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背を向けて丸くなった、布団の上の小さな身体は、寝ていないことが一目瞭然であった。他の誰が騙されても、「筧」たる十兵衛が見れば、背中の動きと寝息の音で一目瞭然であった。
近づく十兵衛が、畳を擦る音をわざと少しだけたてるのは、花月を安心させようとしてのことだ。動きやすい紺袴姿は、年若き少年当主には、よく似合っていた。 「かづき」 低い声をかける。変声期を終えたばかりのその声に、だが、返答はない。 「花月、眠れないなら鍼を――」 「みんな、」 言いかけた声をきつく遮って、まだ幼く高い声がつぶやく。鈴振るように笑うその声が、かすれてしまっているのに気づいて十兵衛は眉を寄せた。 「花月、」 「みんな死んでしまった」 「……ああ」 障子の向こうからふりそそぐ月光が、掛け布団の塊の上にいびつな格子の影をしみつけていた。その影の格子が少しだけ揺らいだ。布団の下の花月が、身じろぎしたのだろう。 「母上も家の皆も。死んでしまった」 「……花月、少しでも眠らないと」 「筧のせいで」 「…………か、づ、」 「『筧』が、護らなきゃいけなかったのに。 みんな死なせたんだ」 その声に打ち据えられたかのごとく。ぐらり、と十兵衛の体が傾く。 くずおれかけて、しかし、白足袋を履いた畳をにじり、踏みとどまった。 風鳥院の家も、筧の家も、業火の元に灰となってただ、跡取りの子供たちだけが残り。 家を離れていた姉の身を案じながらも、ただ、花月だけを助けつづけ逃げつづけた。 最期まで一言も「助けてくれ」と言うことなく……十兵衛を花月の元へ送ることだけに、敵を一人でも殺すことだけに命を捧げて殺されていく家の者を、すべて、見殺しにして――その代償に得た花月の無事。 ――若、はやく宗主のもとへ、 ――我が姫若を頼みます そう言い残して死んでいった幾多の者たち。 逃げ込んだふたりを、命を賭けて受け入れ、逃がしてくれた各家の弟子たち。 この離れさえ、そういった家の一つが提供してくれたものなのに。 「キミの顔なんて見たくもない」 かすれた声の幼い宗主は、そう言って十兵衛を拒絶する。花月のために死んだ「筧」の者すべてを、拒絶する。 普段より優しく健気なこの幼い主君の変貌が理解できず……言われている内容を理解したくなく、ただその場に立ちすくむ十兵衛に、業を煮やして花月は跳ね起きる。 障子に背を向けて、切り揃えた髪を乱して。その表情は、月光を背にしていて見えない。 幼い、少女としか思えぬたおやかな姿で花月は、十兵衛をたじろがせるような裂帛の気を放った。 「出ていって。……二度と戻ってこないで。僕の前に顔を出さないで!」 いつも少しだけ笑いを含んでいるように見える、黒目がちの瞳が――今はぎらりと光り。 「オレに……責任を取って死ねと言うのか花月」 「キミの命なんていらない。『筧』なんてもういらない」 激昂して吐かれる花月の言葉が、年上とは言えたったひとつしか歳の違わぬ十兵衛を、容赦なく微塵に切り刻む。 十兵衛も父母を喪い家を喪った。姉が遠方でまだ生きているとはいえ、たった一晩で故郷を喪った衝撃は大きいのだ。それでも、花月を気遣い、護るという決意が十兵衛を支えてくれていたのに…… 「――ッ」 とっさに言い返す言葉も見つからず、絶句しそれでも、十兵衛は無意識のうちに花月に手を伸ばした。 (命を捨てた筧の者たちを、何だと思ってるんだ) (花月は混乱しているだけだ、すべてを喪ったのだから仕方のないことだ) (オレのことがもう必要ないというのか?) (これは何かの間違いだ、花月がそんなことを言うはずがないんだ) 百万の語は口から出ることはなく。 ただ花月の白い夜着の襟を、右手で掴み引き寄せる。 「花月――」 やっと絞り出した若々しい声は、煮える感情の坩堝と化し。 「――花月、」 呼吸さえ苦しくなって、ただその名ばかり繰り返して、ねめつけた、と―― 「……何で泣くんだ」 肩をいからせて顔を背ける花月の、黒曜石の瞳――わずかな月光さえ反射したと見えたものの正体が、今にもはたりと落ちるかと思うほどにたまった涙と知って。襟を掴む力は抜けていった。 「泣いてなど、」 「嘘をつくな」 「離して」 「オレの顔を見ろ」 「見たくもないって、」 「花月。……花月」 何度目か。先ほどまでとはまったく違う、穏やかな声をかけられて、うつむけたままの顎を水滴がつたい、ぱた、と布団に落ちる。 「みんな……死んでしまった」 「……ああ」 「ぼくのせいで」 「……なにを、」 「みな同じいのちなのに、……だれかのために、死んでいい命なんて、ないのに……」 ぱたぱたと、布団に水滴の音がつづく。 襟を掴んだ手をそっと離し、布団を握りしめた手におずおずと手を重ねると、びくりと震えて手は引っ込んだ。途方に暮れ、花月、ともう一度呼ぼうとした時、それを遮るように、 「君だっていつか。 ……いつか僕のために死ぬんでしょう?」 震える吐息と共にそう言った瞬間、花月は耐え兼ねて身体を折り……顔を覆い声を上げて、渾身の力で悲泣した。 かける言葉なくその場に片膝をつき、震える背中を無言で見据える十兵衛の、その視線を背で受けて花月はさらに涙をこぼす。 この朴訥たる若きサムライに、「死なない」などと、優しい嘘が言えるはずもない。得体の知れぬ敵に追われ、向かう先は、この世の地獄とも聞く無限城なのだ。 (あなたがご無事でよかった) (あなただけでもお逃げください) そう言って血の海に沈んでいった、多くの大人たちの顔が脳裏から離れない。 (おまえを護るために生まれてきた) そうためらいなく言いきる十兵衛が、あの屍の中に加わる日がいつか来るのだと――遠い国のできごとのように思っていた生死の境が、今目の前に迫っているのだと、気づいて目の前が真っ暗になった。 遠ざけなければ、『風鳥院』から遠ざけなければと、そればかり考えて、心にもないことを言ってみせても、幼く愚かな自分は呆れるほどに、感情の制御ができなくて。 ――もうだめだ。彼は死んでしまうのだ。自分が無力なばかりに。 いつか死んでしまう時の分まで今泣いてしまおうとするかのように、花月はただ、泣きつづけた。 十兵衛の手がためらいがちに伸びて、泣き伏す花月を覆うように抱きしめる。 筧の父も、風鳥院の母も、あれだけの使い手でありながら喪われてすでに亡い。 物知らずな、小さな世界の小さなふたりなら、「死なない」「そうだよね」と、優しい嘘もつきあえるのに、今の彼らにその言葉はない。 だから十兵衛は囁いた。 「花月、オレは『筧』だ」 聞きたくないと身を捩る動きを押え込み。 「親父が死んだ今、オレが、『風鳥院』と対を為す筧の当主だ。どちらも欠けることの許されない二柱の」 本当は、そんなことが言いたいのではない。 そんな理由で共に生きたいのではない。 それでも。 「……だから俺は……次の『筧』に命と技を託すまで、決して死なないよ」 そう言って十兵衛は、小さな花月の髪に頬を押し当てた。 鳴咽が驚きに止まり、細い喉がかすかに鳴る。 「一緒に生きのびよう、花月」 「……互いの家の……技のために……?」 返答は沈黙をもって返された。 お互いに、「あなたには、自分のために生きて欲しい」と思いながら、 お互いが、家と技のために負わされたものの重みを知っている。 だから十兵衛は沈黙し、花月もそれ以上追求することはなく、 「それでもいい……生きていてくれれば」 そう言って涙に濡れた顔を上げ、緩慢に身を起こすと少しだけ……おだやかに微笑った。 「行こう、十兵衛。生き延びるために」 手が枕元をまさぐり、音が鳴らないよう握り込んで鈴を持ち上げる。 「ああ」 一瞬離しがたく肩を抱く腕に力を込めてから、十兵衛もまた己の武器を手に携えた。 いつでも飛び出せるよう、枕元に置いておいたスポーツバッグを持ち上げてふたり、気配を鎮めてその場に片膝をつく。 数え切れぬ命を犠牲にして、数え切れぬ敵を葬って、そして生き延びて。 (互いの家と、技のために……?) 本当は、そんな理由じゃないと、わかってはいるのだけれども。 天井裏から、罠にかかった敵の血がぽたり、と花月の白い夜着に落ちたその音を契機にふたり、示し合わせることもなく同時に地を蹴り外に飛び出す。 子供と侮ったか包囲の甘い、敵のその血煙を潜り抜け……庭をひたすらに駆け抜ける。 この若き二当主が、琴の音と断末魔のうめきで背後を埋め尽くし、無限城へと辿り着いたのは、 それから1週間の後――新月にまぎれての、宵のことであった。 そうして彼らの物語に、「無限城」という新しい章が設けられることになる。 生き延びるのは互いの家と技のためと、今しばらくは……己を騙し、互いを騙しつづけながら。 |