空と君との間には――G



目を覚ますとベッドの隣は冷たかった。それだけなら、そう珍しいことではない。珍しいのは、テレビの電源がつきっぱなしになっていたことだった。
あれ、と、あちこち軋む身体を何とか動かして寝返りを打ち、テレビに向き直る形になる。
「……ァ、」
赤屍さん、と呼ぶ前に言葉は咽喉の奥に飲み込まれた。
ダブルベッドの枕側から、1メートル弱離れた地点に無造作に置かれた肘掛け椅子。そこに、ガウンをけだるく羽織り、部屋着用のスラックスを穿いた長身がものうく沈んでいた。
肘をついてテレビの画面に顔を向けている。乱れかかった髪と、顔の向きがあいまって、表情はまったくうかがえない。
声をかけるのがもったいなく、銀次はその彫像のようにものしずかな姿を、じっと黙って見つめていた。
――こうして何回逢っただろう、オレたち。
思い出そうとしないと思い出せないほどに、逢瀬を重ねていることに今更ながらに気づき、驚く。
殺したがる赤屍、逃げる銀次、逝きたがる赤屍、留める銀次……決して性格的に合わぬわけではないし、決して互いが嫌いなわけでもないふたりは、その性質が決定的に光と闇に分かれるというその一事あるがゆえに、決して、分かり合えることなく己を傷つけあうだけの関係を、続けている。
いや、わかりあえないわけではない。銀次は赤屍を、赤屍は銀次を、ある意味ではこれ以上なく理解している。知り尽くしている。
しかし、それだからこそ、受け入れることができない。
こうして身体を無理矢理つなげるのは、心をつなげることのできぬ苛立ちの発露でしかないのかもしれないと。銀次は自覚するほど己を深く考えはしないけれども。銀次を見守る相棒はほろりと、喫茶店のマスターにもらしたことがあった。
銀次はそれを知らない。ただ、
――まだ、生きている。
身体を好きにされる苛立ちに、仕返しのように殴りつけ切り裂いてくる赤屍と……今宵一夜、過ごしてなお自分は生きている。
そして誰も死んでいない。
なら今はそれでいいと、悲しいほどに前向きに銀次は頭をひとつ振り、赤屍に遠慮がちに声をかけた。
「赤屍さん、テレビ見てる?」
声をかけられても返答はない。おや、と見守ると、ややあって眼前の生きた彫像はわずかに軋み、そしてゆるやかに体を伸ばして銀次を振り返った。
「……うたた寝をしていたようです」
シャワーを浴びた後の身体は冷たげで、「入らない?」と思わず尋ねてシーツをめくる。
少なくとも、この死神の精神は、眠る銀次の傍らでうたた寝をする程度には、銀次の存在を許すようになっている。最近は、「どうせなら、もっとも強くなったその瞬間に戦いたい」と望む心が余裕を作ったのか、多少、閨のことに興味を示す様子すら見せるようになっていた。
だがそれは紙一重のようなあやういバランスだ。
身体には心が付随する。銀次の身体をある程度覚え込んだこの死神が、心まで侵蝕されることを疎んで銀次を、発作的に殺そうとしたのは一度や二度のことではない。
今日は比較的おだやかな精神状態にあるらしい眼前の死神は、冷えた身体を疎んだのか、一瞬考え込んだ後、存外あっさりと「入ります」とふらり、立ち上がった。
「じゃあ交替だね、オレ、ちょっとコンセント借りるからテレビ消すよ?」
「ああ……どうぞ」
傷だらけの身体をぎしぎしとベッドから降ろす。赤屍は、銀次の血でごわつくシーツを大して気にした様子もなく、ベッドの中に潜り込み、顔を出した。
濡れた手を銀次がコンセントに近づけ、「バチン!」と部屋が一瞬暗くなるほどの電力を一瞬で吸収する、その姿を飽かず見ている。
――オレが食う電気の量を、測ってるんだ。
振り返って銀次が見るのは、舌なめずりして獲物を眺める肉食獣の瞳か。患者の病状を調べる冷厳たる医者の瞳か。どちらも見たくないから、銀次はそのまま、逃げるように風呂場へ向かおうとする。
赤屍が銀次を傷つけるのは、もはや反射の域に達しているのだから止めようがない。銀次にのしかかられると、殺す為にある死神の身体は、全身で危険信号を発するのだ。「眼前の危険人物を殺せ」と。
それでも殺さずにいてくれるのをまず喜ばなきゃ、ともはや諦めの境地でかさぶたをかりかりひっかきながら、風呂場のドアを開けかけて、
「銀次クン、」
とものうく掠れたテノールに呼ばれた銀次は、珍しさに思わず身体ごと振り返った。
「な、なんですか?」
血の染みの中の白にくるまった、青白い顔の死神は、片肘を突いて半身を支え、銀次をぼんやりと眺めている。
人を殺している時以外はどこまでも、硝子細工のようにうつろな赫瞳が笑みの形に歪んで、言葉を発した。
「ねぇ、キミ、私の為なら悪(アク)になれますか」


「……はぁぁ!?」
「キミが悪になったら私が笑ってあげる、としたら――悪になりますか」
はっ! と気づいて、今はもう電源のついていないテレビに視線をやる。
そういえば最近、昔一世を風靡したドラマのリメイク版が深夜に放映されていた――と思い当たった。たしか主題歌にそんな歌詞が使われていたような気がする。
君の笑顔の為なら悪にでもなるとか、何とか――
「ねぇ、銀次クン」
うつろににっこりと眼を細めている眼前の端正な顔、その人形としか思えぬ顔立ちに、奇蹟の具現のように生命の吹き込まれる瞬間を、銀次は知っている。強敵を殺す瞬間と――、銀次の腕の中で上り詰める瞬間、だけだ。
だが銀次の腕の中でいくら身を捩っても、この麗人は決して笑わない。
『クス……』
世の中投げているとしか思えない、いい加減でたのしげな、いっそ気持ち良いほどに適当なあの笑顔を思い出す。それなりに楽しんではいるのだろう。銀次の方も、あの笑顔しか知らなかったら、ああいう笑顔しかしない人だと思っていられたかもしれない。
だが知ってしまったのだ。
雷帝の朧な記憶の中で、長大な剣を振り上げ腹の底から、胸の奥から高々と喜びに打ち震え目を見開き狂笑するあの……花咲き誇る絶唱の如き笑声。
それが頭のどこかにこびりついて離れない。
あの笑顔を、自分は浮かべさせることができるのだ。本当に、本当に簡単なたった一事だけで……


「なれませんよ」
銀次は即答していた。
「なれませんか」
「なれません」
バスルームに続く扉によりかかり、赤屍を見つめる。
「雷帝にもなれないのに、悪になんてなれるわけないでしょう」
雷帝になったら、誰より愛してもらえると知っているけど。
「悪になってくれないと、私は一生笑いませんよ」
試すような、拗ねるような微妙な声調。
「それでも、なれません」
何が悪かなどわからない。それでも、「悪になる」とは言えなかった。
「そうですか」
それきり興味を失ったように背を向け、シーツにくるまろうとする赤屍を睨みつけ、
「けどね、赤屍さん」
低い声を押し出す。
「なんですか」
「オレ、探しますから」
「何をです」
「オレが悪になんてならなくても。赤屍さんが笑ってくれる方法をです」
ちらり、と肩越しに赤い光が覗く。
「あるとでも思っているんですか?」
「なかったら、」
ぎし、と拳を握りしめ。
「……作ります」
うつむく己を叱咤して顔を上げ、赤い瞳をねめあげる。
しばらく、息づまるような沈黙が辺りを支配した。
「……フ、」
くるりと背を向けたその身体から、吐息ともつかぬ幽かな音が漏れ、呆れられたのか、と歯をきしらせてこちらも背を向けると、その吐息めいた音はなぜか連続してぽつり、ぽつりと2度聞こえ。
笑いを堪える音だと気づいたのは、クスクスと、抑えかねた笑声が、銀次の背中にぱらぱら当たりはじめてからだった。
振り向いた銀次の前で、シーツにくるまった身体は小刻みに揺れている。
「あか……ばね、さん」
「本当に、」
「え?」
「本当に、キミの言うことは訳が分からない……」
不意にぴたりと笑声は止み、
「――行きなさい」
ぞっとするほど冷たい声が、動きの止まった身体から発せられる。
「……赤屍さん、」
「私が笑っていられるうちに、立ち去りなさい。シャワーを浴びるぐらいは、許してあげましょう」
「……うん」
のんびり行こう、と決めたのに。
自分の何気ない一言は、こうしてしょっちゅう、まるで毒薬のように…この凍りついた死神の血を騒がせ苛立たせている。
無限城で、はからずも道行きを同じくしたあの頃は、この人も笑っていられたのだ。銀次はまるっきりの他人で、仲間の皆をこうして慈しみ、それを打ち壊す赤屍に怒りをぶつけてきたから。
「わからない人ですね」と嘲って、笑っていられたのに、…………今は。
――ごめんね。
何度心の中につぶやいたかわからぬ言葉。口には出せないから、
「……おやすみなさい」
そっと言葉をかけてバスルームへと、死神の前から姿を消す。
赤屍がたやすく行う殺人という行為が、銀次には絶対的な禁忌であるように。
銀次がたやすくかける言葉が、赤屍を致命的に苛立たせることもあるのだ。
――次に会う時は、もう少しだけで良いから、普通に……楽に笑ってもらえますように……
銀次は祈る己を止められぬままに、ユニットバスへと足を踏み入れて力一杯、熱い湯をひねって顔にかけた。


己が泣いても、うめいても、しゃくりあげても……バスルームの外に、その情けない音が聞こえないようにと。