今日の禁断 リング

 今朝、職場に車で向かっていると、信号で止まったところで交差点の一方通行の表示がスルスルと変わっていきました。ちょうど9時になったので、堤通りと仙石線と並行している狭い道の規制が逆方向に変わったのですね。
 普通は、白い矢印が進む方向を示すのだ、と思うのでしょうが、こういうものを見るとつい「青い矢印」を見てしまうのは、安野光雅ファンであれば仕方のないことです。
 職場では、庭の池の中でカエルの卵が順調に成長しています。もはやみんなすっかりオタマジャクシになって、いきいきと泳いでいました。こうやってアップするとかわいいものですが、実際はこれで池がまっ黒になっているのですから気持ち悪いですね。これの動画をFacebookにアップしておきました。こっちはマジで気持ち悪いですよ。
 そんな春の訪れとともに、ニューフィルの定期演奏会も近付いてきました。この前の指揮者練習の2日目には、まさに「春」そのもののサプライズが待っていましたね。
 なんと、同じオケの同じパート同士のカップルが誕生していたのです。その日の朝一で区役所に行って入籍してきたのだとか。おめでとうございます。さっそく私は、次の「かいほうげん」の表紙を飾るべく、写真を撮りまくることに余念がありません。
 それは、確かに前に出てそのことを告げた団長あたりには文字通りのサプライズだったようで、「いきなり話を聴いて動揺している」というモードでしたが、私はだいぶ前からFacebookでミエミエの書き込みを行っていたのを見ていましたから、全然驚きませんでした。それこそ「長い春」だったんですね。重ねて、お幸せに。
 その練習の時には、前の日に続いてD100でのテスト録音をやっていました。今までM10で録ったのとは全く別物の音だったものですから、ここはひとつ同じ条件で比較してみようと、その2台を並べて同じレベル設定で24/96で録音してみたのです。それと、それぞれの曲で通しをするというので、それも重点的に録音してみなければ。
 しかし、24/96で録音していると、1時間で2GBにもなってしまいます。そうなると、なぜか自動的に新しいファイルに切り替わってしまいます。別に音自体はつながっているので問題はないのですが、これでは何かと面倒なので、休憩時間にはマメにストップさせて、強制的に新しいファイルを作るようにしていました。そうしたら、最後、最も肝心な「展覧会」の通しの前の休憩で、うっかりしてスタートさせるのを忘れてしまいました。チューニングが始まった時、さっきの新郎が客席にレコーダーをセットしに行ったのを見て、それに気が付いたのですね。あわてて席を立って、客席の真ん中まで行ってスタートさせてきましたよ。座るなり、トランペットのソロが始まりましたね。
 そして、帰って来てからモニターです。やはり、D100を聴いてしまうと、M10の音はいかにハイレゾとは言っても全く比較になりません。要は、マイクの違いなんですよね。当たり前の話ですが。
 こうして並べてみると、マイクの大きさは最高位機種(もう販売終了ですが)のD1に匹敵します。
 やはり、M10のこのマイクでは、太刀打ちは出来ないのでしょう。
 その、もちろんD100で録った通しをmp3に落として、ネットに上げてみました。元が良いと、こんな圧縮音源でも結構きれいに聴こえるものですね。
aventure number : 2247 date : 2014/4/23


今日の禁断 コロムビア

 「レコード芸術」の5月号が発売になりました。相も変らぬ「名曲名盤500」などという愚にもつかないトップ記事でげんなりさせられてしばらく行ったところに、今はもう廃盤処分になっているはずの佐村河内守の「HIROSHIMA」のジャケットが目についた時には、目を疑ってしまいました。
 それは、この雑誌に連載されている長木誠司氏のコラムだったのですが、そこでは読むに堪えないほどの醜悪な文章にお目にかかってしまったのです。ご存じのように、長木氏はこのアルバムにライナーノーツを寄せています。言ってみれば「現代音楽」のオーソリティである氏がライナーを書くということは、このアルバムに「現代音楽」的な側面からの箔付けをして、販売促進に加担することを意味します。以前、「禁断」に書いたように、佐村河内守があんなことになってしまっては、その「犯罪」に加担した長木氏は、たとえそれが純粋に音楽的な意味の行為だったとしても、これは相当恥かしいことだったはずです。普通に考えれば、氏の現在の職を追われても仕方な無いほどの、いわば「風評被害」にさらされても当然のことです。しかし、この文章は、別に「世間」に対してお詫びをしているものではなく、徹頭徹尾、自らが書いたライナーを、詭弁を多用してひたすら擁護しているものに過ぎませんでした。つまり、氏が御神輿を担いだ張本人が記者会見で見せた「逆切れ」と全く同じ種類の、およそ程度の低い、もっと言えば恥知らずの自己弁護でしかなかったのです。
 その骨子は、今の「現代音楽」のシーンでは、この作品のような「パスティッシュ」の手法は広く用いられているのだから、この作品の価値は誰が作ったとしてもしっかり認められる、というものです。それは、この事件の後に巻き起こった、「曲自体は『感動』を与えてくれるものなのだから、抹殺されるのはしのびない」という、無垢なクラシック・ファンの声を、「専門家」の立場から「理論武装」しているもののようにも見えます。しかし、そんなお粗末なロジックは、公開されたあの落書きみたいな「指示書」を見れば、もろくも崩れ去ってしまうはずです。佐村河内守には、氏が期待したような「現代音楽」のセンスなどは全くありませんでした。もちろん、新垣隆にしても、その「指示」に忠実に仕事をしただけで、そこからはたとえ「パスティッシュ」だとしても、まっとうな作品には必ず存在するはずの「オリジナリティ」などは微塵も認めることはできません。そもそも、かつて、まさに「パスティッシュ」に堕してしまったペンデレツキを「もう終わった作曲家」と評していた氏が、それ以下の出来でしかないこの作品を、なぜこれほど持ち上げるのか、到底理解不能です。
 まあ、そのあたりは単なる整合性のなさ(「ボケ」とも言う)で片づけられる罪のないものですが、このコラムの最後で、あの事件の発端の一つとなった野口剛夫氏(実名は出していませんが、間違いなく野口氏のことです)の文章に対して「マイノリティに対するこれほどの不作法はない」と言いきっているのを見ると、情けなくなってしまいます。これは、自己弁護のためなら、自説に不利なものはなんとしても貶めようという、それこそ「不作法」そのものの論法であることに、氏は気付いていないのでしょう。この野口氏の文章を読みなおしてみましたが、これのどこが「マイノリティに対する不作法」なのか、私には全く分かりませんでした。長木氏こそ、評論家としてはすでに「終わって」いるのですよ。
 「レコード芸術」は、先月号でもほとんど「言い訳」でしかない告知を出していましたね。以前から感じていたこの雑誌の正体は、ここにきてはっきりしました。実際、毎月買ってはみるものの、まともに読める記事などほとんどなくなってしまっていますから、もはやこの雑誌は資料としての価値すらなくなってしまっています。そこにきて、こんなしょうもない文章を5ページにもわたって堂々と掲載するなんて、この雑誌は長木氏と心中でもするつもりなのでしょうか。いずれにしても、この雑誌が、ジャーナリズムの道から外れてどんどん堕ちて行ってしまうのに付き合うほど、無神経ではありませんから、けさTUTAYAに行って、定期購読の契約を解除してきました。もう、書店で見かけても立ち読みしようという気にすらならないでしょうね。そう、この雑誌もまた、音楽情報誌としてはすでに「終わって」いるのです。 
aventure number : 2246 date : 2014/4/21


禁断ばっくなんばあ

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