額兵隊とは? |
額兵隊が結成される契機となったのは、仙台藩の参政葦名靱負(あしなゆきえ)と荒井平之進が、江戸に正使(荒井は副使)として赴いたことによる。江戸滞在中に靱負は仙台藩の兵制や訓練、兵器が劣ることを思い知らされる。帰藩後、執政の松本要人に事と次第を話し、新しく洋式の部隊を結成することを決めた。そして、その頃すでに国家老但木土佐により洋式の調練を受けている部隊があったので、そこから百人ほど選抜して仙台城中に駐屯させ訓練を行った。この隊の名を楽兵隊と称し靱負が隊長となり、横浜で洋式兵学を学んでいた星恂太郎を兵学教師に迎えた。(楽兵隊の名前の由来は定かでは無いが、楽隊を持っていたからとする説がある)この後、官軍下参謀世良修蔵が福島城下で殺害され、会津藩が白河城を占拠するなどによって、奥羽越はいわゆる東北戦争に突入していく。 額兵隊は五月から八月まで調練されていたが、額兵隊に対する藩の期待は大きく、仙台藩の命運はこの一部隊にかかっていると思われていた。そしていよいよ官軍が領境に迫ったとき出撃命令が出された。しかし、額兵隊は動かなかった。隊長の恂太郎は、兵器や銃弾の充実を図らずに戦を急ぐがゆえに、我が藩は毎戦敗走する。それを避けるため、まだ動かない。と言う旨を伝え、出撃を拒否し続けた。額兵隊の銃弾の数はまだ十分といえず、そのために兵力を無駄に消耗することを憂ての事だった。出撃を拒否し続ける一方、隊士によって昼夜無く銃弾を作り続けていた。 そしていよいよ出撃準備が整った八月末、藩は降伏帰順に傾き始めた。そこで額兵隊は城下で大がかりな調練を行い、降伏帰順派を牽制した。しかし恂太郎は九月十三日城中に召され、靱負から降伏帰順が決まったので、みだりに兵を動かすなと告げられる。恂太郎はこの知らせに憤然とし、兵を招集して今まで藩主に賜った恩に報いるために戦う旨を述べ、隊士たちを扇動した。そして額兵隊は、藩主伊達慶邦や靱負の制止を振り切り出陣した。 |