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音楽展望
吉田ヒレカツ

2010130日  東北大学100周年記念会館 川内萩ホール

2010/1/30記)

合唱:仙台宗教音楽合唱団、盛岡バッハ・カンタータ・フェライン
合唱指揮:佐々木正利
ソプラノ:佐竹由美、沓沢ひとみ アルト:永島陽子 テノール:鈴木准 バス:浦野智行

 私が身を寄せているこの仙台の地には、満足のいく音楽専用の演奏会場がないというのは、今までにも多くの人が指摘していたところではなかったか。しかし、最近になって「川内萩ホール」とかいう、音楽の用途のための専用の造りを施した公会堂ができた、ということを聞くようになった。なんでも、かつては地元の大学の講堂だったものが老朽化したとかで、それを外観だけ残して中身を大幅に改造して、立派な音楽堂にしたのだ、ということである。一度はここで本格的な演奏会を聴いてみたいものだと思っていたところに、ヘルムート・リリンクがやってきてバッハの「ミサ曲ロ短調」を演奏するというではないか。これはぜひとも聴きに行かねばなるまい。
 リリンクといえば、この地には昔から深い因縁がある人物であったと聞いている。今はもう故人となられてしまったが、松原茂さんとおっしゃるリリンクのお弟子さんが、ここの女子大学の音楽科長をなさっていて、その縁で招いて以来、何度となく講習会や演奏会を行ってきたそうなのである。リリンクがシュトゥットガルトで主催している「バッハ・アカデミー」の仙台版のようなものが誕生したのも、そのようなつながりが発端であったのであろう。松原さんはお亡くなりになっても、他の方がその志を継いで、今日までそれが継続されているということだ。

 今回の演奏会は、「オーケストラ・アンサンブル金沢」という、金沢で活躍している、全国に名の知れた団体の主催公演という形になっているらしい。もっとも、それ以前に、30年ほど前に実際にリリンクに指揮されたことのある仙台市の「宗教音楽合唱団」と、同じ指導者による「盛岡バッハ・カンタータ・フェライン」との間で、指揮者招聘の話はあったような話も聴いている。それがどのような話し合いでこのような形になったのかは、私の知るところではないが、結果的にこの素晴らしい室内オーケストラをも初めて生で聴く機会が出来たことは幸運なことであった。というのも、このオーケストラは、リリンクのとても柔軟性のある音楽を、見事に受け止めていたことが、強く感じられたからだ。
 リリンクという人は、録音で聴いてみると昔と今とでは全く異なったことをやっていることがわかる。おそらく、その時々の研究の成果などを柔軟に自らの演奏の中に取り入れるという姿勢にかけては、若い人達にはひけをとらないものを持っているのであろう。そのリリンクは、最近では積極的に古楽器の演奏様式を、現代の楽器演奏の中に取り入れようと試みているのではないだろうか。演奏速度ひとつをとってみても、かつてはかなり大時代的な悠揚迫らぬものだったものが、次第にもっとあっさりとした、したがって演奏時間も短くなる傾向にあるように感じられる。それを、このオーケストラは見事に受け入れていたのである。おそらく、リリンク以前にも、このオーケストラに対してそんな要求を行った指揮者はいたので、それはすんなり達成できたのであろう。かつて某N響がノリントンのもとでさらしたようなみっともない部分は皆無だったのである。
 その端的な表れは、弦楽器の美しいノン・ビブラートに見ることが出来るであろう。例えば、ヴァイオリン・ソロのオブリガートが付く「Laudamus te」で、コンサートマスターのアビゲイル・ヤングさんが見せてくれたものは、まるでオリジナル楽器そのもののような演奏であった。全合奏でも、「Agnus Dei」の序奏でのヴァイオリン合奏は、一切のビブラートを排した中での、見事な格調の高さを示していたのではなかったかしらん。また、ティンパニなども、古い時代に近い形のものを用いているのであろう、その刺激的な音色と、躍動感あふれる演奏は特筆すべきものであった。

 ただ、合唱に関しては、リリンクはそれほど古楽器演奏の様式にはこだわってはいないように見える。おそらく、彼は大人数の合唱というものには、確固たる信頼を抱いているのであろう。特に、このようにきっちりと鍛え上げられた合唱団の作り出す、何にも代えがたい充実したハーモニーこそは、なんとしてでも聴衆に伝えたい、というような信念のようなものが、ひしひしと感じられてしまうのである。最近はジョシュア・リフキンという輩の影響で、バッハの宗教作品の演奏にあたっては、独奏者が合唱の部分も歌うという「1パート1人」という思想が、かなりの趨勢を占めるようになっていると聞く。それは、大人数で演奏することはまるで無意味であるかのごとく思わせられるほどの勢いをもって、このところの音楽界を席巻しているのではないだろうか。事実、その正当性が感じられるような優れた演奏にも多々お目にかかれるようになってくると、そもそもバッハの演奏には、そんなにたくさんの人数の合唱は必要ではないのではないかと思えてくるのは、決して間違いではないのでは、と思えてくるのである。
 今回の合唱では、いかに緻密に鍛えられたものであっても、実際には、多くの声部が重なり合うような部分になるとどうしてもそれぞれの声部の独立性が犠牲になってしまうという局面はいたるところで見られてしまった。しかし、それでも敢えて大人数にこだわるというのが、リリンクの信条なのであろう。実際、「Credo」の中の「Crucifixus」で切ないほどに歌い上げられる哀しみ、そして、それが続く「Et resurrexit」によって喜びへと変わる瞬間、これらの深い情感を味わうにつけても、1パート1人という形態からは決してなし得ることが出来ないものも世の中にはあるのではないか、という思いも、完全に捨て去るわけにはいかないのである。そのような、時代の趨勢とは異なるところでも、確かに大切なものが存在していることも、リリンクは教えてくれているのではないだろうか。
 そんなことにまで思い至ったのは、この合唱の演奏が本当に素晴らしいものだったからだ。彼らは、長い間的確な指導者の下で、練習を続けてきたのであろう。リリンク本人のリハーサルはおそらく1、2度しかなかったはずなのに、しっかり彼の意に沿った表現をこなしていたのは、まさに驚異的なことである。さらに、発音に関しても、通常のラテン語の発音ではない、かなりドイツ的な、ということは、普通の合唱団ではあまり馴染みのない発音が、見事に統一されていたのも、また驚異的なことだ。

 この新しい公会堂は、確かに素晴らしい音が味わえる場所であった。なによりも、ひとつひとつの音がくっきりと聞こえてくることには驚いてしまった。フルートなど、大勢の合唱の中でかき消されてしまうことが多いものだが、それはどんな時にもはっきり聞こえてきたものだ。ただ、それは、演奏者の技量まではっきり伝わってくる、という、考えようによっては怖い側面も持っているのではないか。そのフルート奏者が独奏をしていたときなどには、明らかにひとつの音(中音の嬰ハ)だけが不安定であることが、門外漢の私でも手に取るように分かってしまったのだから。素晴らしいものはより素晴らしく、しかし、明らかに見劣りのするものは容赦なくその欠点をさらけ出すという、なんとも演奏家にとっては恐ろしいものを作ってしまったものだ。


当コラムの執筆者のペンネーム「吉田ヒレカツ」は、高名な音楽評論家吉田秀和氏からインスパイアされたものですが、コラムの内容も含めて、吉田氏ご本人とは何の関係もありません。

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