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音楽展望
吉田ヒレカツ

200511月5日  宮城県民会館

2005/11/7記)

 私が移り住んできたこの仙台という地は、東北地方では最大の規模を誇る都市であるにもかかわらず、残念なことにこと文化という面では、他の地方都市と比べて大きく見劣りしていると言わざるを得ないという状況なのである。これは、私が主にかかわっている音楽の分野で顕著に見られることなのであるが、まずもって演奏会場が誠にお粗末な様相を呈しているということは、この機会に声を大にして叫ぶ必要があるのではないかしらん。というのも、この都市は、文化に関してはさほど関心がないと思えるような他の都市でさえ所有している音楽専用のためのホールをただの一つも持っていないのである。これはにわかには信じがたいことなのかもしれない。いやしくも100万人以上の人口を誇る政令指定都市でそのようなことになっているなど、考え得ることではないからである。しかし、これは、この地に住んでいるものとしては恥ずかしさのあまり穴にでも入ってしまいたいところであるが、厳然たる事実なのである。もちろん、音楽専用のホールというものがどんなものであるかは、音楽を愛するものであれば誰しも分かっていることであろう。東京で言えばサントリーホールやオペラシティのコンサートホールのように、大編成のオーケストラを満足のいく環境で聴くことの出来る施設のことである。そのための最低条件としては、1000人以上の収容人員、パイプオルガンの設置、そして適度な残響時間などが挙げられるであろう。近隣の福島や盛岡、新潟といった、仙台よりはるかに小さな規模しかない都市でさえ、この条件を優に満たしてくれるホールを持っているというのに、それらを先導すべき立場にあるこの地にそのような施設がないという恥ずべき実態を、関係者はしっかり念頭に置くべきではないだろうか。

 そのような劣悪な文化環境のもとでは、このところ目に見えて大きなオーケストラの演奏会が減少してきているのは、いわば当然の報いであろう。外国のオーケストラが日本を訪れたとしても、満足のいく施設がないのであれば演奏する場所としては敬遠されてしまうのは自明の理である。かくして、それらのオーケストラは、仙台の上空を素通りして札幌などに飛んでいってしまうのである。
 このところ、私のこの欄がなかなか新しい批評で埋まらなかったというのには、そのような事情があったからなのである。気が付いてみれば1年近く何も書いてはいなかったではないか。これは、図らずもこの仙台という地の貧しいホール事情を露呈するものであったのだ。
 その、長い空白を埋めるべく向かったのは、チェコから訪れた歌劇場の引っ越し公演である。プラハ国立歌劇場というこの歌劇場は、プラハに数多く存在する歌劇場の一つ、古くは「新ドイツ劇場」と呼ばれていた1888年に完成されたものである。一時社会主義体制の中で「スメタナ劇場」と呼ばれたこともあったが、1989年の例のビロード革命とともに、現在の呼び名と体制に変わったものだと聞いている。この歌劇場が仙台を訪れるのは、2001年に次いで2度目となる。奇しくも、その前回の公演の際の演目も、今回と同じ「アイーダ」であり、このときの模様はすでにこの欄で公開されているから、読み比べてみるのも一興であろう。

 私が座った席は、3階のバルコニーである。舞台からは多少遠くなるので、歌い手の顔などはあまりはっきり見ることは出来ないが、オーケストラ・ピットの中の演奏者の様子などは極めて明瞭に見ることが出来る。本来、オペラに於いてはオーケストラは従属的なもので、例えばかのワーグナーのように完全にオーケストラを視界から隠してしまった作曲家もいるぐらいであるから、あるいは私の聴き方などは邪道と言われてしまうのかもしれないが、音楽をになう一員としてのそれぞれの演奏家の人格まで受け止めてみたいという欲求を持つことも、否定されるべきものではないだろう。オペラを物語として味わうと同時に、それを支える演奏家の仕事ぶりをしっかり堪能する、これほど得ることの多いものもないのではないだろうか。
 指揮者はジョルジョ・クローチという、喉薬のような名前の人であった。いや、喉薬はトローチであったかもしれない。余談であるが、当日の会場では、異常なほど咳き込む輩が多かったのには閉口したものだ。最も腹が立ったのは、同じバルコニーの中のいくつか席を隔てた先に座っていた幼女である。そもそも、そんな幼いものにオペラを聴かせようという親どもの神経が理解を超えているところなのだが、この幼女があたりをはばかることもなく、まるで絞り出すように執拗に咳き込んでいるその大音量といったら、このような場の常識をはるかに超えるものであった。おかげで、それに刺激されたのか、会場内の他の場所からも同様の咳の音が聞こえてくるという、誠に恥ずかしい状況が巻き起こってしまったのである。

 閑話休題。このクローチは、以前の時も来日していたのであったが、仙台ではもう1人のややランクの落ちる指揮者が指揮をしていたのであった。クローチの指揮ぶりは、なかなか颯爽としたもので、驚くことに全て暗譜で指揮をしていたのである。前回、私はまずオーケストラに関して苦言を呈していたはずである、しかし、今回ピットから聞こえてきた音は、非常に高い水準のものであったことは、正直言ってかなり意外なことであった。特に、かつては聴くに堪えなかった弦楽器の美しい響きはどうであろう。1人1人の音が見事に充実しているため、人数の少なさを感じさせないほどの芯のある響きが、そこからは聞こえてきたのである。第4幕になって、3本しかいないコントラバスのパートソロがあった時には、さすがに貧弱な思いをしたものだが、それ以外では、どんな時にもふくよかな味わいを失うことのなかった弦楽器の健闘は大いに讃えたいところである。このあたりも、指揮者の手腕が反映されていたのかもしれない。対して、木管楽器はやや技量が落ちていたのは残念であった。特にフルートとオーボエの首席奏者の平板な音楽性には、失望を禁じ得ないものがあった。クラリネットもやや異質な音楽を提供していたと感じられることが多かった。というのも、チェコのオーケストラの伝統なのであろうが、普通はまずかけることのないビブラートをたっぷりかけていたのである。序奏の部分で、サキソフォンのような異様な音が聞こえてきた為に、もしかしたらオーケストレーションを変えているのではないかという疑問も湧いてきたのだが、よく見回したら、その音の主がこのクラリネットだったのである。たびたび出てくる、この楽器によって奏でられるアイーダのモチーフも、不自然に飛び抜けて聞こえてきたのはあまり心地よいものではなかった。
 金管楽器も、ややおとなしく、一歩引いた感じで演奏していたのには、多少の歯がゆさも感じたものだ。せっかく指揮者が前に進めようとしているところに、打楽器も含めて乗り切れなかったのでは、という印象は拭うことは出来ない。
 しかし、大筋に於いては、クローチのグイグイ運ばれていく音楽は、見事な流れを作っていた。それは、第2幕の第2場、有名な「凱旋の場」では圧倒的な力となって迫ってきたものだ。特にダンスにおける小気味よいテンポ設定は、オーケストラも崩壊寸前の熱演となって、ほどよい緊張感を与えることに成功していた。

 歌手の中で特に光っていたのはラダメス役のヤン・ヴァチークであろう。その輝かしい声は、多少軽めの印象もあるが、独特の甘い魅力となって、心を打つものであった。後半には疲れが出てきたのか、やや鋭さには欠けてきたが、それでも終始ドラマをリードしていた大きな存在感は見逃せない。それに対してアイーダ役のマイダ・フンデリングは、声自体は悪くはないのだが、リズム的な弱さがやや露呈してしまっていた。特に、指揮者のテンポについて行けない鈍さに、やや感興をそがれることが多かったのではなかったか。その点では、アモナスロ役のマルティン・バールタは、軽快な足取りと伸びのある声で、余裕のある歌を楽しませてくれていた。今回の演出は、前回と同じペタル・セレムであり、基本的な設定は全く変わらないものであった。その演出ではまさに要と言っていいアムネリス役のガリア・イブラギモヴァも、尻上がりに声も出てきて、満足のいくものであった。
 しかし、合唱に関しては、前回同様不満は多かった。それほど少ない人数でもないというのに、群衆としての力がまるで伝わってこないのである。パート内の声はバラバラで、一つのものにまとまろうという意識がまるでなかったのが、そのように感じられた最大の要因だったのではないだろうか。この仙台での公演は、1ヶ月ほど続いた全国での旅の、殆ど最後のものであったから、疲労もたまっていたのであろうが、ちょっとプロとしては情けないものであったのは残念であった。

 そのような不満な点もなくはなかったが、おしなべて高い水準の公演であったことは事実である。音楽に加えて、舞台上の所作などもよどみのない、よく練られたものであったことも、良い印象に作用していたのであろう。合唱団員の1人1人が、自分の役を理解してきちんと芝居をしているという、いかにも常設の歌劇場の一員のような動きの積み重ねが、自然な流れを醸し出していたのであろう。オペラに於いては、これだけのものができればそれで充分満足はいくのである。この点に於いて、例えばミュージカルの分野での劇団四季のような完成度を求めるのは、そもそも酷なことなのかもしれない。何と言っても、演技的な訓練の密度からいって、ミュージカルはオペラの比ではないのであるから。
 終演後、そのミュージカルでしか起こりえないと思っていたスタンディング・オベーションが、クラシックのオペラの場で巻き起こったのには、いささか驚かされてしまった。感情を素直に表現できる聴衆が、この地でも育ってきた証なのであろうか。それは会場の出口に近い席で起こっていたことであったから、帰り支度をするために立ち上がっただけ、と考えられなくもないというあたりが、いささか失笑を買うところではあるのだが。


当コラムの執筆者のペンネーム「吉田ヒレカツ」は、高名な音楽評論家吉田秀和氏からインスパイアされたものですが、コラムの内容も含めて、吉田氏ご本人とは何の関係もありません。

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