3.some years ahead ドライヤー

彼女は鏡を見て微笑んだ。
いつ見ても完璧だ。
それから、自分の愛する夫の頬にキスをして・・・とびっきりの笑顔で笑う。
夫はそんな妻の様子にやはりとびっきりの笑顔を返した。
そして、彼も妻と同じように頬にキスをした。
・・・それだけである。
本音を言えば他にもいっぱいキスしてそれから他にも色々したいところではあるが、重々承知する夫は間違ってもそんなことはしない。
髪を直した後なのだ。
髪をぐちゃぐちゃにするような事をしたら・・・どんな恐ろしい事になるか!
それに、彼女にはこれからしなければならない、朝一番の大切な仕事が待っているのだ。


朝食も終わり、その後の片付けも終わり・・・・彼女は待っていた。
「そろそろだろうか?」
彼女は時計を見ながら言った。
「あと10分ぐらい後だろう。」
夫は答えた。
10分後、その人物は部屋へやって来た。

部屋に入ってきたのは、少年であった。
年は11歳ぐらい、きれいな子であった。
そりゃもう!見事なくらいの美少年であった。
目は彼女と同じ真っ青。それだけではない、顔立ちもよく似て・・・・もとい!瓜二つである。
そして、この少年の髪は・・・きれいな黒であった。
父親とそっくりの黒い髪。
色だけは・・・・・

少年は不機嫌であった。
毎朝の事であるが不機嫌である。
本日、最初に口を開いたのは母親である彼女だった。
「今日はなかなかうまくできたじゃないか?」
彼女は息子を見て驚いた様子で言った。
「全然。」
少年は機嫌の悪い声で答えた。
「でも、毎日見てるからわかる。少しずつうまくなってきてる。本当にがんばってるな。うん。」
父親は優しそうな笑顔を息子に向けた。
「そう・・・かな?」
「ああ勿論。」母親も笑った。
「ほんと?」
「ああ!その通り!」
父親も言った。
「昨日より・・・少しだけ・・・・うまく出来たような気はしたんだ。」
少年ははちょっと恥ずかしそうに俯いて返事をした。
「だんだんうまくなるよ。あとは・・・・仕上げを手伝ってもらえばいいな。」
父親は息子に言った。


「他は死ぬ気で我慢するから、髪だけは父さんに似たかった。」
「色はそっくりだぞ。」
「色だけはね。不幸中の幸いってやつ。」
「・・・・・そんなに気に入らないか?」
「おれが喜んでいるとでも?母さん。」
彼女はドライヤーを止めた。
「やめるか?」
「・・・・・」
「どうする?」
「・・・・・お願いします。」
「それでいい。」


ああ、まったく!朝からこれだ!
開けっぱなしのドアの外から聞こえてくる二人の怒鳴り声に、
せめて性格だけでもおれに似て欲しかったんだが・・・・
と父親は思う。
そんな時、彼はこう考える事にしている。
男の子だっただけでよしとすべきだ。と
そりゃそうだろう。
これで母親そっくりの容姿で、なおかつ性格まで同じの女の子なら?
とてもじゃないが、彼一人で2人の面倒は見きれないだろう。


そろそろ終わったのだろうか?
そうではない。
何やら深刻な・・・・・

「もう・・・嫌なんだ。毎日1時間・・・・」
息子はひどく悲しげな様子で母を見た。
「お前・・・・」
「このまま一生この髪と付き合う事を考えるとぞっとする・・・・」
彼は俯いた。
そこには、いつもの強気な様子はなかった。
「・・・その気持ちは、よくわかる。」
誰よりもその苦悩を理解する母親は、これまでの自身の苦闘を思い起こしてしんみりと言った。
「・・・・・母さん。」
「なんだ?」
「・・・・・いつぐらいから・・・・・うまく出来るように?」
「・・・・・さあ、いつだったか・・・・・」
母親は前髪をブラシで直した。
「出来たぞ。」
「ありがとう。」
息子は言った。
母親は息子の元気のない様子をじっと見つめていた。
「・・・・心配する事はない。」
母親は息子に向かって言った。
その言葉に息子は彼女を睨みつけた。
「いつかは出来るようになる?そんなの気休めだよ!」
「そうじゃない。最悪・・・・一生うまく出来なくても大丈夫だ。」
「どういう事?」
「いや・・・今思ったんだが・・・・」
彼女はそこでえへんと一つ咳払いをした。
「つまり!とても優しい人を妻にすればいいのだ。」
「母さん・・・・何が言いたいのかさっぱりわからない。」
息子は言った。
「だから、毎朝髪を直してくれる人と結婚すればいいのだ。」
彼は呆れたように母親を見た。
そして口を開いて何か言おうしたがやめて・・・暫く考え込んだ。
「・・・・名案かもしれない。」
「だろう。」
母親は言った。
「・・・・母さん!」
「な、なんだ?」
突然、自分の名前を叫んだ息子に驚いて彼女は聞いた。
「今、本当に名案だと思ったろう?」
「ああ、まあ・・・・そうだな。」
「父さんにやらせるつもりだろう?」
息子は冷ややかに言った。
「な・・・」
「父さんに言ってくる!」
そう言うやいなや息子は部屋を飛び出した。
「ちょっと待て!おい!」
母親は慌てて後を追いかけた。

「絶対!やっちゃ駄目だからな!これ以上甘やかすんじゃないぞ!」
部屋へ血相変えて飛び込んできた息子の言葉の意味がわからず父親は聞き返した。
「何のことだ?一体?」
「父さんにさせるつもりなんだぞ!」
「えっ?」
「毎朝髪直すの!絶対、手伝ってなんかやっちゃダメだからな!約束だからな!」
「あ、ああ、わかったよ。それより時間はいいのか?」
父親は息子に聞いた。
「あっ!まずい!」
時計を見ると、息子は慌てて自分の部屋へかばんを取りに走っていった。
父親はそれを見送ってから妻の顔を見た。
「何があったんだ?」
「・・・・髪の事でずっとうまく出来なかったら?と、ひどく落ち込んだから・・・・」
「それで?」
「慰めようとしたら、思わぬ方向へ・・・」
夫は妻を見つめた。
「おまえ・・・何を言ったんだ?」
妻は夫から目をそらした。
「・・・・手伝ってくれるようなやさしい人と結婚すればいいと・・・・」
「おまえ・・・・」
「だって!そうだろう!」
妻は叫んだ。
「おまえ・・・・おまえは・・・・・」
夫は最初、なんとか我慢しようとした。
妻が怒るのがわかっていたから。
しかし、それは無理だったようである。
そして・・・・

「笑うな!」
妻は真っ赤になって・・・・笑い転げる夫を怒鳴りつけた。
しかし効き目はまったくなかった。
「だって・・・おまえ・・・それは、いつもおれが・・・くっくっく・・・やってやってるのは・・・・くっくっく・・内緒だとおまえが・・・くっくっく・・自分から・・話すなんて・・・・・・・」
「・・・・・・・・」
「腹が・・・・・くっくっく・・腹が・・・・痛い・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」

「それじゃあ、おれ行って来るから・・・・・ど、どうしたの?」
父親の様子に、部屋へやって来た息子は驚いて聞いた。
「くっくっく・・・・・なんでもないんだ・・・き、気をつけて・・・くっくっく・・・」
「父さん?母さんこれは一体・・・」
「ほおっておけばいい。」
息子の問いに、母親は不機嫌な表情で答えた。
「う・・・ん。それじゃ行って来ます。」
「ああ、気をつけて行っておいで。」
彼女は言った。
そして息子は出かけた。

夫はまだ笑い続けていた。
妻の怒りもそろそろ頂点に達したようだ。
というか、妻は夫のように気の長いほうではないので、息子が出て行くまで我慢していただけであるが・・・・・
妻は、手に持っていたブラシを思い切り投げつけた。
いつもならうまく避けるはずの夫は、今日ばかりは避けきれずブラシは見事に頭に命中した。

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