Happy Valentine




向こうからのコールは珍しいことだった。柄にもなく、心が浮き立つような感覚を覚える。ずっしりと抱き重りのする手応えが、そこにはあった。
「今日は、貴方と殺り合いたいんですよ。…他でもない、貴方と、ね」
その端麗な口元から発せられる柔らかい声に乗せられて、殺り合う、と言う言葉がひどく軽く現実感がない。そのくせ、その言葉の一連の響きはぞっとするほど官能的で、そのせいで、たっぷりとした現実感に溢れている。
ヤリ合える相手はまぁ、穴さえあればどうにでもなるが、狩り合える相手と言うのはそうそう多くない。ましてや、ヤリ合えて殺り合える相手となっては、これは草の根を分けて探しても、アレ以外にはいないはずだ。
白い躯からすんなりと伸びた肢体が重さを感じさせぬ羽根のように動いて、そして、己の喉元に刃をそっと添える。その、瞬間のことばかりを考える。二秒前に一度、そして、現実にもう一度、あわせて二度、その、刃は喉元の一点をひんやりと冷やし、…そして、鮮血を散らせてその皮膚を突き破る。その時には、己の生身の右腕がごきり、と相手の大理石をくるんだ白雪のように美しい首の骨を柔らかく折る。
そんな、何時訪れるとも知れない瞬間のことばかりを、電話を置いたときから考えている。
今はない、左腕に、血流が流れていくのを仄かに感じる。己に憎悪以外の感情を呼び起こさせない無機質な鋼の左腕が、今日は愛しくて仕方がない。コイツなら、間違いなく、自分の生の肉体から血液が流れ落ちて、力無く萎びても、奴の躯を放しはしない。そして、自分は最期の力で細い首を握り、手折る。花を折るように。その感触だけを持って逝ける。
「くっ、くく…」
喉の奥から笑いが噴き上げる。どの筋肉が突っ張って、痙攣して、そして、その笑気を吹き出させているのかまで分かる。躯の隅々までが活きて、醒めている。
…本当に、殺ると言うだけで、これだけの悦楽を感じさせる言葉の響きを持つモノはあいつぐらいしかいない。…ただ壊したい、アレを…。
…そうだ、オレには二秒先に感じるその瞬間だけで充分だ…、刃が現実の喉を突き破るまでの二秒でオレは奴の喉を折る…。何時しか、笑いは哄笑に変わった。

「…良い月が、出ていますよ」
狭い、雑多な路地。生臭い臭いを放つモノが地面に転がって、寒さに凍っている。臭いは冷気のお陰で、何処にも逃げず、そこに滞り、どろり、としている。路面は暗くてなにも分からないが、黒い液体が固くなりこびり付いて、それもまた凍り、月をそこに映している。
何本ものビルが天に向かって突き立って、そしてそのお陰で、このような狭くて壁の高い空間を創り出す。くねり、ねじれ、よじれた細い路地を抜ける間に、そうやって漸く、外界と隔てられたモノがこうやって、ここにたどり着く。同じ種類の人間が集い、こういう場所に似つかわしいことをヤる場所がここだ。
そして、この細く、狭い空間の上空に月が差し掛かっている。
壁に寄りかかって地べたに座った己の斜め後ろから、まるで壁からしみ出てくるように気配が現れた。今はその気配をまるで隠していない、二秒先が鮮やかに蒼白く冴えて見える、それは死の気配が形になったようなものだ。路地から壁を透かせて見えるその影が、蒼い影が路地から姿を現せたその二秒後に、実の姿を現す。
二秒先の影が先に路地の出口に立ち止まり、そして、実体がそれを追いかるようにして、二秒後に、二つの影は重なり、二重に絡んだ。
闇の中では、その顔の下半分だけが仮面のように中空に浮いている。
口元が言葉を紡ぎ、そして、翳りきって無くなる寸前の月の様な形に開いて、閉じる。
己はそれを立って迎える。もう、言葉は何もいらない。
喉の奥から噴き上げてくる狂笑を抑えつけ、それを胸元に止め、心臓から目の前を赤く染め上げるその笑いを全身に行き渡らせ、…そしてそれが眼底に行き渡り、視神経を侵すと、目の前の蒼白く平面的な影が、赤黒く、血を固めた人形のように変色し、そして瞬間、二秒前の世界が現実味をいや増しに増す。対照的に、黒い衣を纏った実体は、希薄に、影と消える。
赤黒い影、いや、それは躯が羽根のように動き、そして、漆黒の影がその後を追って動く。影の顔に張り付いた真っ白い仮面がふわり、と虚空に舞う。ねっとりと、紅い口元が再び、消える前の月の形に開く。銀色のメスが全く魔法のように現れる。…いや、その力は実際、魔道に似たるものだ、己をここまで誘い、そして、堕としめてくれる。
月が己の頭上に架かる。その光がこの高い壁の底に届き、この場を照らし、そして、瞬間だけ、この、地獄の底を刷くようにさらり、と照らす。人の醜い肢体の一部が転がって、それには青黒い死斑が浮かび、そして、どろりととろけて地面を濡らしている。地面を濡らして、そこにこびり付いて黒々と凍り付いているのはもちろん、血だ。生を意味するものはここには何一つとしてない。己の躯を含めて。…ふわりふわりと、それこそ幽鬼の如くに動き回る相手も同様だ。
心臓はあまりにも間断なく動くのでまるで止まっているのではないか、とすら思う。この一撃も、その一撃も、それらは全て、この身体を切り裂くようで、その実、切り裂かない。それらの一撃は皮膚の一枚を切り裂き、そして、己の皮膚からはその銀色を紅い色に染めるためだけに血が溢れ、その清浄に見える銀色を煽情の紅に濡らす。己の一撃はその躯を己の側に繋ぎ止めておきたいがために掴みかかり、そして、黒い影の一端だけを掴んで、それを逃がす。それらは全て、故意に行われている。その肉体を、壊す瞬間までは傷つけたくないが為にわざと柔らかく掴み、そして、己にも分かっているように虚空を掴み、そして、この躯に貯め込む、その瞬間まで。…何を?
…欲、だ。壊したい。それはこの身を疼かせる欲望だ。相手がそのような、あまりにも美しい白い躯を纏っているからこそ、それを壊すには欲を臨界点まで貯め込み、そして、…この瞬間だけを狙って吹き出させる!
…瞬間、思わず己が掴んだのは赤黒い躯の喉だった。そして、その手はふわりとそれを避けるように羽根のように動いた黒い影の、そしてその実、美しい肢体をともなった躯の肩を掴んだ。…その瞬間。
赤屍のメスが不動の喉元にぴたり、と添えられ、そして喉元の、頸動脈の上の一点を絶対零度まで冷やした。
「ねぇ、不動?」
その瞬間、全てが止まり、二秒後の影は躯に纏わりついて離れなくなった。その中で、白い仮面の口元だけが、二重に動いた。言葉を発さない口元、そして、言葉を発する口元が、二秒の時差を置いて絡んだ。
「…今日は世間ではバレンタインデーと言うのだそうですよ?」
極限まで冷やされた一点の感触に不動は溺れて、口元を動かす暇もない。
「…不動…」
す、と、一点はもう一点をめがけて、少しだけ動き、そして、皮一枚をうっすらと切った。
「…世間ではバレンタインデーには大事な人にプレゼントをあげる風習があるのだそうですよ」
紅い唇が二重に絡んでいる。その唇を割って、更に紅い舌がそこから覗いた。
「私が、貴方から欲しいと思うのは…」
…まるで微細なベクトルを重ねるようにその白い仮面の口元が不動の喉元の切れた皮膚の所に近づいた。影は、その動きにうっすらと絡んだ。そして、その、薄く切れた喉から溢れた血を慈しむようにその舌は嘗めた。そして、溢れた血を嘗め尽くすと、白い仮面は再び、それまでの動きを巻き戻しで再生するように動いて、元の位置に白々と浮かんだ。
「…ねぇ、不動」
ねっとりと、満足したかのように、死神の舌が、唇を舐めて更にそれを紅く染め上げる。
「…世間のバレンタインがそうなら、私たちのバレンタインというのはこうあってしかるべきだと、思うでしょう?」
不動はずっと見ていた。己の血で紅く塗られた口元がそう囁くのを、その口元を。その口元に絡む影の動きは、夢のように、いつまでも続くようだった。