君を苦しめる君の痕



銀次が求める黒衣の死神、その白く伸びた首筋には、刃物がかすめたような古傷がひとすじ、細くあやうく走っている。ベッドの上で腕に抱き、追い上げた時にひどく扇情的に、薄紅色に浮かび上がるそれを、いつ、誰がつけたのか銀次は知らない。
銀次は何度も、この死神の刃を受けた。そして何度も、彼に反撃してダメージを負わせたはずだった。なのに、銀次のつけたはずの傷痕は、今、シーツをまとわりつかせてけだるく横たわっているこの体には、毛ほども残されてはいない。
このひどく奔放で、なのに時折、奇妙に悲劇的な運命の枷を感じさせる、ひらりひらりと黒衣とともに殺戮の舞を舞う――呪われた存在。そこに、銀次の痕跡は何ひとつないのだ。
まるでその闇色の心に、銀次が何も残せていないことの、象徴であるかのように。


手を伸ばし、銀次はその裸の首に触れる。この首に古傷があることを知っている者は、いったい何人いるのだろう。常に、己の醜さと異端を覆い隠してしまうかのように首元まで、きっちりと襟を詰めて黒衣に覆われたその身体。白く、シーツの海にのたうつ身体の、その傷の数を知るのは自分ひとり――と、うぬぼれるほど銀次は、この死神に夢を見てはいなかった。
――結局、殺してくれるならだれだって、いいんだよね。赤屍さんは。
声に出してつぶやけば、この過敏な人は起きてしまう。それがゆえに、ダブルベッドの片側に起き上がった銀次は、口の動きだけでそうつぶやいて、それからただ、小さく笑った。笑う以外に、選ぶべき表情がわからなかったのかもしれない。


いとおしむように、薄いその古傷を撫でると、端正な顔の中の赫は閉ざされたまま、静かなテノールが言葉を継いだ。
「その傷に何か恨みでも?」
「……え?」
びくりと、触れた指先を震わせて銀次の身体が強張る。赤屍の瞳は開かない。
そうして横たわっていると、まるで大理石の彫像だ。もともと、無表情な存在であるがゆえに、その感情を時折何よりもあらわにする赫の瞳が隠れてしまえば、彼は、彼の名前たる屍そのもののようにも見えた。
「恨みって、……そんな。オレ、誰がつけたのかも知らないのに」
手を離すのが惜しくて、だが、今度は遠慮がちに、そっとその傷跡をたどって撫でる。
「そうだったのですか? やけに噛みつくから、今度は何がキミの気に障ったのかと思っていたのですが」
言われて気づく。
その首筋にも、あるいは、肩から胸元まで深く深く刻まれた異様な裂傷にも、周囲には銀次の歯形と、唇による赤い痣が無数に刻まれている。
自分が無意識のうちに、彼の古傷にさえ嫉妬していたのだということに気づいて、銀次は赤面した。
銀次が言葉につまったことに気づいたか、組み敷かれた疲れに頬を青白く尖らせた黒衣の――今は裸の――死神は、ゆっくりと瞳を開いていく。
うつろな異形の赫が銀次を見上げ、なぜか、銀次はさらに赤面した。
ごまかすように頭をかき、「そういえばさ、」と、白い鎖骨の上の薄紅の噛み傷に、指先で触れる。
赤屍は抵抗しなかった。
「赤屍さんって、痕、全然残らないよね。こんなに白いのに、すぐ消えちゃう」
「回復力が高いのですよ。キミだってそうでしょう」
「……そうだね」
傷痕どころか、……数日間、彼が確かに腕に抱いたのだというその証を残すことすら、この死神に対しては許されていない。
十兵衛は、花月との闘いの後遺症に得た、盲目という傷さえいとおしむ。その想いを、銀次は理解できるような気がした。
何一つ、残せないのだ。何一つ。自分には。
それが何か? と言いたげな視線を銀次に向ける、その赫を見ていられずに顔を背け、銀次は窓の外の安っぽいネオンの風景を見つめた。
こんな場末のビジネスホテルに身を横たえ、何一つ、殺すことと殺し合うこと以外の楽しみを知らず、ただ、戻れば食い、眠り、そして起き上がってまた人を殺しに向かう――……そんな哀れで醜い生き物を、なぜそんなに求めてしまうのか。銀次には自分で自分が理解できない。
恋の理不尽さを、小難しい言葉で説明する術を持たぬこの青年は、ただ、困ったな、と伏し目がちに笑うしかないのだった。
「そんなに、すぐ痕が消えちゃうんならさ、赤屍さん、」
銀次は自分の声が、常の通りの明るい声であることを祈った。
「……浮気されたって、オレ、全然気づけないね」
「え?」
その声が酷く不思議そうで、銀次は、次に赤屍が、自分の心をずたずたに切り裂くような何かを――たとえば、「いつ私が、キミを本命だと決めたと言うんです?」などと――言い放つその衝撃に備えて、唇をかんだ。
だが、死神の、罪作りに甘いテノールはそんな手ぬるい言葉さえ放たない。
「おかしなことを言いますね。
 私が、キミに気づかれないように浮気とやらをするはずがないでしょう?」
「……は?」
理解できず、とっさに、ネオンを見つめたまま固まる。
かすかにシーツのずれる音がした、と認識した時には、フ、と音もなく笑うその息が、銀次のすぐ耳元にかかって彼をくすぐった。
「安心しなさい。
 他の誰かと私が寝るとしたら……理由は、それを感づいたキミに苦しんでもらう、そのため以外にありませんよ」


頭の中を、よく意味が理解できないまま、甘いテノールが反響する。
苦しめるために。
銀次を苦しめるために、他の男に脚を開く。
雷帝になって欲しいからか。
自分の身体を欲しいままにするくせに、自分の望みは何一つかなえない、そんな銀次が憎いからか。


銀次を苦しめるためだけに。
……それはすなわち、


ゆっくりと振り返り、自分の背で、その凶眼を面白そうに細めている、彼の死神をじっと見つめる。
何か、気おされるものを感じたのか、赫瞳はわずかにそらされ、そして、唇が開いた。
「シャワーを……」
浴びてきます、と言う前に手を伸ばし、無遠慮に、骨ばった白い肩を掴む。
「ねぇ、赤屍さん」
ひどくやさしい声が、ぐ、と死神の耳朶に近づいた唇から、発せられた。
「それってさ……すごい殺し文句ですよね?」
「銀次クン、」
かかる息と、若造の癖にひどく扇情的なものをはらむその声を嫌がって、赤屍は近づく顔を払うように手を振り上げた。
その手さえ捕らえ、銀次は大柄な死神の身体を、先程までそれが横たわっていた場所に押し倒す。
「何を言っているかわかりません、銀次クン。私はシャワーを――」
「他の男にヤらせるのもさ。
 ……結局全部、オレのため、なんでしょ……?」


銀次を苦しめるために、
……それは、すなわち、銀次のために。


「何を――キミは、」
銀次の言葉に呆れたというより、むしろ、自分の言ったことの迂闊さにいまさら気づいてうろたえた、といった様子の赤屍を、ひどく可愛く思えて銀次は、裏腹に有無を言わせぬ力でその身体の上に馬乗りになった。
そんなことを許すはずもないこの堂々たる殺戮機械が、よほど、自分の言ったことの恥ずかしい別解釈に驚いたのか、とっさに抵抗も忘れて呆然と、銀次を見上げている。
「いいよ、赤屍さん、オレ丈夫だから、ちょっとぐらい意地悪したって壊れないよ」
すでに痕も薄れかけている、その首筋に唇を近づけ、そして、優しさの欠片もない力でぎちぎちとそれを噛みしめた。
痙攣するように震える胸に、一度首から唇を離し、いとしくてならないといったように頬を寄せる。
「……他の誰かの痕なんか見て、すっごく苦しいのはたしかだから、できればやめてほしいけどさ」


おそらく、赤屍自身も自覚してはいなかったのだ。
たとえ、銀次を雷帝にするためであっても、追いつめるためであっても、あるいは、単に嫌がらせをするためであっても……
自分が思っているよりずっと大きなウェイトを、彼に傾けてしまっているのだということに。


「それは良いことを聞きましたね」
くるしげに首を振りながらも、憎まれ口を叩く、身体の下の優雅な死神。
「そうかな?」
そう答えるにとどめ、銀次はもう一度、この死神を踊らせるための行為に没頭していく。
この先本当に、この身体が、銀次を泣かせるためだけに、大して性欲もないくせに、他の男に脚を開いて、痕をつけて銀次にそれを見せつけたなら。
――……苦しいし、怒るけどね、赤屍さん。オレ、きっと、すっげーサカっちゃうと思うんです。
この人の心の暗黒の、あまりの無垢が可哀想で、
……そしていとしくて、きっと、朝が来ても彼を手放せなくなってしまう。


今は苦しめるためでいい。
殺すために、苦しめるために、彼の中が自分でいっぱいになるんなら、それで構わない。
そのうちきっと、もっと違った何かが、彼の中に生まれるはずだ。彼自身が気づかぬうちに。
今はただそれを待とうと、銀次は、目の前の死神の唇を奪うことで同時に、彼の思考能力まで奪い去った。


己の心の中を、必要以上に覗き込んで――そのことに疲れて、銀次を切り捨ててしまおうとする、その前に。