺すぞ、とお定まりの脅迫を口にしてみたが、それが不可能なのはわかっていた。
不動は以前より、この男がどうも憎めないのだ。歌舞伎町の吹きだまりの中で、飄々と絵を描き続ける無名の絵師。
『大体ェ旦那ァ、こう思っちゃァいませンかィ。色気たっぷりのいかにもワルな女を見て、ああ、ありゃァ魔性だ、とかさァ』
『悪いかよ』
『悪ィさァ。本当の魔性、真からの傾国、そンななァ、東洋じゃァぱッと見ァ悪女と程遠い姿形(なり)ィしてござンしょ?』
『……たとえば?』
『たとえば……そうさァね、』
絵師はふと、にぃ、と唇を吊り上げて画布の裸婦に赤い色彩を叩きつけた。「J」の形に。
『もしもDr.ジャッカルが女なら……ありゃぁファム・ファタアルとかいうやつに、なるンじゃござせンかィ?』
歌舞伎町という一大繁華街に巣を張り、その中心に座する蜘蛛とも言えるその絵師は、仕事の仲介も気まぐれにすることがあった。
その彼が見た赤屍が「稀代の悪女」――「本当の魔性」だというなら、不動にはどうもそれは理解しがたい。
赤屍が剣呑かつ物騒であることは、もちろん不動も知っている。しかし快楽殺人症の男に蠱惑的な魅力があるとは、到底信じられるものでもない。
そんな思いが、不動に赤屍を口説かせた。
触れれば切れそうにも、触れれば折れそうにも見える微妙さが、黒いコートには見え隠れしていた。笑顔は邪悪なものにも無邪気なものにも見て取れた。戦っている最中ではなかったのも、韜晦に拍車をかけたのかもしれない。
こうまで読めない相手なら、いっそ毒だと割り切って、皿まで食ってみるのも良い。
そんな不動のふてぶてしい思考が、不動の部屋の窓際に立ち、目を細めて(元から細いが)外を眺める赤屍、という結果を生んだのである。
マンションの9階から夕暮れの赤い空を眺めている後ろ姿を、珈琲をデスクに置いて椅子に腰掛け、やっぱり舐め上げるように眺めていると、さすがにうんざりしたらしく赤屍は振り向いた。
椅子にどっかりと座っている不動を見て眉を上げる。
「どうした?」
「――前言を撤回しますよ。自分が腰掛ける前に、まず客に椅子を勧めるのが礼儀でしょう?」
「あいにくこれしかねぇんでな」
椅子の肘かけをぽん、と叩いた。
「――」
切れ長の瞳がつつ……と黙って右、左、と動く。
どうやら本当に、椅子が一脚しかないことに気づいていなかったようだ。
案外ボケてんのか? と思ってから、生活ずれしていないだけかもな、と好意的に印象を切り替える。
どうもこの撫でたくなるような腰をしている麗人は、「生活」「現実」というものが似合わない。
たとえ蛇口のひねり方を知らなくても、ライトのつけかたを知らなくても、納得してしまいそうな一面がある。
「――一脚しかない椅子を客に勧めず自分で座るのですか?」
少し機嫌を損ねたようだ。細い眉をきゅ、と寄せて歩み寄ってくる。見上げて不動はにやりと笑った。このアングルは白い喉が見えてたまらない。食い破りたくなるのは、この優美な獣が血臭を放っているからなのだろう。
「ベッドならふたり座れるぜ。ベッドルームに移るか?」
座る暇があるかどうかは知らねえが。反応が見たくて、わざと下衆な口調でそう吐き捨ててみた。隻眼を細め、どっかりと椅子に腰掛けたまま、彼の身長では滅多に見られない「あおり視線の赤屍」で眼を楽しませる。
ここで「失礼な」と帰ってしまうならそこまでの相手だ。面白味もへったくれもあったものではない。
期待している――何かとんでもない緊張感、肩透かしでも良い、あきれるような意外さを。彼の「欲」を満たす楽しみが欲しい。
左手を伸ばしてキャメルの箱と古ぼけたジッポライターを手に取り、一本火を点ける。
ここでやっと視線を外し、さも美味そうに煙を吐いた。
これが不動でなかったら、誰もが「新手の自殺」と断定したことだろう。
目の前の人物の気配・表情ともに、変化はない。「ふぅん」とも言いたげな微妙な無表情で、沈黙している。だがやがて、
「……?」
窓から落ちかかる赤い陽光が遮られて不動はつと視線を上げ――
「……!」
脳裏いっぱいに広がる切れ長の赫い瞳、
ふきつける氷のようなプレッシャー、
無意識のうちに手が伸びて相手へと――
すとん。
そんな擬音のしそうな、一瞬の間隙を縫ったその狭間に――
黒白の死神が、膝にまたがって微笑っていた。
不動の手は横薙ぎに赤屍の胴体を寸断しようとして、ぴたり、と白いシャツの細い脇腹のところで寸止めされている。
左手の煙草は揺れもしていない。灰も落ちてはいなかった。
確信はあった。あの一瞬、確実に赤屍は不動を殺すつもりで動いていたはずだ。
それを読んで不動は動いた。動いている間に赤屍は――考えを変えたのだ。このまま殺し合うのはつまらない……とでも。
そのまま、座った。不動の膝の上に、またがるようにすとん、と。
何と気まぐれで――人の世の常識を無視した、自由で卑怯な生き物であることか。これで「それならば」と抱き寄せでもしたら、やはり気まぐれに八つ裂きにでもしそうである。
――魔性だ。
心につぶやく。
眼前には笑み。この上なく綺麗な、整った……自由な、無邪気な、
……無情な笑み。
――なるほど、こいつこそ真からの魔性だ。息してるかどうかもわかんねえような奴がこんな行動とりやがるか? ここまでして……
――ここまでするくせにまだ人間の匂いがしねぇのかッこの生き人形は!
「ひとつしかない椅子なら、ふたりで座るしかないでしょう?」
バランスを取るためか、それとも誘っていやがるのか。胸をややそらした体勢で、す、と髪をかきあげる。白いシャツから肋骨のおぼろな線でも透けそうだ。
窓からの赤光に照らされて朱に染まる白い肌。
かじりつきたくなるようなラインの腰に居座られて膝でやわらかく腿を締めつけられ、肉体的なボルテージはあがりっぱなしだが、いかんせん手が出ない。
――畜生。ここでケツつかんだらやっぱりメス出しやがるかね。
脇腹で止めた手をらしくもなく泳がせた時、
「――灰が落ちますよ?」
氷のように冷たい白皙の手と凍れる笑声が、そ、とキャメルを指に挟んだままの左手に降りた。
その白い指の綺麗に切り揃えた爪先が目に入る。
「――っか」
「はい?」
「気にしていられっかってんだ」
「はぁ、しかし灰が――」
ここまでコケにされて(赤屍にコケにしている自覚はないにしろ)、たかがメスの一本や二本食らうことを恐れて逡巡するなど性に合わない。
毒を食らわば皿まで、と思いきったはずだ。今更相手が稀代の悪女だからって何を恐れることがあるのか。
ぐしゃ、と握り潰すと灰皿に投げ捨て、そのまま左手の上の手を乱暴につかむ。
同時にためらいなく、脇腹にあった手で腰を掴んで引き寄せた。
「どうしました、急に?」
クスクス、と笑う下唇にやわく鋭く噛みつく。
おや、と言いたげに、細められていた赫い瞳が少し見開かれ……
――見せろ。何かなまぐせぇ……人間らしいもん見せてみろや。
……そのまま面白そうに再び細められて、やわらかく不動の表情を観察する。
どこまでも冷たくて綺麗な笑顔の化物。
『本当の魔性、真からの傾国、そンななァ、東洋じゃァ――』
このままでは、
古の中国、傾国の美女の花咲く一笑が見たい一心で国を滅ぼした男の気持ちが……
……凍りついて溶けぬ身体と心をどろどろに溶かしたくて身を滅ぼす男どもの気持ちが、わかってしまう。
毒を、食ってしまったのだ。皿まで、テーブルまで食わずにいられるはずがない。
腰から手を滑らせて背と頭を押え込む。
――悪女め。泣き叫ぶまでやめてやるかよ。
深い貪るようなくちづけを宣戦布告に、不動は眼前の「至上の毒婦」(ファム・ファタール)との闘いに没頭していった。