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音楽展望
吉田ヒレカツ

2000/8/3

【仙台編】
 三善晃のオペラ「遠い帆」の再演を聴いてきた。このオペラは三善が仙台市からの委嘱を受けて作った、彼にしては最初のこのジャンルの作品である。
 私が最初にかの地でのこのような計画を伝え聞いた時には、かすかな危惧の念を抱かずにはいられなかった。なんでも、仙台市が開かれてから
400年のお祝いのために作られるということであったが、このような自治体主導のプロダクションで、いかにも底の浅いご当地のご都合主義に染まった駄作を数多く見てきたからである。しかも、このオペラの題材となった支倉常長という武士は、かの地では「はじめて海外に飛び出して、外国人と対等に渡り合った人物」と、なかば英雄化された存在として崇められているそうなのである。「支倉通り」という地名もあるそうだし、なんといっても「支倉焼」というお菓子まで作られているという具合なのだから。常長の実像を、たとえば遠藤周作の「侍」などという作品を通して知っている身であれば、このような能天気なキャラクターには到底ついていけないと思っていた。
 しかし、昨年の4月、この作品の初演を東京で見るに及んで、そのような老婆心は杞憂と化したのだった。作曲家として三善晃の名前が挙げられた時点で、矮小な地域エゴとは無縁の、真にグローバルな作品ができることはある程度予想されたことではあった。地方の安っぽい英雄ではなく、もっと普遍的な苦悩を持ち、運命に翻弄される男という人物設定も、三善の厳しい音楽で描かれるには格好のテーマだったのだ。
 初演後のこの作品の評価も高く、「サントリー音楽賞」などという大きな賞を授与されるに至って、この作品は仙台市の手を離れてまさに独り立ちを始めたのであった。
 今回の再演は、そのような動きを受けて計画されたものだと聞いている。私も、この作品が生まれた場所でどのように受け入れられているのか、という興味もあって、最初の日の公演を聴くために仙台までやってきたのである。

 会場の宮城県民会館は、昨年の会場に比べて2倍以上の広さがあるそうである。しかし、座席はほぼ満席。ご当地ならではの熱気がひしひしと伝わってくる。ステージのセットなどは初演とほぼ同じものが使われているようだ。このオペラの重要なモチーフである十字架をかたどったステージに区切られた4箇所の窪地にオーケストラが入るという配置も同じである。
 客席内に散らばった児童合唱がア・カペラで歌いだして、オペラが始まる。ここで、会場の広さが裏目に出てしまった。あまりに遠く離れたために、タイミングが合わないのである。しかし、オーケストラが入ってきて、演奏がステージ上で行われるようになると、そのような問題はなくなってくる。外山雄三の指揮はいかにも手馴れたもので、初演の際には見られなかった余裕すら感じられるものであった。テンポも心なしか速めに取っているようであるし、ここぞというときには思いっきり「タメ」を作っているように見受けられた。全体を見渡したメリハリがきいており、流れがとても自然だった。やはり、場数を踏んだ成果なのであろうか。(芸術は場数である)
 キャストは初演の際とほぼ同じだが、ただ一人、主人公の支倉常長の役が、勝部太から多田羅迪夫に代わっている。昨年の勝部が、特に外見に魅力的なものがあったので、この人選にはいささか納得がいかないものもあったのだが、そのような先入観は捨てなければならないことは、最初の声を聞いて自覚させられた。とても立派な声、その上に、苦悩した末に新たな境地にたどり着く主人公の描き方が、実によいのである。あとで関係者に聞いたところ、1箇所歌うのを出そこなったそうであるが、そんなものは些細な傷であろう。大体、聴いてて分かることはなかったのだし。その他の歌手も、初演の水準を立派に維持して、好演だった。さらに、音響処理というのであろうか、電気的に増幅がほどこされているとみえて、言葉が非常に明確に聞こえてくる。
 初演のときも好評だったのが、市民の参加による合唱だった。今回もさらに熟達というか、ひたむきさ、熱心さが伝わってくるものだった。オーケストラと張り合うようなところでは、さすがに響きに濁りが出るものの、合唱だけが聞こえてくる静かな部分での表現は圧巻だった。特に、「洗礼」の場面で歌われる合唱のきれいだったこと!
 大詰めでは、合唱団員が全員客席に降りて、観客を取り囲むようにして、さながらシアターピースの様相を呈すのだが、ここに至って、会場全体がひとつの響きに包み込まれているような、スペクタクルな効果が現実のものとなっていた。最初に述べたような音のずれというものは全く見られず、会場の大きさを精一杯使い切った壮大な音響空間が広がっていたのだ。

 最後にひとつだけ、明らかにミスだと分かったことを。その大詰めで、舞台上には船の帆柱が現れるのだが、それのロープがはずれ、帆布がはずれて骨格だけになって十字架が出現するという象徴的な演出に、本来はなるはずだった。ところが、何かの手違いで帆布が1枚残ってしまい、なんとも間抜けな十字架になってしまったのである。
 しかし、お腹いっぱい三善ワールドを体験した後では、そんなものは笑って無視できる。なんといっても音楽自体にはそんな些事をも乗り越える力強さがみなぎっていたのだから。

 8月の22日と23日には、あの東京文化会館という桧舞台で東京公演が行われるという。演奏時間は休憩なしの正味1時間10分。この凝縮された心地よい緊張感を味わえば、猛暑もしばししのげるのでは。

8/24追記

【東京編】
 このオペラを、私のお膝元の東京でやってくれるというので、とてつもない残暑の中を上野まで出かけることにした。文化会館のロビーに入ったとたん、心地よい冷房が効いていて、救われた思いがした。しかし、受付付近になにやら異様な一団がいると思ったら、羽織袴姿の男が紙袋を配っているではないか。「仙台藩士会」と書いた幟も見える。他の人は何のためらいもなく受け取っていたので、一応貰ってはみたが、これがなんとヴィニール袋に入った宮城県産米「ひとめぼれ」だったとは。こんな重たいものをもって帰らされるのかという思いとは別に、これにはいささかの怒りを禁じえなかった。こんなことを企んだ輩は、一体このオペラをなんと心得ているのであろうか。仙台名物「萩の月」ではあるまいし、これではまるで「うまいもの物産展」ではないか。日本のオペラ史に必ずや残るであろうというこの名作に、こんな田舎者根性丸出しの仕打ちはあんまりのことだ。
 しかし、そのような一部の地域エゴとは無関係に、演奏のほうはとても立派なものであった。何よりも、オーケストラの響きが素晴らしい。収容人員2200というこの東京文化会館では、先日の宮城県民会館のように音が濁ってしまうということはなく、金管楽器や打楽器がいくら大きな音を出しても、きちんとバランスを保って聞こえてくる。正規のオーケストラピットに収まっていた弦楽器も、とても艶やかな音色であった。
 合唱団も、仙台公演より一段と表現力が高まっていたようだ。音楽面ではもちろんのことだが、演技の面でも、今までのやや稚拙な面が払拭されて、きちんと一貫性のあるものに進歩していたと感じたのは、私だけではないはずだ。

 終演時に時計を見たら、正味1時間で終わってしまったようだ。仙台ではもう10分ほど余計にかかっていたと記憶しているが、別に指揮者が「落っこち」てスコアのページをとばしてしまったというような「事故」の形跡もなかったので、余程熱が入って思わずテンポが上がってしまったのであろう。
 今回の再演の成功を受けて、2002年には再々演の話も出ているようだ。そのようなことを聞くと、日本のオペラの古典として定着する日も近いのではないかと思えてくる。


当コラムの執筆者のペンネーム「吉田ヒレカツ」は、高名な音楽評論家吉田秀和氏からインスパイアされたものですが、コラムの内容も含めて、吉田氏ご本人とは何の関係もありません。

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