箱舘戦争史蹟編 |
五稜郭祭の一日前に函館入りし、函館の史蹟を見てきました。でも今年は五稜郭祭がメインだったので、あまり見て回ることが出来ませんでした。 |
光明寺(大野町) |
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![]() このお寺には、箱舘戦争で亡くなった衝鋒隊の永井蠖伸斎と、額兵隊の網代清四郎のお墓(首塚が正しいらしい)があります。何故かこの二人は同じお墓に埋葬されています。二人のお墓は寺の左横にあり、一般のお墓に紛れてしまい見つけにくかったです。 この他にも、新政府軍兵士のお墓があります。 左が永井蠖伸斎と、網代清四郎のお墓です。この墓石はお寺の過去帳によると、明治34年に国下大雲住職と岡田善治実の二人が発起人になって、自然石を使い建てたものだそうです。実はこのお墓、前と後ろのお墓との間があまりに狭く、正面から写真を撮ることが出来ませんでした。そして前にあるお墓が大きいため、はっきり言って見つけづらいです。柱が立っていたのでわかったものの、これがなければ気が付かないかも…。なんだか少し悲しくなりました。 |
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高龍寺 | |
![]() 箱舘戦争時に箱舘病院分院として使われていましたが、新政府軍の攻撃を受けて傷病者が亡くなった惨劇の寺です。現在の高龍寺は高台にありますが、箱舘戦争当時は現在の場所にはなく高台の下の方にあったそうです。 ![]() ここでは会津遊撃隊の隊士が犠牲になったとのことで、供養のため会津藩の有志がこの傷心惨目の碑を建てたそうです。この碑の側には、会津若松市長が植樹した松の木があります。 |
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称名寺 | |
![]() 新撰組の頓所になったこともあるというお寺です。現在は土方歳三と新撰組の隊士四名の供養碑があります。供養碑は本堂の左脇にあります。 ![]() ![]() この供養碑は昭和48年に建てられたものだそうです。共に名前が刻まれている新撰組の隊士のお墓は元々このお寺にあったそうですが、昭和29年の台風によりお墓が壊れてしまったため、一緒に名前を刻んだそうです。ちなみに四人の隊士の名前は、小林幸次郎、糟屋十郎、栗原仙之助、野村義時です。(野村利三郎と言う話もありますが…、義時は彼の諱なのでしょうか? うーん勉強不足) |
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実行寺 | |
![]() 額兵隊の隊士が葬られていると聞いたので行ったみましたが、結局わかりませんでした(笑)しかし、このお寺は旧幕府軍に縁が深く、侠客で知られる柳川熊吉が実行寺の住職と図って、旧幕府軍の戦死者の遺体を集めて葬ったと言う話が残っています。また、土方歳三に戒名を与えた寺でもあります。 このお寺の過去帳には、伊庭八郎や諏訪常吉、春日左衛門の名前が記されているそうです。ちなみに諏訪常吉のお墓は、本堂の左側横にありました。 ![]() わかりにくいと思いますが、日向君招魂碑と書いてあります。どうやらあの会津藩白虎隊士中二番隊の隊長であった日向内記の碑のようです。最初に見たとき「何故?」とおもったのですが、碑文を読んでみるとどうやら戊辰戦争の後北海道に渡ってきたみたいですね。 |
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