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音楽展望
吉田ヒレカツ

2004117日  宮城県民会館

2004/1/19記)

 先日「オペラ座の怪人」で、この地方都市の公共施設を借り切ってロングラン公演を行った劇団四季が、今回は「キャッツ」という評判の演目で、再度ロングランを敢行するということである。しかも、今回は半年間という、文字通りの長期連続公演、この地方都市に、たかがミュージカルでそれほどの集客能力があるというのは驚くべきことだ。果たして、どのような点が魅力で、そんなにも多くの客が来るのか、これはぜひ実際にこの目で見た上で、その秘密を解明してみる必要があるのではないかしらん。

 会場は、馴染みのある県民会館、しかし、一歩客席に入った瞬間、そこは、まるで怪しげな場末の盛り場のような雑然とした様相に支配されていた。薄暗い場内は、天井から壁面まで、あの見慣れた県民会館の内装とは全く異なる、雑多な小道具で覆い尽くされていたのであった。しかも、私はそのようなところに足を運んだことはないのだが、まるでキャバレエとかいうみだらな場所で使われるような、おびただしい数の豆電球がぶら下がっているではないか。なんでもこれは都会のゴミ箱をあらわしている舞台装置なのだそうだ。こうやって、ホール全体をゴミ箱にしてしまい、本番が始まる前からミュージカルの世界へ連れ込もうというのが、公演者の意図なのであろう。もちろん、ステージの上にも、なにやらがらくたのようなものが置いてあり、客席まで2本の滑り台のような通路が作られている。そういえば、両側の壁もかなり客席の方へせり出してきているようにも見えなくもないし、あちらこちらに出入り口のようなものも見える。どうやらこのミュージカル、ホール全体をステージに見立てた、言ってみればシアターピースのような仕掛けが施されているのではないか。これはなかなか面白そうだ。ひとつ、お手並みを拝見してみようではないか。

 場内が真っ暗になって、序曲が始まった。もちろん、あらかじめ録音してあるものが流されているのだが、「オペラ座の怪人」の時よりはるかに生々しい、歪みの少ない音であったのには驚いたものだ。私はクラシックの評論家として高名だから、大衆音楽などあまり聴かないだろうと思われがちだが、それは全くの偏見というものなのである。実は、電気ギターや多数の太鼓を伴った激しい律動感の音楽、それも、電気音響装置で増幅された音でギンギンと鳴り響いた場所にも、何度も身を置いたことがあるのである。ただ残念だったのは、そのような場での音が、音量を増すことだけに主眼が置かれ、音質に対する配慮が全く欠けていたということだ。そのような体験と比べてみると、今回の音響装置から聞こえてくる音は、まるで次元の違う、質の高いものであったことは、特筆すべきだろう。その暗闇の中から、なにやら光を放つものが見えてきた。それらは、舞台の上だけではなく、どうやら客席のあちこちで動き回っているようだ。観客を全て巻き込むという演出の、これがその始まりなのであろうか。

 舞台が明るくなって、歌と踊りが始まった。その踊りの完成度の高さには、驚きを隠すことは出来ない。門外漢の私が見ても、かなり高度の訓練を積んだ人たちのように見える。しばらく見ていると、中にはあまり上手ではない人がいることも分かるようになってくるが、しかし、そのような人たちを巧みに目立たないような場所に持ってくる工夫もされていて、そのような意味でも感心させられてしまう。
 1曲終わったところで、出演者たちが会場の中に散らばって、てんでに同じ台詞を喋りはじめた。やがて、そのうちの一人(一匹、と言うべきか)が、私たち夫婦が座っているすぐそばまでやってきたではないか。そして、あろう事か、家人の目と鼻の先で、家人の顔を見つめながら喋りはじめたのである。もちろん演出に違いはないが、ここまでやられては、芝居に引き込まれないわけにはいかないことだろう。予想したとおり、それからも出演者たちは、ホール全体を自由自在に動き回り、舞台と客席の境目などは完璧に取り払ってしまっていたものだ。もう一つ、効果的な演出としては、観客の一人を舞台に連れて行って一緒に踊らせるというものなどもあった。もしかしたら、これから、その連れて行かれる可能性のある席を、最初から狙って購入する人なども出てくるのではないかしらん。

 ミュージカルが始まってしばらくして、この作品にはドラマとしてのプロットがないということに、はたと気が付いた。ここには、収束すべきひとつの物語などは存在せず、多くのエピソードをつないだ、殆どレビューのようなものであることが、明白になったのである。ストーリーを追うことを放棄した観客は、ひたすら華麗な踊りに酔いしれ、ホール全体を使い切った大規模な仕掛けに溜飲を落とすのであろう。そうなのだ。この大がかりな、まるで集団催眠をかけているが如き陶酔感こそが、このミュージカルが多くの人に見られている秘密だったのだ。
 従って、全ての曲が終わって、観客も全員が総立ちになったカーテンコールを迎えても、音楽としての印象が殆ど残っていなかったのは、ある意味で当然のことだったのかも知れない。ここで歌われ、奏でられていた音楽は、須くその、まさにレビューを引き立たせるためのものに過ぎず、音楽自体が主張を持って訴えかけて来るという場面は、ついぞ見られなかったのだから。尤も、これには、出演者たちのあまりにお粗末な歌唱があったことも考慮しなければならないだろう。唯一、音楽的な主張を持ちうるはずの「メモリー」という曲が、今回の出演者によって、これほど稚拙な、およそ音楽とは程遠い表現に終始していなければ、あるいは印象も変わっていたかも知れないと思うと、残念な気もする。

 ところで、私たちが座っていたすぐ横の席に、まだ生まれて間もない赤ん坊を連れて座っていた夫婦がいたのには、驚いてしまった。確かに、劇団四季の案内を見ると、「3歳以上のお子さんは、入場券をお求め下さい」なり、「3歳未満のお子さんは、抱いても構いません」なりの断り書きがあり、決して入場を制限してはいないのだ。しかし、普段、音楽会で、小学生未満の子供が入場している場合、どれほど迷惑なものかを身を以て体験している私には、この一見寛容とも見える措置は、信じられないほどの暴挙に見える。そんな子供が、おとなしく見ていることなど、常識的には考えられないことなのだ。案の定、その子供もしばらくしたら大声を出し始めて、迷惑この上ない。しかも、こともあろうに、その母親はそんな事態に陥っても席を立とうとはしなかったのである。
 なんでも、この地方都市では、劇団四季の要請を受けて、このような公共施設を長期間独占しなくても済むように、専用の劇場の建設に向かって動き出したと聞く。しかし、多くの観客が集まるということは、この親子のように本当は劇場に来るべきではない人までも来てしまうという危険性もはらんでいることをも、念頭に置くべきだろう。さらに言及すべきは、本来入場は不可能なはずの未就学児までも強引に入場させようというこの劇団の体質ではないか。かつては確かに文化の担い手であったこの劇団が、その文化を大量消費の商品と考えるようになった時、それが力ずくで作り出す「感動」の、なんと虚しいことか。


当コラムの執筆者のペンネーム「吉田ヒレカツ」は、高名な音楽評論家吉田秀和氏からインスパイアされたものですが、コラムの内容も含めて、吉田氏ご本人とは何の関係もありません。

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