額兵隊とは?


 
仙台藩が誇る洋式銃隊であり、奥羽越列藩同盟中最精鋭部隊。慶応四年四月に結成。

 額兵隊が結成される契機となったのは、仙台藩の参政葦名靱負(あしなゆきえ)と荒井平之進が、江戸に正使(荒井は副使)として赴いたことによる。江戸滞在中に靱負は仙台藩の兵制や訓練、兵器が劣ることを思い知らされる。帰藩後、執政の松本要人に事と次第を話し、新しく洋式の部隊を結成することを決めた。そして、その頃すでに国家老但木土佐により洋式の調練を受けている部隊があったので、そこから百人ほど選抜して仙台城中に駐屯させ訓練を行った。この隊の名を楽兵隊と称し靱負が隊長となり、横浜で洋式兵学を学んでいた星恂太郎を兵学教師に迎えた。(楽兵隊の名前の由来は定かでは無いが、楽隊を持っていたからとする説がある)この後、官軍下参謀世良修蔵が福島城下で殺害され、会津藩が白河城を占拠するなどによって、奥羽越はいわゆる東北戦争に突入していく。

 そのような情勢不安の中、五月二十六日に新潟港開港全権として靱負は新潟に向かうこととなる。この時随行した者の中に、楽兵隊を調練中の恂太郎がいた。時期が時期だけに、恂太郎が隊を離れる事は得策では無かったが、海外事情に通じており英語が分かる者がほとんどいなかったので、やむを得ずの同行だった。彼らが新潟に滞在している間、楽兵隊の隊長を但木左近、教師を菅原隼人(隼太?)として楽兵隊を調練していたが、同月左近が秋田口に出陣する事になったことや、軍事切迫を理由に勇義軍やその他の諸隊に編入されてしまい、六十人にも満たない事もあったという隊になってしまった。恂太郎は帰藩後、すぐに藩士の中から家長と長男を除いた次男、三男で三十歳以下の敢死の者を募り八百人が集まった。そこで隊名を変えるべく、儒学者の大槻磐渓に相談し額兵隊と名付けた。ここに額兵隊が誕生したのである。

 額兵隊は砲兵百五十人、土工兵二百人、そのほか楽兵および士官隊から成り、恂太郎が自ら司令となってイギリス式調練を行った。額兵隊の特筆すべきところは、そのラシャ製の軍服にある。イギリス軍を模したものだが、平時は赤い軍服で戦闘時は服を裏返して黒い軍服にする。いわゆるリバーシブルになっている。額兵隊の八百人全てがこの軍服を着ている様子は、なかなか壮観であったという。



2000年の五稜郭祭りで行われた、
維新行列での額兵隊の写真です。軍服
やその他の持ち物は、出来るだけ史実
に近づけるようにしているそうです。



 額兵隊は五月から八月まで調練されていたが、額兵隊に対する藩の期待は大きく、仙台藩の命運はこの一部隊にかかっていると思われていた。そしていよいよ官軍が領境に迫ったとき出撃命令が出された。しかし、額兵隊は動かなかった。隊長の恂太郎は、兵器や銃弾の充実を図らずに戦を急ぐがゆえに、我が藩は毎戦敗走する。それを避けるため、まだ動かない。と言う旨を伝え、出撃を拒否し続けた。額兵隊の銃弾の数はまだ十分といえず、そのために兵力を無駄に消耗することを憂ての事だった。出撃を拒否し続ける一方、隊士によって昼夜無く銃弾を作り続けていた。
 そしていよいよ出撃準備が整った八月末、藩は降伏帰順に傾き始めた。そこで額兵隊
は城下で大がかりな調練を行い、降伏帰順派を牽制した。しかし恂太郎は九月十三日城中に召され、靱負から降伏帰順が決まったので、みだりに兵を動かすなと告げられる。恂太郎はこの知らせに憤然とし、兵を招集して今まで藩主に賜った恩に報いるために戦う旨を述べ、隊士たちを扇動した。そして額兵隊は、藩主伊達慶邦や靱負の制止を振り切り出陣した。


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