空と君との間には――M
あ、と小さくつぶやいた声の持ち主が、珍しく己から手を伸ばした。何をする気かと、カーブを切りながら横目で観察していると、今は血濡れた手袋を外したその細い手は、すらりと伸びて音量のつまみを右へとひねった。
音量を絞ってあったカーラジオから、叩きつけるような、どこか投げやりにも聞こえるような女声。
「……やかましい」
ハンドルから片手を離して元に戻そうとする。馬車はこの女性シンガーの声が、あまり好きではない。意図的に人の心をかきむしろうとしすぎる感があるのだ。己の中を「見せつけている」声だと思う。好悪の分かれるところだろう。
だが、助手席の主は馬車の手を優雅に振り払い、「聞いているんですから」と軽くその横顔を睨んできた。
この死神が、カーラジオなどを真面目に聞き入るなど珍しい。不快を忘れ、手をハンドルに戻す。
さて何と尋ねようか、と考えている間に、相手からあっさりと聞いてきた。
「この歌を知っていますか?」
「……聞いたことはある」
「歌詞の内容も」
「ようは知らん」
「悪になる男の話です」
「アクニナル?」
細かいカーブを切った瞬間の言葉だっただけに、とっさに音が文字にならず、鸚鵡返しに聞き返す。
「はい」
ほら、とカーラジオを指差され、前を向いたまま耳をそちらに傾ける。
「……空と君との間には……?」
「その次」
空と君の間に冷たい雨が降る、そう歌われて、なんとなく……助手席の死神がいつぞや、骨を凍らせる秋雨の中にひとり、すらりと闇のひとひらのような姿を立たせていたことを思い出す。
だがそこに、この女性シンガーが太く作った声で歌う悲壮さは、欠片ほどもない。きっと、時雨に打たれ物思う死神に、悲壮感がないこと、そのものが……ひどく悲壮なことであるのだろう。
「アクニナル、と言っているでしょう?」
そう言われてふと、己が思考に沈んで次の歌詞を聞き過ごしたことに、馬車は気づいた。
「……いや……聞き逃した」
「それでもプロですか?」
別に聞き取りのプロではないが、注意力散漫であったことは確かだ。黙り込んで次の機会を待つ。
すぐに繰り返しがあり、カーラジオは歌う。
「……君が笑ってくれるなら、か」
「ええ、笑ってくれるなら悪になるんです」
赤信号だった。
ゆるやかにブレーキを踏んで止まる。
「馬車」
流れつづける、無理矢理情感を引き上げようとするようなその声に耳を傾けたまま、赤屍は何でもないことのように問う。
「私が笑ってあげると言ったら、あなたは悪になりますかね?」
馬車は助手席の姿を見ず、じっと、眼前を渡る横断歩道の人々を眺めていた。
冷たい雨に打たれて彫像のように瞳を閉じ、何か別世界の音を聞いていた、そんな、窓の外の遠い遠い死神の姿を思い出す。
「馬車」
促されてゆっくりと瞳を閉じ、開くと同時にギアを切り替え。
がきがきと速度を増すトラックの振動に身を委ねながら、馬車は独り言のようにつぶやいた。
「馬鹿にしょうがか?」
「は?」
「おまえのためやのうても、わしはとうに悪じゃ」
車が好きだというだけで乗っていたのはもう、思い出せないほど昔のこと。
このトラックとて何人のドライバーの血を吸っているか、数えることすら面倒くさい。
「あなたが、悪?」
不思議そうに、またどこか嘲るように綺麗な声でさえずる死神に、すぐには答えることなく。
数秒のち、
「ああ」
短く答えてから、
「おまえが笑うても笑わんでも、わしぁ、わしの思う通りに悪やきねぇ」
貴様に振り回されてなぞたまるか、との思いを言外に込め。
貴様が何を言おうとも、同じ世界に居座ってやる、と、言外に、込めていることにすら気づかぬほどに強烈に想い――
「……まぁ、」
帽子を深くかぶり直し、感情のうかがえぬ声で死神はつぶやく。
「あなたが善人でないことは、私が保証しますよ」
「ほうか」
保証されても嬉しくなどないが、と口の中でつぶやいてから、今度は意図的に、微妙にスピードを操作して赤信号に引っかける。
また赤か、と眉を寄せる死神に、そのグローブのような手を伸ばし、
「何を、」
帽子を叩き落としてネクタイごと襟首を掴み、己の方に引きずり寄せた。甘さの欠片もない仕草。通行人が驚いたように運転席を見上げる。トラックの中で喧嘩が始まったように見えたことだろう。
「馬車、」
傲慢な死神が最後通牒を突きつける前に、突きつけ返す。
「笑え」
「……は、?」
「とっとと、笑え。笑ってみせえ」
叩きつけるようなその言葉に、しばらくまばたきをして見上げるだけの死神は、
信号が赤に変わる2秒前に、己からぐいと、片手で馬車の頭を引き寄せ、その口の端に唇を押しつけた。
「――――!?」
見開かれた瞳に映った真赫の瞳が、ニィ、と細められた、か……とそんな錯覚とも取れる一瞬の視線の交差ののち、乱暴な仕草で馬車の身体は突き飛ばされていた。
「ぅおっ」
「ほら、青ですよ」
その言葉が聞こえた時にはすでに、呼吸をするより馴染んだ動作を繰り返して停止線を越えている。
「……ふ、ふふ、」
おかしくてしょうがないと言いたげに、笑声を立てながら軽く身を捩る助手席の気配には、走り出した運び屋はもはや目をくれることもない。何事もなかったかのように、ただ少しだけ険を増した顔で、フロントガラスの向こうを睨んでいる。
あの笑顔に、踊らされてなどなるものかと、軽く食いしばった歯の奥でうめく。
死神の一笑を求めて悪の道に躍り込むまで、落ちぶれるつもりなどはない。
己の意思で。仕掛屋の誇りをかけて。この世界に居座りつづけ――それがゆえに。気まぐれなこの男がその鋭気を好み、気まぐれにすりよって来るならば。その時初めて、受け入れればいい。
戦女神に媚びを売る男が。戦女神を傍らに置いていられるはずがないのだ。
「……あなたは、」
笑い納めた死神のテノールがぽつり、と漏れる。
「時々、気持ち良いほどに不愉快ですよ、馬車」
やはり、殺そうとしよったか、と、返事もせずに前を向いていると。
クス、と物憂い笑声がはじけたのち、顔が耳元に近づく気配があり――吐息が、
「悪、ですね」
このまま襲ってやろうかと、トラックを路肩に寄せるスペースをとっさに探した己を叱咤しながら、馬車はゆるやかにカーブを切り、悪戯な死神を押しのけてギアを入れ替えた。