Birthday――――惜しみなく与ふ




カロンカロン。
午後三時過ぎ。こんなゆったりした時間には、Honkey Tonkの扉は奇妙に鄙びた鐘の音を立てて開くのだ。
店の中の者は店主、店員も含めて皆、なんとなく、入り口の方を見る。
ただ、今日、たった今は、店にいたのはたった一人、しかもそれも客の方だった。深々とフォークを突き刺したまま、丸ごと一個、ケーキを頬張った天野銀次。その目が、入り口の方を見て、喉を詰まらせたのではなく、しかし、点になった。
昼下がりの三時過ぎ、柔らかい砂のような陽光が降り注ぐHonkey Tonkの入り口には、良く知った人物が今から時計を十二時間進めた時刻の外気のような闇を纏って、突っ立っていた。
「昼はあまり好かないんです」
その闇は、闇であるからには当然至極のように、憂わしげにそう言った。
「あ、あふぁふぁねふぁん?」
口の中のものを飲み込むのも忘れて、声を掛ける。天野銀次の知っている赤屍は、昼が嫌い、と言うよりも、昼には存在すらしていないんじゃないか、とも思われるような人物で、銀次には、彼がそこにいることが先ず、信じられなかった。
「分かりませんから、口の中の物は飲み込んでから話すようにして下さい」
銀次は忙しく口の中の物を咀嚼してから、もう一度、先程と全く同じ、西から昇った太陽でも見たようなトーンで忠実に繰り返した。
「赤屍さん?」
「そうですよ。…なんですか、私がここにいるのがそんなにおかしいですか?」
「ちっ、ちがっ、違いますっ!」
ぶんぶんと真っ正直に首を横に振る。赤屍はその様子をまるで興味がないような目で観察している。何も、言い出さない。ポーズを取ってみたり、にへら、と笑ってみたり、あれこれした挙げ句、先に痺れをきらしたのは銀次の方だった。赤屍はその間、まるで様子を変えずに、ずっと銀次を見ていた。
「…何かオレ、おかしいですか?」
「…なりませんねぇ…」
赤屍は、何時の間にやら、店の中の一席に座り、気怠そうに、テーブルに身をもたせかけながら、なおも銀次を見続けている。
「銀次クン、今日が何の日だか、知っていますか?」
「はい?」
「私の、誕生日とか言う物らしいんです」
赤屍は見事に他人事のようにそう言った。銀次は、赤屍があまりにも他人事のようにそんなことを言い出すものだから、一瞬、はぁ、と間抜けな返事をして、その内容を見逃してしまいそうだった。
「…って、今、赤屍さん、誕生日って言いました?」
「ええ、言いました」
赤屍はこともなげにそう言って、はじめて、銀次に飽きたように、窓の外をちらりと眺めた。
「えーと、あの、その…」
「銀次クンは、昼間に憂鬱になったりすることはないんでしたね、そうでした」
赤屍は既に諦めがついたように、席を立ち上がろうとした。
「誕生日には、プレゼントが貰えるもの、と聞いていたもので来てみたのですが、無駄足だったようですね。他を当たりましょう」
「あ、赤屍さん、ちょっとま…っ」
立ち上がり、出ていこうとする赤屍を追おうと席を立つ銀次を、赤屍の血のように赤い眼が瞬間、切り裂いた。銀次はふと、身動きを取ることが出来なくなった。
「…私はね、人にあげることに、飽きてしまったんです」
赤屍は、身動きを取ることが出来なくなった銀次に、気分が変わったかのように歩み寄った。
「そう、私はいつもあげてばかりです。いつも、一番欲しいと思っている物を、私は人に与えてばかり…」
手の中に、魔法のように、…いや、それは全く魔法だ…、一本のメスが握られていた。
「今日くらいはねだっても良いと思って来たのですが…、無駄のようですね…」
銀次をもう一度見て、冷たく、しかし憂わしげな溜息を一つつくと、その喉元に、ひたり、とメスをあてて、相手の様子を見る。
「…今日も私は与える側にしかいられない…」
す、と皮一枚だけを、赤屍は切った。赤屍の顔には、如何なる感情もそこには浮かんでいなかった。いや、むしろその憂いを帯びた顔はいつもよりも深く悲しみを帯びているように思えた。
「…私も今日くらいはいつも人にあげてばかりいる物を、望んでも良いのではないか、と思うのですよ」
赤屍はだらりと両手を垂らして、無防備に銀次の前に立った。
「赤、…屍さん、何が…欲しいんですか…?」
銀次の声は自然に枯れた。何時にもまして、赤屍の存在は死神に近かった。


「私は、死が欲しいんです」
なんの躊躇いもなく、赤屍はそう言った。まるで無防備に立ちながら、しかし、背筋の凍るような殺気を身に纏い続けている者が言う言葉のようには思えなかった。
「そう、私は死が欲しい。…いつも私は死を与えてばかりいるんです、…一番それが欲しいのは私なのに。…このままあげてばかりいると、何時か私には死が無くなってしまわないかと思うんです。…そう思いませんか?銀次クン」
再び、赤屍の片手が不自然なほど、重量がないかのように伸びて、銀次の首筋をなぞった。
「貴方はこれでもまだ、雷帝にはなりませんか?こんな風に恐れを与えるだけでは無駄なのですか?いっそ、このメスが貴方の喉元深くに突き刺さって、動脈を切り裂いたら、…そうしたら、貴方は雷帝になるのですか?」
赤屍のメスが、今度は左胸の上に動いた。
「それとも、ここですか?この下で脈を打っている貴方の心臓が破れれば、貴方は雷帝になりますか?」
ひたり、とメスは空間に固定されたかのように動かなくなった。まるでそこの空気だけが凍っているかのようだ。
「さぁ、私が後一突き分、力を入れれば、貴方の皮膚は破れて、このメスは貴方の心臓に食い込むのですが…、どうですか、貴方はまだ雷帝にはなりませんか?」
「…なりません」
赤屍の言葉が淡々と続く中を縫うように、銀次は小さく、しかし決然と言った。
「オレは、雷帝にはなりません」
噛みしめるようにゆっくりと、銀次はそう言った。
「なら、…私は今日も、死を諦めるしかないわけですね」
「なんで…」
「だって、そうでしょう?…銀次クン、キミは私には死をくれないんですから」
「…違うっ!」
銀次は唐突に苛立ちを隠せなくなった。赤屍はまるで夢の中にいる人間でもあるかのように、その激情にはなんの反応も示さない。
「何が違うんですか?そうでしょう?キミでは私に死を与えることは出来ない、違わないでしょう?」
「違うったら違う!なんであんたはそう、雷帝雷帝って……〜〜っ!!…そうじゃないっ!なんであんたはそんなに死にたがるんだっ!」
「…私は、死なないからですよ。だから、死が欲しいんです」
赤屍は能面のような顔で、激情を顕わにしている銀次を見ていた。その紅い眼にはまるで熱は宿っていなかった。
「あんたは死なせないっ!絶対に死なせない!…オレがあんたを死なせない!そんな、死にたいなんて言ってる人間は絶対にオレが死なせないっ!」
「キミに許されなくても、私は死にませんよ。知っているでしょう?…そして、私は自分に死が与えられない限り、人に死を与え続けるんです。…ねぇ、銀次クン、そのことも良く知っているでしょう?」
赤屍は退屈そうに、手の中でメスを玩びはじめた。そのメスの数はいつの間にか二本に増えていた。
「知ってるよ、だけど…っ!」
「キミが私に死をくれないと、私はいろんな人に死をあげて回るんです。…それが私だから、…それも、知っていますね?」
「だけどっ!」
「だけど、…なんですか?貴方は人が死ぬのは嫌いでしょう?」
赤屍は今は三本になったメスを扇のように持ち、銀次の頬に当てた。赤屍は微笑んでいた。しかし、目は虚ろに表情を失っていた。
「…だけど、あんたには絶対に何時か、死にたいなんて願いを諦めて貰うっ!」
「無駄ですよ」
「無駄じゃないっ!……だって、あんたが死にたいなんて言わなくなったら、きっと、あんたも、あんたの周りにいる人も誰も死ななくて済むようになるから…」
「…それは、何故ですか?」
最早、赤屍の口元からも笑みは拭われて消えてしまっていた。理解できない、したくもない、そんな顔だった。銀次は、その貌をまんじりともせずに見据えた。目の中に雷光が趨ったように見えた。
「…誰だって、命の価値が分かるようになれば死にたいなんて言わなくなるよ。…そしたら、殺せなくなるんだ。きっとあんたみたいな死神だって…」
「…知りませんよ、私は…」
ふっ、と、赤屍の手の中のメスが吹き消されたかのように消えた。そして、その手を帽子に添え、深く被り直した。表情が見えなくなった。その分、全身から強く、停滞した感情の臭いがした。絶望と言うのに、それは近かった。…誰も自分を理解しない。
「…あなたがこんなに無防備な私を、今ここで雷帝に殺さなかった結果がどんなことになっても、それは私の責任じゃありません。そして、私は命の価値なんて、知りません。動くか、動かないかなんて、…そんなのは大した違いじゃないじゃないですか?」
「違うよ、あんたは間違ってる」
帽子の奥から、銀次を見る。己の言っていることを信じて疑わない、…子供の顔だ。
「違いませんよ。…始まれば終わる、終われば次が始まる。…だから私はこうして生きているんです」
黒い衣が翻り、死神は、再び外に向かおうとした。自分を溶かすような柔らかい陽光が降り注いでいる外に。まるで屠殺場へ向かうような足取りで。
「…待った」
「待ちません」
「…赤屍さん。さっきから、ずっと首ばっかり振ってるよ」
「…は?」
昂然と顔を上げて、しかし欲しい物を訴える子供のような顔で、銀次が言うのに、赤屍はふと、足を止めた。
「誕生日なのに、一回も、人の言うことに、うなずけないなんて、寂しいよ」
「…寂しい?誰がですか?」
銀次は、その言葉を無視した。
「赤屍さん、…せっかく誕生日なんだから、ケーキ、食べてかなきゃ。波児、ケーキ焼くのも、上手いんだよ?」
赤屍は、逡巡した様子でもなく、しかし数瞬立ち止まった。頭を傾げるように、銀次を瞬間見た後、身を翻して、銀次のそばに立った。自然、赤屍の方が、銀次を見下ろす形になった。銀次は頭を上げて、相手を睨むように見続けた。
細く、長い人差し指で、銀次の口元に付いていたクリームを拭うと、その指を、口の中に突っ込んで、無造作に舐めた。
「…無駄足でした。今日は」
自分の指に、クリームがまだ付いていないかを、子細に確かめた後、赤屍はゆっくりと、冷酷にそう言った。
銀次は、何も言い返せず黙った。
「……ですが、多分、そう悪い日でもなかったんでしょうね」
「…じゃぁ…!」
「今度は殺し合いましょう、では」
赤屍が耳元でそう、低く呟くのを、銀次は止めることも出来なかった。言葉に切り裂かれるように、銀次は背筋を凍らせて、その場に間抜けに突っ立っているしかなかった。
そして、今度こそ、赤屍は、身を素早く翻すと、瞬間、日が陰ったときの様な翳りを残して、その次の瞬間にはHonkey Tonkの店内には埃一つも残さず、消えてしまっていた。