もう無理だ。
薬の所為で2時間も眠ってしまったのだ。いくらなんでももう眠れない。

 アンドレは天井を見た。
3日間も見続けた天井に変わった所など見つけ出せなかったが他に何か出来る事もなく、彼は天井を見つめながらぼんやりと考えた。

 あと3、4時間もすれば同僚達も仕事が終わる。
そうすればクロード達から何か面白い話を聞けるかもしれない。きっと少しは気も紛れるだろう。
それとも逆に・・・・・
アンドレは思わず目を伏せた。
時間があるのは考えものだ。要らぬ事ばかり考える。

 アンドレは体の向きを変えようとして動いた。するといきなり胸にズシリとした痛みが走る。
 「くそっ!」
小さく悪態をついて、胸の少し下のあたりを手で押さえる。
つい忘れてしまう。肋骨が何本か折れているから動く際は注意をするよう先生から言われているのに。

 彼はそのままの姿勢で痛みがやわらぐのをじっと待った。暫くすると痛みは脈打つような鈍いものに代わった。
アンドレはほっとして、今度は何か別の・・・もっと建設的な事柄について考えようとした。
怪我が治ってからの仕事、それから社会情勢、それから・・・・

彼は懸命に考えた。
しかしいくら考えても最後に行き着くのは同じ事柄で、とうとうアンドレは 「どうしようもないな。」 と自嘲するように呟いた。
結局の所、いくら考えないようにしても考える事はいつも同じなのだ。
アンドレは 「ほう」 と、息を付いた。

 今日は・・・少しは大人しくしていたのだろうか?
捻挫した右足の具合はどうだろう?食事を持ってきてくれたマリーの話だとやっと腫れが引いてきたということだったが。頭は痛まないだろうか?それから額の傷は?痕など残らないといいが。化膿しかけている手の傷はどうだろう?あれはきっとすぐ動かすから直りがよくないのだ。それから今は何をしているのだろう?
今の時間は・・・
アンドレは思わず顔をしかめた。

 どうせ屋敷に来ているはずだ。
この3日間朝と夕、あの男は必ずオスカルの元へ見舞いに訪れるのだから。

 手で押さえている、折れた骨のある胸のあたりがひどく痛む。
動いたから・・・収まっていた痛みがぶり返してしまった。今日はもう鎮痛薬は使えないのに。
鎮痛薬は1日に1回だけ、それなのに朝使ってしまった。

 “朝食を寝台で取りたくないとごねられたオスカル様をね、ジェローデル様が抱きかかえて運ばれたのよ!お似合いだったのよ、アンドレ

 胸が酷く痛んだ。
やはり朝は我慢すべきだったのだ。
アンドレは後悔した。

 その時、急に部屋が暗くなった。
明かりに目をやると、ろうそくの蝋はほとんどなく芯に炎が申しわけ程度に小さく燈っている。
あとでアンナが新しいのを持って来ると言っていたのをアンドレは思い出した。

 アンドレは消えそうな炎を見つめた。
それはアンドレが見つめている間にもどんどん小さくなって、一瞬明るくなったかと思うとすうっと消えた。
部屋の中はぼんやりと暗く灰色がかって、何一つはっきりと見えるものはなくなった。
まだ宵の口。真っ暗闇ではない、探せばどこかに明かりの射す場所がありそうな薄闇・・・
だが、何も見つけられない。光は消えてしまったのだ。

 それでもアンドレは目を凝らした。
しかし薄闇は時間と共にますます深くなるばかりで、アンドレはしまいに諦めたように溜息をついた。

 抗ったところでどうにもなりはしない。いずれこれが、おれの目に映るすべてになる。
もっと先か、少し先か、それともまもなくか?
早い方が楽なのかもしれない。
失うなら・・・・・・・・

 “だんな様は、すぐにでもオスカル様を退役させてジェローデル様と結婚を・・・・

 アンドレは痛むのも構わず寝返りを打った。
案の定、胸に激痛が走り・・・手で胸を押さえてなんとか痛みを和らげようとしたが、少しも役には立たなかった。

 畜生!どうして要らぬ事ばかりを考える?
アンドレは必死で足掻いたが痛みは抑え込めなかった。
あっという間に、痛みが身体全部を支配した。

 「オスカル、オスカル、オスカル、オスカル・・・・」

 アンドレは何度も名前を呼んだ。
しかし答える人は無く、それは闇の中に溶け込むように消えてしまった。

 ドアがノックされて扉が開いて光が差し込んだ。
扉はすぐに閉じられたが、部屋へ入った人物の持たれた明かりがアンドレの部屋を明るく照らした。

 「ごめんねアンドレ。明かりがもうすぐなくなるのは分かっていたのだけれど、オスカル様が・・・アンドレ?アンドレどうしたの?大丈夫?」
アンナは急いで明かりを寝台の脇に置くと、胸を手で苦しそうに押さえるアンドレを心配そうに覗き込んだ。
 「先生を呼ぶ?」
アンドレは寝台の中からアンナを見上げると無理をして笑った。
 「大丈夫だよ。胸の事をすっかり忘れて・・・寝返りをうとうとして・・・このざまだ。それよりオスカルが?何かあったのか?」
アンドレの言葉にアンナはほっとしたように微笑んだ。
 「オスカル様はそれはもう!お元気よ。おかげで、なだめるのに苦労するのよ。」
その言葉に思わずアンドレは苦笑した。
 「相変わらず大人しく寝ていてはくれないのだな。まったく!子供と同じだから・・・おばあちゃんもカリカリしているのだろう?」
 「お察しの通りよ。ホント!こういう時こそあんたの出番なのだけど・・・だけど本当に大丈夫?アンドレ。」
アンドレは安心させようとしてもう一度アンナに微笑んだ。

 その時扉がノックされ、それから少しだけ扉が開けられた。
開けられた隙間からオスカル付き侍女のマリーが顔を出し、部屋の中をのぞきこんだ。
彼女はアンナの姿を認めると、困り果てた様子で言った。
 「アンナ、あのちょっと・・・」

 アンナはアンドレに肩をすくめるような仕草をしてから、年若い侍女の側へ行った。
 「ばあやさんが奥様の用でいなくなったら・・・その・・・あたし達では・・・・」
マリーはそう言って廊下に視線を落とした。
アンナは詳しい内容を聞き出そうとしたが、彼女の視線の先にあるものを廊下に見とめると諦めたように溜息を付いた。アンナはアンドレの方を振り返ると苦笑した。
 「アンドレ悪いけれど、暫くお願いね。」

 アンドレは怪訝そうな顔をしてアンナを見つめたが、彼女はそれ以上何も言わず部屋を出た。
そして代わりに右足を少し引きずるようにして背の高い人物が部屋に入ると、扉は外から閉められた。

 身動きの取れない状態でなければ、いとしさのあまりきっと抱きしめていただろう。
かわりに自分ができる一番の笑顔をアンドレは3日間焦がれ続けた相手に向けた。

 オスカルは、頭の包帯や手の甲に巻かれた包帯が痛々しかったが顔色はそれほど悪くはなく、寝台の側にある椅子に座るとアンドレを悲しげに見おろした。

 「・・・酷い顔色だ。まだかなり痛むのだな。」
アンドレは胸にやっていた手を動かすと笑いながら答えた。
 「大丈夫だよ。大した事は無い。それよりもおまえの足は・・・」
 「ただの捻挫だ。」
 「だがまだ動き回らない方がいい。無理すると治りが遅くなるし、後々痛みが続くから。それから・・・・あまり皆を困らせるんじゃない。おまえが大人しく床についていないと・・・」
 「・・・3日も大人しくしていた。」
 「退屈なのは分かるが、それでももう少し辛抱すればいくらでも・・・・」
 「もう今日で3日もだ!おまえは違うのか!」
オスカルは叫んだ。
アンドレは驚いてオスカルを見つめた。
 「オスカル・・・・」
 「3日もだぞ!わたしは3日もおまえの顔を見ていなかったのだぞ。」
オスカルは俯いた。
 「おまえは違うのか?」

 「・・・・会いたかったよ。」

 掠れる声でアンドレは一言だけ答えた。
それを聞いてオスカルは嬉しそうに微笑んだ。
 「わたしもだアンドレ。3日も会わずにいるなどと・・・・こんな事は今まで一度もなかったからな。」
 「・・・そうだな。」
アンドレは答えた。それから不意に何か思い出したのか苦笑した。それを見て、オスカルは怪訝そうに尋ねた。
 「どうかしたのか、アンドレ。」
 「24年間もずっと一緒にいたのだと思ってな。」
それを聞いてオスカルも苦笑した。
 「そんなになるか?・・・確かにそうだ。これでは仕方ないな。24年もだぞアンドレ。わたし達にとっては、離れている事が不自然だぞ。」
 「・・・そうだな、オスカル。」
それでもいつか、その日は来るのだ。だが・・・おれはもう、決めたのだ。

 「痛むのか?」
アンドレはいつの間にか胸を押さえているのに気づき、手を離すと不安げな様子のオスカルに微笑んだ。
 「少しだけな、アバラが折れているから・・・こんなものだろう。」
オスカルはほっとしたような顔をしてアンドレを見つめた。
そして不意に顔を曇らせると、寝台の脇の明かりに目をやった。
その様子にアンドレも明かりを見た。

 「・・・・アンドレ。」
 「なんだ。」
 「近いうちに父上とジェローデルに話をする。」
アンドレはオスカルを見つめた。
それから視線を逸らすと、また同じように明かりに目をやる。
 「そう・・・か。」
 「父上は・・・分かってくださると思う。」
明かりを見つめたままオスカルは言った。
 「・・・ああ。」
胸を押さえてアンドレは答えた。

 廊下からなにやら忙しげに話す人々の声が聞こえて来た。
そしてそれからバタバタと恐ろしく小走りで走るような足音が近づいて来るのも。
2人は顔を見合わせた。

 「・・・・カンカンか?」
オスカルが不機嫌な様子で尋ねた。
 「そりゃそうだろう。」
アンドレは答えた。
そして扉はノックもされず、にいきなり全開した。

 「お嬢様!こんな所で何をしていらっしゃるのですか!!!」

 オスカルは、背後に自分付きの侍女達を引き連れて仁王立ちするばあやを見て苦笑いしながら言い返した。
 「ばあや、わたしはもう3日も大人しくしていたのだぞ?少しぐらい動き回ってもよいのではないか。」
 「何が3日もですか!先生は6日間とおっしゃられたのですよ!」
 「先生はそのあたりも計算済みだ。わたしの性格など知り尽くされているからな。」
オスカルはすまして答えた。これを聞いてばあやは声を荒げた。
 「たとえそうでも!先生がおっしゃられた通り大人しくお休みになられるのが病人の務めでございます!すぐにお部屋へお戻りくださいませ!アンドレ!」
アンドレは寝台の中から祖母に笑って見せた。
ばあやは舌打ちすると、後を振り返って廊下で控えている侍女の一人に声を掛けた。

 「マリー!」
 「な、なんですか?ばあやさん。」
 「腕っ節の強そうなのを2人ばかり呼んでおいで!オスカル様をお部屋までお運びするからね。」
 「歩いて戻れる!」
オスカルは叫んだ。
 「なりません!」
 「大袈裟だぞ。」
 「大袈裟になさったのはどなたでございます?この椅子ごと運ばせます!」
ばあやはオスカルを睨んだ。
オスカルもばあやを睨んだが、彼女は少しも動じなかった。
オスカルは諦めたように溜息をついた。
 「分かったよ、ばあや。」
ばあやは、マリーに向かって早く行っておいでと合図すると扉を閉めて二人の側へやって来た。

 「まったく!ジェローデル様を気分が悪いと追い返しておいて、これは一体どういうことでございますか!」
 「あの時は確かに気分が悪かったのだ。」
オスカルは平然と答えた。
 「で?その後気分がよくなられてお散歩でございますか?」
 「・・・もう限界だった。」
 「オスカル様!いい加減になさいませ!!!」
 「ばあや、3日は堪える。2日が限度だ!」
 「何が2日が限度ですか!あと3日、何があっても大人しくお休みしていただきます!ええ、絶対でございますとも!」
 「無理だよ。」
 「何が無理なものですか!」
 「無理だよ、ばあや。先程などは名前を呼ばれる気までして居ても立ってもいられなかった。わたしにはもうこれ以上耐えられない。」

 ばあやは怪訝そうにオスカルを見つめたが、彼女はもう何も言わず黙って微笑むだけだった。
ばあやは仕方なく、孫に尋ねようと寝台を見た。
しかし、アンドレは胸を押さえて・・・かなり痛むのだろう、何か尋ねられる状態でないのが見て取れた。
オスカルもそれに気づき、心配そうにアンドレをのぞき込んだ。
アンドレは“大丈夫だよ”というように無理に笑って見せた。
ばあやは寝台に近づくと布団を掛け直して孫の顔を見つめた。
アンドレは 「ありがとう」 と小さく一言だけ答えた。

 部屋にマリーが2人の男を連れて戻って来た。
ばあやは彼らに椅子ごとオスカルを部屋から運び出すよう指示をした。
その隙にオスカルはアンドレの方を見ると、ばあやに見つからないように “また明日” と、声にせず口だけを動かしてから笑いかけた。
アンドレはそれを読み取って困ったような嬉しいような表情をした。

 「オスカル様、それでは持ち上げますので。」
男達は言った。
 「ああ、分かった。ではアンドレ。」
オスカルがアンドレに微笑んで声をかけるのを見計らって男達は椅子を持ち上げた。 扉が開けられて、ばあやを先頭に一同は部屋を出た。
そして扉が閉められて、部屋にはアンドレだけが残された。

 アンドレは暫くの間、黙って扉を見つめていた。
それから胸を手で押さえながら注意して体を動かすと、アンドレは枕に顔を埋めた。