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音楽展望
吉田ヒレカツ

2003年2月27日  イズミティ21(仙台市)

2003/2/28記)

 フルーティストのジャン・フェランディスと、ピアニストのエミール・ナウモフが、私も良く知っている日本人のフルーティスト、瀬尾和紀も加えて日本各地で演奏会を行ったというニュースを耳にしたのは、昨年のことだったろうか。その時には、このフェランディスという人のことは全く知らなかったのだが、ピアニストのナウモフについては少し知識があったので、興味を惹かれたものだった。というのも、このナウモフという人は、ピアニストであるとともに作曲家であり、以前からストラヴィンスキーの「火の鳥」とか、フォーレの「レクイエム」などを自身でピアノ独奏用に編曲して演奏しているレコードを良く聴いていたからである。最近でも、あのムソルグスキーの「展覧会の絵」を、なんとピアノ協奏曲仕立てにした上に、原曲にはない即興的な部分を付け加えたという、なんとも痛快なレコードを出してくれたばかりということで、彼に対する関心というのは並々ならぬものがあったのである。今回、この二人による演奏会が仙台で行われるというではないか。これは、実際に行って、聴いてみるしかないではないか。

 しかし、会場に足を運ぶ私には、少なからぬ危惧の念があった。というのも、この演奏会に関する宣伝活動が、日常では全く見受けることがなかったからである。私がこの演奏会のチラシを目にした唯一の機会は、先日の瀬尾和紀の演奏会の時だけだった。その他は、演奏会の折りこみや、新聞の地方欄での告知など、一切目にすることはなかった。聞くところによると、なんでもこの演奏会の主催者は大阪の楽器店とのこと、地元での宣伝活動に携わる人がいないという事情があるということだったが、そのような体制で、はたして1500人収容のこの「イズミティ21」にどのぐらいのお客さんが集まるのか、心配になるのは当然だろう。かつて、このホールにさるタレントが来た時、実際に聴衆が50人ほどしかいなかったという体験を持っている私としては、あのような寒々しい思いをするのは、できるものなら避けたかった。
 そんな思いで会場に着いてみると、その大ホールには明かりすら点いていないではないか。不覚にも、日にちを間違えて来てしまったかと思っていると、「小ホール」の前に、なにやら人だかりがしている。そうであったのだ。チラシやチケットには「イズミティ21」としか書いてなかったので、てっきり大ホールだと思ってしまった私の勘違い、400人収容の小ホールであれば、おそらく程々の入りにはなってくれるのではないか。まずは一安心というものである。
 しかし、ホールに入り、椅子に座ってしばらく様子を見ていても、一向に座席が埋まる気配はない。下手をすると、それこそ50人の聴衆を相手に、この、はるばるフランスからやってきた演奏家たちが演奏をしなければならなくなってしまう可能性もありうるのではないか。幸い、開演間際にはいくらかは入ってきたようではあるが、それでも、せいぜい120130人程度であろう。なんとも寂しいことになってしまったものだ。

 客席の明かりが落ち、ステージに出てきた演奏家たちも、やはりこの不入りさには、不審の表情を隠すことは出来なかったようだ。とくに、背の高い、鋭い目つきをしたフルートのフェランディスからは、明らかな不満の気配を察することが出来た。それに対して、ピアニストのナウモフは、対照的に背も低く、頭髪も薄めで丸型の体型で、とりあえず客の入りなど何の関心もなさそうなそぶりだったのには救われる思いがしたものだ。余談だが、この二人、かつてテレビで放送されていたアメリカのドラマというかシットコム、「となりのサインフェルド」に出てくるクレイマーとジョージに似てはいないだろうか(と言われて、応対できる人が何人いることだろう)。

 そんな不遜な印象が的外れであったのは、最初の曲が始まった瞬間に明らかになった。この二人の持つ音楽の、なんと華やかなことだろう。フェランディスのフルートは、ほとんど聞こえないほどの弱音から、一本のフルートでこれだけ大きな音を出すのが可能なのかと思わせられるほどの強音まで、考えられないほどの幅広さを持っている。それに加えて、音色のなんという多彩さ。特に、あまり倍音を混ぜない、ほとんどビール瓶を鳴らしているような「抜けた」音の美しさといったら。じつは、このような抜いた音を演奏で使っているフルーティストというのは、あまり多くはない。楽器を鳴らすことに関しては大いに力を注ぐが、この魅力的な「抜いた」音を本気で追求しようとする人はあまりいないのかもしてない。この音を、もっとも完成された形で用いているのが、かのジェームズ・ゴールウェイだといったら、戸惑われる人もいるかもしれない。しかし、彼ほど楽器を鳴らしきった密度の濃い音を出しているからこそ、この「抜いた」音がえもいわれぬセクシーなものとなって、聴き手を魅了するのである。フェランディスの場合にも、そのような夢見るような響きを体験できた瞬間が幾度となく訪れ、心底堪能することが出来た。そこへもってきて、彼の演奏の時のアクションといったら。音楽を体全体で表現するかのように、ある時は体を屈めたり、ある時はピアニストに向かって威嚇したりと、ひとときたりとも動きを休めることはない。曲の最後での、あたかも楽器を放り投げるかのような派手なアクションも見物であった。
 ピアノのナウモフも負けてはいない。鍵盤に頭が着くほど思い入れたっぷりに弾いていたかと思うと、大きく腕を上げてみたり、椅子から立ち上がりそうになったり、アクションという点ではフルーティストと同等に張り合っていた。音楽的にも、隙あらば相手を食ってやろうという意識がはっきり見て取れて、まさに火花を散らすような生々しいバトルが展開されていたのである。

 この演奏会では、上林裕子さんというパリ在住の日本人作曲家の新しい曲が演奏されていた。2月にパリで初演されたばかり、したがって、日本ツアーの初日となるこの仙台での演奏が、文字通りの日本初演となるわけである。4楽章形式のかなり長い曲、冒頭いささか日本的な旋律が現れるが、本質的には近代フランスの趣味に満ちた、なかなか魅力のあるものである。ダマーズとかゴーベールといった、フルートのために良い作品を作っている先達の良い伝統を受け継いでいるものなのであろう。第3楽章のカンタービレは、フェランディスの幅広い音色がどれほど作品の価値を高めることに貢献していたことだろう。終楽章の人懐っこいテーマも、彼の揺るぎ無いテクニックで、豊かな愉悦感を伴って精一杯の魅力を振り撒いていた。おそらく、作品に対する取り組みという点に関しては、この曲は演奏会の中で最も成功したものではなかったか。作品の幸福な船出を見届けて、客席にいた上林女史も満足げであった。

 当日のプログラムは、前半がモーツァルトのオーボエ四重奏曲、シューベルトのソナチネ第2番、フォーレのヴァイオリンソナタ第1番という、いずれも編曲物、その間にフェランディスのソロでドビュッシーの「シランクス」が入る。後半は、上林さんのソナタとタクタキシビリのソナタという、こちらはオリジナルのフルートソナタ、それに、ナウモフのソロでフォーレのノクターン第6番という、なかなか盛りだくさんの内容であった。休憩を入れて、終演までの時間が2時間半というのは、あるいはちょっと長すぎるものだったかもしれない。事実、最後のタクタキシビリあたりでは、明らかに集中力が低下していると思われた瞬間も無くはなかった。第1楽章の終わり近く、本来は4オクターブ目の「ド」という最高音の連続を、安全のためか1オクターブ下げて演奏していたのにも、少々失望を禁じえなかった。
 もっとも、フェランディスの出す音の魅力には快感を覚えながらも、彼の作り出す音楽全体としては、必ずしも全面的に共感できなかった部分があったことも、正直に告白しなければならないだろう。それは、時として見せるおざなりなフレーズの処理といったようなもの。場合によっては、ラテン系人種のおおらかさとみなされないことも無いのだが、そのことによって表現にちょっとした「手抜き」のような印象を持ってしまった場面が、少なからず感じられてしまったことは事実だった。音色についてはあれほどの繊細さを持っている彼なのだから、表現に関してももう少し緻密なアプローチがあれば、一層魅力的な音楽が聴けるのでは、と考えるのは、私だけではないはずだ。特に、タクタキシビリでの淡白過ぎるともいえる演奏に接して、その感を強くしたものだ。

 とはいえ、圧倒的な美音と、誰をも魅了せずにはおかないオーバーアクションとによって、彼らは、聴衆から、この、いささか物足りない人数とは思えないほどの、力にあふれた熱烈な拍手を引き出すことに成功したのである。アンコールの際のフェランディスの言動、仕草からは、確かに演奏者と聴衆が一体となっていた幸福な瞬間を感じることが出来た。あるいは、彼らによってもたらされたこの幸福感こそが、当夜の最大の収穫だったのかもしれない。


当コラムの執筆者のペンネーム「吉田ヒレカツ」は、高名な音楽評論家吉田秀和氏からインスパイアされたものですが、コラムの内容も含めて、吉田氏ご本人とは何の関係もありません。

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