アゲハ蝶――虹色の漆黒
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熱に浮かされるような、真夏の夜だった。 湿気を最大限まで孕んだ、重い曇天だった。 それだけで人を殺したくなるような――不快な、月も星も風もない夜に。 ぞっとするほどの、透き通った冷たい殺気が、彼の中を通り抜けていった。 「彼がDr.ジャッカルだよ、鏡クン。この物語の『聖なるユダ』」 電脳の少年王が、背を向けたままクスリと笑って声をかけてくる。 「……ふぅん」 余裕ある態度を保てただろうか。 「まぁ、キミは知っているんだろうけど……」 ディスプレイの中で、ひら、ひら、と闇のひとひらが翻る。 「……ね?」 振り返りざまに、少年は薄い色の瞳で、あどけない――だが強烈にこちらに斬り込む笑顔で笑ってみせた。 少年の笑顔の背後に、壁いっぱいのスクリーン。 「外」の街の一角を映す、衛星を利用して撮影したその風景は、舞い遊ぶ闇のためだけに用意されたもので。 「……彼は、有名人だからね」 その闇から視線をはがし、少年に移して笑い返し、そう、答えておく。 最近、この少年の笑顔は自分に似てきたと思う。 まだ出会ってからそうはたたぬが、どこか――バベルの塔を知る者は、バベルの塔の住人に似てくるのか。 ならば、 「難しいミッションなんだろうね。ズイブンと楽しそうだ」 少年の声が笑いを含む。 鮮血と肉塊、汚泥と金属を周囲に振りまきながら、どこまでも冷たく、ひらひらと舞い進む黒ずくめの死神。 衛星からの映像は、音声がないためにひどく非現実的で。 「……日本画の世界では、」 彼の口からは自然に言葉が漏れていた。 「黒一色で七色を表さなければ、本当の絵とは言えないんだよ」 「ふぅん」 少年が少し意外そうにまばたく。すぐに、子供らしい興味の色を示して彼に向き直ってきた。傍らのパソコンの、キーボードを膝から床に移して。 「それで?」 「『彼』は……そういう意味でも、一幅の絵画のようだと思ってね?」 視線で少年を――そしてその背後のスクリーンを、射抜く。 黒に包まれた身体が、人を殺す時だけ七色の生気を放つ。 打ち振られる黒髪は喜びのイエロー。 翻る黒衣の裾は愁いのブルー。 ひらひら、ひらひら――と、 「――!」 息を飲む。 不意に振り仰いで天を――まるで見えるかのように、その衛星カメラをまっすぐ眺めるその、赫瞳が―― 「……笑った……?」 少年の呟きも耳に入らない。 見ている。 あれは自分を見ているのだと――何の確信もなく、だが、彼はそう思う。 彼の笑みも。 彼の笑みも自分に似ている。 バベルの塔を知る彼こそは――生身を持つ唯一の「塔の覚醒者」。 「……欲しいな」 誰にも知られぬよう、ひどく大事そうに彼はつぶやいた。 欲しい。 「……アレガホシイ」 地に向き直り、ふたたびひらひらと、ふわりふわりと舞い去る彼の――愛しい、愛しいアゲハ蝶。 あれはいつのことか、もう覚えていない。 もしかしたら、別の「塔の住人」の記憶だったのかもしれない。 去り行く死神に、声をかける。 『そうやって、永遠の修羅を、舞い踊るのかい?』 強すぎる肉体、うつろな精神、外の世界にはあまりに黒く清らに澄みすぎた闇の天使。 『ここにいても、何もはじまりませんので』 すずやかな声はすずやかに応えたきり、背を向ける。 『そう、はじまらない。わからないの、ジャッカル? はじめてしまったら、いつ来るともしれない終わりを、訪れるまで待ち続けなければいけないんだよ?』 ふわり、と黒衣は翻る。 アレガホシイ。 引き留めようと伸ばした手が、ぼとり、と肘から離れて地に落ちた。 黒衣の両手に、丈2mを超す大鎌を携え、ふんわりと、死神はあの笑みを浮かべる。 塔の住人を知る者の。 知り尽くしてしまった者の、絶望と諦観を踏みつけて笑うアルカイックスマイル。 漆黒の如来の微笑。 『確かに、終わりを待つなどということはしたくありませんね。 私は終わりを引き寄せましょう。……この城で1mmずつ腐るのではなく、私の意志で終わらせる。絶頂の中で、私のもっとも望む形で、私のもっとも望む相手に―― それこそが私の本懐です』 眼前に迫る銀の刃とモノクロームの微笑。 そこで、記憶は途切れている。誰の物とも知れぬ、「塔の住人」の古い記憶は。 瞳を開き、起き上がり、システムを整えベルトラインへ向かう。 その間、ずっと彼のことを考えている。 古い記憶の断片、外で集めた情報、他愛ない噂まですべて、検索し、拾い集め、保存し、そして繰り返し再生する。 運命の糸を断ち切ろうと、足掻くことさえしない、それほどまでにすべてにおいて己に無関心で、自由奔放。それでいてどこか、運命のくびきに対する悲劇を漂わせる、黒衣のほっそり整った死神。 蜘蛛の糸に絡め取られるように……いかづちの王に、出会ってしまった、 その雷に、魅入られてしまった憐れな獣。 ――あの笑みが、 物思う。 ――あの笑みがホシイ、あの指先がホシイ、瞳がホシイ、唇がホシイ、身体がホシイ、 その「願い」はかなわぬことと、知っているのに。そのことばかり考えている。 塔の住人には、瞬き一つで意のままとなるこの虚構の神の城……天の御使いとして光臨していたはずの己が、そのまま、地に堕落する。 天より地へと、その翼打ち捨てて逃げ去ったあの、堕天使のせいで。 「ホシイ」と思う、その一事で魂の自由と無垢を――喪ってしまう、その絶望を彼は甘く噛み締めて笑った。 『失礼ですが、お名前は?』 ふらり、とたのしげに、体重が存在しないかのように首を傾げて、浮かべるあの逆さまの微笑。 身体が、悦んでいるのだ。久しぶりに感じる、冷たく昏い塔の空気、紙一重の戦慄、それをまとう鏡の存在に。 ――悦んでいる。アレが、オレの存在に。 眼を細めてニィ、と笑い返す。 『鏡……形而』 『ではその鏡クン――』 まさしくあれは蝶のようだ。ほら、一瞬目を離せばひらり、と――思いもかけぬ方角に一歩を踏み出し、次の瞬間、消え失せている。 背後に感じる気配。殺すことへの期待に震える甘い吐息。 『――さっさと、バラバラに――』 その中に混じる血の香の、さらなる甘さに彼は酔う―― ――ほら驚いただろうジャッカル? おまえの血だよ。 オレがおまえの血を流しているんだ。 赤い血が赫い瞳に映る。 人形のように整った顔のまま、眼をうつろに見開いた黒衣の死神、まるで、死に顔を見ているような。 赫滴る唇がうつろに――ひどくうつろに笑みを向けた。 『こんなモノでは私は殺せませんよ』 ――殺して欲しいの? ジャッカル。 甘い血が……あの血が欲しい。 あの吐息が欲しい。 惹かれるように、ふわりと天井から降り立って接近する。 刃を交わす瞬間のその、うつろな赫瞳と笑みの形に歪む唇を見て。 ――これを見ているんだね、雷帝は。これを常に向けられて求められている。 鏡は震えが来るほどの……嫉妬と憎悪に身を焦がし、そんな己を心の底からあざ笑った。 「……何を考えているのです?」 物静かな、常にうつろな笑みを含むテノールが薄い唇から流れ出していた。 「キミのことを」 間髪いれず答えて、その唇でそのまま、手に取った相手の手の平にうやうやしくくちづける。 「神の聖なる殺戮人形と、オレがはじめて出会った運命の夜のことを、考えていたんだよ」 「減らず口も、それだけ叩けるなら大したものです」 もう片方の手によってしゅるりとほどかれたネクタイが、ベッドの隅に投げ捨てられるのを、眼前の赫瞳が興味なさげに追う。 ここは鏡がバビロンシティより下りし目的の場所、ベルトラインの一室。 死神との逢瀬に使われるささやかな秘密基地。 「減らず口かな。どれも真実だと思うけど」 「真実? ……そんな単語がキミの口から出るとは思いませんでしたよ、鏡ク――――ン、」 片手を軽く引き寄せられ、吸い寄せられるように自然な動きで鏡の唇に唇を触れさせられた漆黒の蝶は、うつろな、焦点が合っているかどうかも定かではないその瞳をぼんやりと開いたまま、鏡の瞳を眺めている。 すぐに唇を離し、鏡は冷たい舌でちろりとすぐ前の唇を舐めて囁いた。 「まだ気になるのかい、ジャッカル……何が本当で、何が幻影か、なんて」 「もしかしたら、幻相手に痴態を演じているのかと思うと、気にせずにはいられませんね」 「痴態? キミにそんなものがあったなんて初耳だね。どんなに乱れたって、ここらへんが……」 己の斜め後頭部あたりをとん、と人差し指で軽くつつき。 「そんな自分自身を眺めて薄ら笑いを浮かべている人の痴態は、痴態とは言わないんだよ」 「もともとこういうことは、好きではありませんから」 「ならなぜ、オレが呼ぶたびにこうして来てくれるの?」 シャツのボタンを外し、ほっそりとした首と鎖骨を露出させながら、すべて脱がせることはせず身にまとわりつかせて、ちょっとした拘束めいたその風景を楽しむ。 傷だらけの肌。だがこの肌にはもう長いこと、これ以上の傷が増えていない。あのいかづちの帝も。蛇使いの王者も。傷を負わせながらもこの白い肌に何一つ、残せていない。 そしてこの自分も。 最も酷い左肩から腹への傷の、今はもう閉ざされたその裂け目に舌をこじ入れるような強さで這わせ。 軽く跳ねた身体を押さえつけて優しく笑う。 「ねぇジャッカル、なぜ?」 「決まって……います」 鏡から視線を外し、弾みかける息を抑えて死神は囁く。 「キミは、私との取引に応じた。 それだけですよ」 『私が、欲しい?』 『うん、できればね』 『変わらぬ笑顔で何を言うのかと思いきや……私を手に入れるとは、一体どのような状態のことを指すのですか?』 『心――は、キミにはないだろうね。命――は、オレには奪うことは許されていない。 体が欲しいな』 『私を犯したいのですか』 『そうだよ』 『条件がひとつあります』 「キミは神に背いた背徳の徒です。その意味の重さは、私自身がよく知っている。 この体ぐらい、好きなだけ……何度でもくれてやりますよ」 『一度だけで構いません。 将来、私が望んだ時に……「神」に背き、私の願いを優先しなさい。 それが、条件です』 「だから」 黒衣の蝶はひらりと己のシャツの合わせに手をかけ――無造作に、力任せに両手を左右に引いてましろいその肌を余すところなく、鏡の目の前におのずから晒した。 無表情な赤いガラス玉は、薄ら笑いを貼りつけたまま、刺すような力で鏡を見ている。 まるでその瞳こそが鏡面であるかのように、うつろに彼の姿を宿したまま。 「好きなだけ、食い散らかして帰りなさい。 『神』の御元へ」 淫らに白い腹を見せ、羽根のように黒衣を広げてシーツの海に漂う、彼の手よりひらひらと逃げ続ける美しい黒死蝶。 その腹の上にそっと手を置き、囁きかける。 「あまり可愛いことを言いすぎないでほしいよ、ジャッカル。 この腹を槍で貫き通してあげたくなるじゃないか」 このシーツの海の上に、標本のように留めつけて。 『かつて彼がそうされていたように』、手と足の甲に穴を開けて、串刺しにして綺麗に貼りつける――『磔』る。 そうしたらきっと、とめどなく滴る血の赤と、喪裾曳く黒と、どこまでもすめらかな肌の白は、罪深いほどに引き立てあうことだろう。 このベルトラインの、彼の所有物である一室に――本当は、神の僕である彼に己の所有物などひとつもないのだが――、そうして大切な大切なコレクションのように、この蝶を保管しておけたなら。 ……本当は、痛みにも敏感な身体だとは熟知していても、このあまりにもうつろな瞳は痛みの一切を感じていないかのように錯覚させるに充分で。 たとえ手の甲に穴を空けても、腹をピンで刺し貫いても、麻酔を打ち忘れた標本箱の蝶のように、かさかさと、美しく羽根を震わせるのではないかとさえ、堕落せし神の僕は考える。 留めつけた彼の唇に、餌を滴らせ、身を綺麗に清めてやり。花で飾り、埃を払い、そうしたら永遠に、真っ赤な血を滴らせ、うつろに、夢見るように、瞳を見開いて自分の姿を映すのではないかと。 ゆっくりと上下する白い腹を撫で回し、彼はひっそりと笑みを浮かべ、脳裏にその光景をまざまざと思い描いたまま眼前の唇へと吸いついた。 「憶えていて、ジャッカル」 冷たい下唇をくわえるようにして、囁きかける。 神に聞かれるのを恐れでもしているかのような声は、だが、裏腹に怜悧で不遜な笑みを含み。 「この綺麗な身体を、好きな時にもらえるオレは……正直、いつ天の火とやらを浴びて粉々にされたってかまわないんだけどね。 ただ『無』に還るのはちょっと嫌なんだ」 くわえられた唇が放されるのを待って、死神は問いを発する。 「私にどうしろと?」 「オレは死体も何も残らないし、キミが他人の形見を持ち歩くような無様な真似をする様は、想像したくない。 けれども、キミの身体に跡を残すことは、オレにはできない」 「だから、私にどうしろと――」 「憶えていて」 「オレがしたことをこの身体が憶えてくれていれば、それでいいよ」 「約束はできませんが」 肌の上を滑る、自分にどこか似た細く長い指を眺めながら、死神はぼんやりと答える。 「神に背き煉獄に堕ちても、私の身体が欲しいというなら。 そのぐらいの努力は、してみてもいいかという気はしますね」 「ありがとう」 敬虔に首筋の傷跡に唇を押し当て、鏡は笑う。ただ、クスクスと喉の奥で笑い続ける。 こういう時に、笑いがこみ上げてくる以外の感情の選択を知らぬがゆえに、おかしげに、たのしげに笑う。 これがホシイ。 ……『これを手に入れる未来』を持つ自分がホシイ。 一秒先から一年先の未来まで、己の滅びの未来まで、知り尽くしてはいるけれども。 所詮、それこそ鏡面を眺めているように、ガラスに映る自分に手を伸ばしているように、意味のない無駄な独り芝居とはわかっているけれども。 「いつかまた……殺し合ってあげるね、ジャッカル」 このうつろな身体を手に入れた。 次はあの淫らに冷たく燃え上がる赫瞳。 神に背いても。 身を火の粉に砕かれても。 これのあの笑みが、あの傾けられる熱意と愛がホシイから。 ぱちりと赫瞳は見開かれ、どこか、焦がれるような妖艶な笑みが瞳の奥にちらつく。 この笑みが自分の身を滅ぼし煉獄に突き落とすのだと、新鮮な感動すら覚えて鏡はじっと、身体の下のモノクロームに見入った。 |