この日に受けたあなたの生――M
◆11月23日◆
朝からぱらついていた雨は、日が落ちた頃から急激に勢いを増していた。
雨の夜の視界は最悪だ。通勤時に、多少客は増えるが、それほどありがたいものでもない。
何とはない心の重さに、馬車は溜息をついて、リクライニングシートを少し倒した。
11月23日。この日付の皮肉な名前どおり、馬車は今日も、タクシードライバーとして道に出ている。
「……今日はよう乗らん」
ぽつりとつぶやくと、車内に声がひどく響いた。
先ほど乗せた客を、最後の客と勝手に決め。今日はしまいじゃと、シートを戻して車を発進させる。
『約束があるのです』
歌うように言った赤屍が、回想の視界の中で、首を傾げて馬車を見る。
『私の知らないものを、見せてくれるそうなので』
今年はわしの負けか、と自嘲的につぶやいて、馬車はクラッチを踏み変えた。
赤信号に停まってふと、馬車は己の車のちょうど左脇に、一件の花屋があることに気づいた。
この雨では、さぞかし客も少なかったのだろう。店主が水を捨てたり、鉢をしまったりなどして、店じまいの仕度をしている。
パン、とクラクションを鳴らされて、とっさに馬車は左折ウィンカーを表示した。
いつのまにか、青信号。
左折して、店の脇の路地に車を入れる。
どしゃぶりに近い雨の中、ドアを開けると走って店の軒下に飛び込んだ。
突然の大男の襲来に、少女の域を多少も超えておらぬように見える、小柄な女性が驚いたように息を詰める。
「あー……すまん」
関西の訛りが珍しいのか、少しぎこちなく笑いながら、いらっしゃいませ、と女性は答えた。
一生に何度も入ったことのない――これからも当分入る予定はない――場所に踏み込んでしまった馬車は、自分でも何をどうしたら良いか見当がつかず、視線をさまよわせて頭をかく。
「……あの、……何かお探しですか……?」
「ああ……花を」
そりゃそうだろう、と自分でも思いながら、馬車は阿呆のようにそう答えた。
「ええと、そのう……どなたかに贈り物ですか?」
懸命に話の糸口を探す女性が、少し哀れになってきたせいか、落ち着いてきた馬車は頷いた。
「誕生日……やき、その、……たまにゃあ花でもと」
武骨な男がそう口ごもれば、生来の人柄の良さも感じられたのだろうか、女性は「ああ、」と少しうちとけた様子で微笑んだ。
「どんなお花がよろしいでしょうか、お色とか……種類とか……」
「それが、てんでわからん」
やっと口がほぐれてきた馬車は、苦笑してそう肩をすくめる。
「ただそう、大けぇのンはいらんき、こう……ほそこい……」
手振りで、ほっそりしたラインを宙に描くと、「なら、たくさんは包まないほうが良いですね」と女性は馬車を手招いた。
「定番ですけど」
ガラスの保温室の中、時を切り取られたように、青白い光の中に咲いた薔薇の花。
そのうちの一種が、馬車の眼に留まる。
「……二本か、三本でええき。それを」
◆11月24日◆
まどろんでいるうちに、雨はやんでいたらしい。
カーテンの隙間から差し込む陽光に気づき、馬車は身を起こした。
ソファの上で眠ってしまったせいか、節々がだるい。重い身体をゆっくりと動かし、バスルームに入って服を脱ぎ捨てた。
洗面台にちらりと視線を走らせるも、バスルームの扉を閉め――かけて、チャイムの音に溜息をつく。
居留守を使おうか、とも思ったが、続いて2回、ドアをノックするその音に耳をすませた。
「……赤屍か?」
「ええ」
ドアの外、涼やかな声。
「入っとれ。風呂じゃ」
「そうですか」
がちゃ、と扉の開く音を聞きながら、バスルームに閉じこもり、シャワーを浴びる。
すると、バスルームに続く扉の、開く音がした。
「何しとる」
問うと、水音の向こうから見当違いの答えが返る。
「馬車、しゃぼん玉というものを知っていますか?」
「何じゃ?」
水音と、単語の意外さのために聞き逃し、馬車は大声で問い返した。
「いいですよ、出てから話します」
あっさりと、バスルームの扉のガラスに映る黒衣の影は出て行きかけて、ふと立ち止まった。
「……これは何です?」
「あ、おい、」
無造作に持ち上げた、それは、すりガラスごしのダークレッド。
……暗い甘い赫の、薔薇の花。
「誰から貰ったんです?」
不思議そうに眺め回している様子が、馬車をなんともいえない、背中のかゆいような気分にさせる。
やけくそで、水音越しに怒鳴った。
「貰うちょらん。おまえにやる」
「はぁ?」
「誕生日やき、くれてやる、ちゅうたぜよ!」
「……棘を抜いた、薔薇の花を……私に贈るんですか?」
ひどくその声が甘く聞こえて、馬車は思わずシャワーを止めた。
「おい……」
バスルームのガラス越しの、すらりと細い長身の黒衣。
「あなたといい、銀次クンといい……私を意外がらせるのが随分とお好きのようで……」
クスクスと笑いながら、口の辺りの赫と、薔薇の赫が近づき、触れ合った――ような、気がした。
くちづけている。
「早く出てきなさい、馬車。しゃぼん玉を見せてあげます」
「しゃぼん玉……?」
「銀次クンがくれたんですよ」
いかん、と思う前に、馬車は言葉をつむいでいた。
「石鹸水は花に毒やぞ」
そうなんですか? と、居間に向かいかけた声が近づく。
「触れたら、萎れる」
それはたしかに、一面のみの事実として嘘ではない。
……だが、事実の全てでもない。
「なら、次の機会にお預けですか。せっかくいただいたお花ですし」
赤屍はあっさりとそう答え、ついでのように、すりガラスの向こうでもう一度、その花弁をしっとりとくわえた。
姿も声も、居間に消えたその唇を想いながら。
「……わしも、性根の女々しい男やの」
がしがしと、バスタオルで髪をかきまわす馬車の口から、そんな、自嘲がぽつりと漏れた。