まさか、自分が手袋一つ如きを買い悩む日が来ようとは、業界トップの運び屋馬車號造も想像だにしていなかった。
白い手袋を手に取ってはそれを棚に戻しつつ、馬車は手袋を送る相手の手の形のことを考えた。手の大きさそのものは、自分と大差ない。だがしかし、と馬車は己の手を見て考えた。
甲が高く、節くれだって、幅が広い。肉厚で筋張っている。皮も厚く、硬く、良く乾いている。色が黒い。手の大きさに見合って指も長いが、それよりも太さが目立つ。爪は短く横広で、多少縦に筋走っている。硬そうな爪だ。
それは40フィートのコンテナを振り回すハンドルを握るにはあまりにもふさわしい手だ。馬車のその手は陸屋の誇り…、と気負うほどのものではなく、また本人もその程度の些末事を気にする質ではないにしろ、その道の一線を張る人間の証のようなものだ。
だが、と馬車は後を続けた。自分の手が今持っているこの真っ白い手袋は、彼が表の仕事に従事するときにつける業務用の手袋。サイズと言えば大雑把に大中小特大とあるばかりで、今、自分が手に持っているのはその中の特大。これは馬車が自分の手のために買う手袋だ。
…確かに自分の手にはぴったりと添う。同じ手袋ばかりをいくつも買い揃え、擦り切れるまで使い続けている、馬車の数少ない気に入りの品だ。
そして、相手がこの手袋をつける所を想像する。…ぱさりと床に落ちる。
が、単純に大きさを考えると、これより小さなサイズではあの手は覆いきれない。
「…あかんの」
馬車は多少の未練を残しながらも、業務用手袋で間に合わせることを諦めた。

助手席の死神がいつもの気まぐれのようにチョコレートを放ってよこしたのは先月の明日、2月14日のことだった。
一山になって襲い掛かってきた奪い屋は苦戦するほどの相手でもなく、予定時間内に潰し終えた。掃除屋との処理費用の交渉もお互いの合意の下、円満に終わった。…そう、珍しく気分良く、掃除屋の景気の良い「毎度あり」の声を聞いた直後だったのだ。
馬車は何の気なくその…、いわゆる凝った包装を無造作に剥き、薄くて硬いビターチョコレートを一枚つまんでしまった。
「食べましたね?」
赤屍の声はそのチョコレートを渡したときと同じように無造作で、馬車は己が罠にかかったことに気づけなかった。
「おぅ」
パリン、と硬質な音を立ててチョコレートが砕け、口の中で溶けた。
「こうして食うとまずくない菓子やの」
彼には珍しくリップサービスまでする余裕があった。
「馬車、今日はバレンタインデーと言う日だそうです、知っていましたか?」
相手が一本のメスを眇めながら言ったその言葉を理解するのに、一瞬の時を要した。
激しく咳き込む馬車に死神は死の宣告のように追撃を行った。
「バレンタインデーと言うのは、なんでも大切な人物にチョコレートを送る日だと言うことですね、馬車?」
「……お、女子がな」
どうにか体勢を立て直して放った反論をなかったことのように聞き流し、赤屍はさらに言葉を継いだ。
「貴方はチョコレートを食べたわけですから、私は一ヵ月後の今日を楽しみにしていればいいのですね、馬車?」
「…はぁ?何を言いよる?」
このときに限って、馬車は自虐的なまでに鈍かった。赤屍はここに来て初めて、獲物を狩る獣の微笑を浮かべ言い放った。…もっとも、本人にはその自覚はないだろうが。
「今日から一ヵ月後のホワイトデーと言うのは三倍返しの日だと言うことですから。…なかなかおいしいチョコレートですね」
馬車は運転席に突っ伏し、しばらく立ち直ることが出来なかった。

それにしても、と馬車は今の己に苦笑した。
そもそも、三倍返しの意味も実は分かっていないのではないかと疑わしい件の死神の言葉を、自分は何故真に受けているのか。
下手をすればもう既にホワイトデーのことなど忘れているかもしれんと言うのに、と思いかけ、絶望的な気持ちでその甘い考えを投げ捨てた。
あの死神は相手にとって不都合なことは一つ残らず事細かに覚えている。…興味さえなければ仕事の日時すら忘れているが、こういうことに限っては必ず覚えている上、しかも楽しみにしている。
…3月14日、すなわち明日は一月ぶりにコンビを組む仕事が入っている。逃れようもない。…馬車はあの死神が心なしかうきうきしながら助手席に乗り込んでくるところを想像する。そして、こっちにむけて非常に仄かな、催促してくるような雰囲気を発する。時間とともに、場の空気が重くなっていく。…頭痛がしてきた。

町の雑踏の中を歩きながら、何か他に目ぼしいものはないかと考えては諦める。別に、返礼をするということについては馬車は躊躇することもなかった。ただ、相手に何かを買って渡す、この「何か」を選ぶのが単純に苦手だったのだ。自分の無骨な性分をこういうときばかりは恨めしく思った。しかも相手はあの死神だ。これが普通の女や普通の男ならば、適当な贈り物にも予想がつこうが、あの死神が指輪や万年筆なぞを喜ぶはずもなかった…。

―「よい夜ですね、馬車?」
予想通り、微妙に機嫌よく、助手席に乗り込んだ赤屍に、馬車は何も言わず瀟洒な紙包みを放ってよこした。
「…何ですかこれは?」
「…今日がホワイトデーやと言うちょったんはお前やろうが」
馬車は、相手の顔を見ないですむように、エンジンを吹かせはじめた。
「…おや」
赤屍がこちらをからかうように見たようだったが、馬車はそれを無視した。
「…私はてっきり、貴方のことだから忘れているものだと思っていましたよ、馬車?」
「いうとけ」
アクセルを一気に踏み込むと、トラックが重い振動を立てて進み始める。呼吸するようにギアをトップまで切り替え、煙草を銜える。
ただ、車内を沈黙で埋めてしまいたかった。

―「馬車、開けますよ」
何も言い出さない馬車に赤屍が痺れを切らせたのは高速に乗った頃だった。その宣言と同時に、紙包みが無造作に破られる音が車内を埋めた。
「好きにせぇ、お前にやっ…」
「…馬車、手袋が入っていますが?」
馬車が言い終わらないうちに、赤屍がしげしげと、包みの中に入っていた手袋を手にとって持ち上げた気配があった。声は幾分、訝しみを帯びていた。
「しとけ」
「は?…この手袋をしていては仕事は出来ませんよ?」
馬車は無愛想に言葉を投げて、アクセルを重く踏み込んだ。赤屍の言葉には答えなかった。ぎちぎちぎちと不吉な猛禽の唸りを上げてトラックが更に加速し、背後に迫っていた奪い屋のバイクを遠くに引き離した。

―「…馬車、何のつもりですか?」
赤屍が硬質な声を上げたのは、ルームミラーの視界から今日5組目の追っ手が消え去った時だった。
「…なぁがな?」
馬車は相手が何を言い出すかを理解していながら、のどかにそう返した。そしてそののんびりした声は相手の神経を更に逆なでしたようだった。
「この期に及んで、何が、と言うのですか?…馬車、貴方がさっきから何組の奪い屋を振り切って来たと思ってるんですか!?今日は私は一度として仕事をしていないんです。貴方は今晩、私をずっと助手席にでも据えておこうとでも思っているんですか!?」
柳眉を逆立てる相手をいなすでもなく、馬車はハンドルを握り、前を見たまま言った。
「…そん手袋」
「この手袋がどうかしましたか?」
気勢をそがれたように赤屍は自分の手袋を見た。
「そん手袋はぁ…」
ぼそり、と馬車が続けた。
「返り血を浴びれば血が染みて、…手も汚れるきぃ」

―白い手袋を贈ろう、というのは最初はただの思い付きだった。
馬車はもちろん、かの死神が普段着けている手袋が、手術用の薄いゴム手袋であることは知っていた。そしてその死神が、一仕事終えるたびに、倦んだ目をして、血塗れた手の皮を剥ぐようにその手を覆う手袋を剥ぐことをよく知っていた。そして、忌まわしいものを投げ捨てるように、紅く重い手袋を地面に転がる屍に投げつけるのを何度も目にしていた。そして、生まれたてのような真っ白い手に、神経質に再び薄いゴムの手袋をまとわせる事も知っていた。
それを知っているからこそ…、返り血を浴びれば血が染みて手までも紅く濡らすただの白い手袋を、あの死神に贈ることが出来るのは己を措いて他にはいまいと、…多分、馬車は無意識に赤屍に贈るものを白い手袋に決めた。

「今日はお前はそこに座っとれ」
馬車が言ったその言葉に、さもおかしそうに赤屍は笑った。
「馬車、貴方はおかしな人だ。…車を止めなさい。ちょうどいい具合に、追っ手が来ているんですから」
「おかしゅうてかまわん。車は止めん」
赤屍は目に見えて激昂し始めたが、馬車はそれにはかまわず、車体を震わせ、纏わりついて来ていたバイクを振り払った。常ならば幅寄せて壁面にこすりつけ、車体ごとスクラップにするような相手であるのにもかかわらず。
「…馬車!いい加減にしなさい!良いですか?私は死神だ、死を与えるのは私の仕事なんです。私が私の手を汚すのも、私の勝手です!…貴方に私の仕事を奪う権利はない!…車を、止めなさい」
「…せやきぃ、俺は車を止めん」
ひたりと喉元にすえられたメスにも、馬車は動じず、ただ深くアクセルを踏み続けた。
「馬車。…私は本気ですよ?貴方がしていることは私への侮辱だ」
ぴり、と喉元に痛みが走った。薄皮一枚切れた皮膚から、一筋血が流れ落ちるのに気がついたが、馬車はそれにもかまわなかった。
「今日はお前は、誰に死を与えんでもえぇ。…欲しいだけ、自分に取っとき」
誰よりも死を望むこの死神が、己には与えられないがゆえに、死を与え続けるその矛盾を、馬車は誰よりも知っていた。
…血に染まぬゴム手袋がこの死に染まらぬ死神の様であるならば、血に濡れれば染まり、元の白を取り戻すことは決してないこの手袋は、…死の様に白い。
「……。馬車…」
赤屍の手のメスが、魔法のように消えうせた。
「なら馬車、…この先、私は何も言いません、何もしません。…これで良いんですね?」
赤屍は、冷え切った声で、そういった。馬車は、一つ小さく頷いただけだった。
その夜、馬車は最後まで追っ手を振り切り続けた。赤屍は最後まで助手席で微動だにしなかった。

―挙げられた手に即座に反応して馬車はブレーキを踏み、そしてその一瞬後、アクセルを踏みかけた。…そして、今度は観念したようにブレーキを踏み込んだ。時刻は午後6時過ぎ。長くなってきた日もまだ、そこまで昼の領域を広げるには至らない。
歩道から一歩踏み出たところに立っているのは見慣れた夜よりも黒い影。
「…馬車、今、通り過ぎようとしませんでしたか?」
至極当然のように助手席に乗り込んできた相手に、馬車は無愛想に言葉を放り投げた。
「気にしゆうな。…行き先は」
赤屍は相手の言葉をなかったもののように無視して、馬車の手元を見た。
「おや、この仕事中は貴方も白い手袋をするんですね」
興味深げに馬車の手袋を見ながら、赤屍が言った。
「…おそろいと言うわけですか」
「んなっ!?」
赤屍が言ったその言葉に車体ががくんと揺れた。
「馬車。びっくりするじゃないですか。今日の私は客ですよ。トラックの運転のときでもこんなに乗り心地が悪かったことはないというのに…」
「…せやき、行き先は、と聞いちょる」
平然とした顔で延々と言い募る彼の言葉に、客と言う態度かと言う代わりに馬車は言い、アクセルをゆっくりと踏み始めた。
これからの時間が稼ぎ時なのだから、どっちにしろ早くどこかに送り届けてしまった方が得策だ。
「それはそうと馬車、この手袋は似合いますか?」
「…なぁが言いよるか、いつもの…」
そう言いかけて、馬車は言葉を失った。赤屍がしている手袋はいつもの無機質な手術用の手袋ではなかった。
「…なぁがしちゅう?」
「何って、手袋をしているんです。今日は仕事はありませんから」
当然のように赤屍が言うのに、馬車は完全の言葉を失った。
「それより、似合うかと聞いているんですが?」
赤屍が痺れを切らせたようにせっつくのへ、馬車は漸く、「…よう、におうとる」と口の中で呟いた。
「なら、いいんです。で何処に連れて行くつもりですか?私はラーメンが食べたいんですが」
「分かった分かった、好きにせぇ」
いつもの屋台に向けて車を走らせながら、どうやら喜んでいるらしい己に馬車は苦笑いをするしかなかった。