オスカルが歌う。本を探しながら歌を口ずさむ。
歌う時のオスカルの声は、普段とは違い少し高い。それでも女性にしては低い声。だがそれは間違っても男のそれではなく、いつもよりずっと柔らかくて優しい。もしあの頃のままの声ならば、話す時もきっとこんな感じだったろう。

アンドレはペンを動かすのをやめると、フッと微笑んだ。
あれは、おれの背が急に伸びてオスカルを追い越した頃だ。そして声。少しずつ声が変わると聞いていたのに、ある日突然声が掠れるとそのままあっという間だった。何もかもが突然で、それはおれだけでなく周囲も驚くほど性急で・・・

   もう、あのきれいな声で歌えないのか?

まだ幼さが残る青い瞳を不安そうに自分に向けた様子までもがはっきりと浮かんで、彼は思わずクスリと笑った。
何故オスカルの事になると、こんなにはっきりと思い出せるのだろう?
おれがもう元に戻らないと言ったら本当にがっがりして言ったのだったな。だが、そのあとすぐに慌てて、変わってしまった声を褒めたのだ。きっとおれが落ち込んだとでも思ったのだろう、それはもう一生懸命。それから・・・

   わたしはどんな声に変わるのかな?

アンドレは手に持ったままのペンの先を見つめた。
少しして、彼は何事もなかったようにペンを動かした。

オスカルは歌を口ずさんでいる。
その声は殺風景な執務室に不釣合いで、部屋に優しく響いた。アンドレはその声に顔を曇らせる。

オスカルに教えたのは、おばあちゃんだ。しかし、教えなくともじきに気づいたろう。士官学校の学友達も差こそあれ、おれと同じだ。それなのにオスカルだけが違うのだから。

紙の一番下まで書き終えるとアンドレはペンを置いた。書かれた内容を確認するとそれを書類箱の中へ入れ、新しい紙を取って目の前に置くと資料に目を通す。
ひとりだけ違うオスカル。
まるで違う、別のもの。あれはまるで・・・

アンドレは微笑むと目を伏せた。
どうしてオスカルの事だけはこんなにはっきりと思い出せるのだろう?
アンドレはどこか遠くを眺めるようなまなざしで、書類を見つめた。

月並みな表現だが、あの時のオスカルは・・・・あれは硬い緑の蕾が膨らんで花びらを出し惜しむように見せる、花が開く一歩手前のような感じだ。どんな花なのか分からない。だが少しずつ現れる花弁は咲いた時の花の美しさを感じさせて、早く確かめたいような、待ちきれないような・・・

アンドレは思わず苦笑した。
そうだった。あれはおれの人生で最初の試練だったぞ。まったくどうしようもないな,触れて確かめたいなどとは・・・

苦笑はすぐに自嘲に変わる。アンドレはペンが握られたままの手を黙って見つめた。
・・・どうしようもない。今もあの頃と何も変わってはいないのだ。

オスカルの声が部屋に響く。それは柔らかくて優しい、女性の声。
その声は彼の心にも響いて、アンドレはそっと目を伏せた。

いくら望んでも願っても、叶わぬものは叶わぬのだ。そしてそれは、おれだけではない。
またしてもオスカルの声が響いたので、彼の胸は痛んだ。
こんなに優しい声なのに・・・・
いや、だからこそ変えなければならなかった。身体はどうしようもなかったから、声だけでも男のそれに近づけようとするしかなかったのだ。
アンドレはペンを取るとインクつけて、紙の上に走らせた。

最初にオスカルが試みたのは、大声を出して声を潰す方法だった。
だが、少しでも声が掠れようものなら薬だ医者だと皆に騒ぎ立てられ、挙句の果てに絶対安静では効果の上がるはずもなく・・・それは失敗に終わった。だからオスカルは別の方法を探さなければならず、次にオスカルが探し出した方法は・・・
アンドレは動かしていたペン先を思わず止めると、眉を顰める。
薬で声を潰そうなんて!今思い出してもゾッとする。

オスカルの意思は堅く、アンドレの忠告が受け入れられる余地はなかった。
思い余ったアンドレは、オスカルから取り上げるとそれを一気に飲み干した。
屋敷中が大騒ぎになり、医者が呼ばれ、彼は祖母からこれ以上ないくらいの教育的指導 (それは医者から「2、3日すれば元気になりますよ」と診断が下されたあとだったが) と事の追求が容赦なくなされた。しかし彼はそれがオスカルが手に入れたものであることは、とうとう白状しなかった。

アンドレはほっとした表情を浮かべた。だが、彼の表情はすぐにまた曇る。
薬を使うのは諦めてくれた。だがオスカルは、声を変えるのは諦めなかったのだ。

彼は手に持っていたペンを置くと、聞こえないくらい小さなため息をついた。
それに、今度はおれも手を貸したのだからどうしようもないが・・・

元々オスカルの声は高くはなかった。それをさらに抑えこんで話す。そうする事によって声は少しだけ低く聞こえた。 それだけではない、言葉使いや話し方の抑揚に話法。出来うる限りの努力をしてオスカルは自分の声を変えようとした。自分の置かれた立場に相応しいものに。

そしてオスカルは血のにじむような努力の末、とうとう手に入れた。
その声は、彼女のおかれた立場に地位に相応しいものだったが、それでもやはり男の声ではなく、かといって女の声でもなかった。
性別のない、よく響く不思議な低い声。オスカル以外の誰も持てない声、オスカルだけの声だ。
アンドレはその声が好きだった。
オスカルの努力を知るからこそ、彼は一層その声を愛した。

 オスカルが歌う。
普段の声も、そして歌う時もアンドレにとって愛しい人の声にかわりがない。しかし歌う時の声は彼にとって特別だった。何故なら、オスカルは歌わない。こうして口ずさむことすら稀で、ましてや人前で歌うなど皆無だから。

柔らかな優しい声を聴きながらアンドレは考える。
多分、おれ以外の誰もオスカルの歌声を聴いた事などないだろう。それはたかが歌で、だけど・・・

アンドレはオスカルの歌声に耳を澄ます。
その優しい柔らかい声は、二人きりの部屋を優しく包んだ。
この声を聴けるのはおれだけだ。おれだけのものだ。

今オスカルが歌っているのは、先日コメディ・フランセーズで見た歌劇の中のアリアの一つだった。それは美しい旋律と恋心を率直に伝える歌詞が印象に残る情緒的な曲だった。その所為もあるのか、オスカルの歌声はいつもよりもっと甘くて切なくて。

アンドレは机の上の紙に向かって、オスカルに気づかれぬようそっと溜息をついた。
それから仕事に集中しようと目の前の紙を睨んでペンを進めようとしたが、声は相変わらず彼に優しく甘く囁き続けたので、アンドレはとうとう諦めて顔を上げるとオスカルを見た。

オスカルは相変わらず歌を口ずさみながら本を探していた。
それに合わせるかのように彼女のばら色の指先が本の背表紙をそっとなぞるように動く。まるでその指までもが相手に恋心を伝えようとしているかのように。

心の奥の奥にしまい込んだはずの言葉が思わず溢れ出そうになって、慌ててアンドレは自分自身に言い聞かせる。
歌はただの歌で、おれの為などではないのだぞ。

その途端、胸が締め付けられるように痛んで、アンドレはオスカルから急いで視線を逸らした。そして小さく溜息を一つ。
いつもそうだ。2人きりの時、幸せと不幸は隣り合わせで・・・あっという間にすり替わってしまう。

アンドレはもう見るのをやめて紙に向かうとペンを動かそうとして気づいた。
ペンはいつのまにか紙に押し付けられて、紙にインクのしみを作っていた。

彼はペンを置くと、その紙をくしゃくしゃと丸めて屑籠に放り込んだ。それから新しい紙を目の前に置いてペンを取るとペン先をインク壷に付けながら耳を澄ませた。だが、歌は聞こえなかった。

アンドレはペンを走らせながら待った。しかし、いくら待っても優しい声は聞こえてはこなかった。
彼は迷ったが、もう一度オスカルを見た。

探していた本が見つかったようで、オスカルはそれを開いて内容を熱心に確かめている。アンドレは名残惜しげに彼女を見つめたが、歌はもう歌われる気配はなかった。
彼は仕方なく視線を紙に戻すと、再び紙の上にペンを走らせた。

*元は pretended story 1にある『The sweetest voice』の挿入話でしたが、色々書きたいことありましてこちらに独立させました。これからも修正がかなり入ると思います。すみません。