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ジャン・クロード・エミュは生まれも育ちもフランスのそれも生粋のパリジャンである。
日本文化を学ぶ為に来日し、語学スクールのフランス語の教師というこの職に就いて早や3年、その間色々な生徒を教えてきた。しかしながらこんな抗議と要求をされたのは初めてである。
ジャンは目の前の少年を見た。少年の目は、彼の決意と自分の要求が受け入れられるかどうかの不安さを表していたが、それでもまっすぐにジャンを見上げていた。
最初の1ヶ月、彼はジャンの第一印象の通りおとなしくて生真面目な性格を遺憾なく発揮してレッスンをこなしていった。とはいうものの、子供のレッスン内容というのは簡単な挨拶やゲームしながら単語を覚えるといったお遊びなので、彼のように真剣に臨む必要はなかったのだが。
そう、彼は真剣だった。一言一句聞き漏らすまいとするかのように。そしてその理由は今日、少年からレッスン内容について異議を唱えられた2ヶ月目の最初のレッスンでようやく分かったのである。
ジャンは少年を見ながら考えた。フランス語を習い始めた目的は彼の話からよく分かった。正当な理由、これほど明確で分かりやすい理由はないだろう。そもそも我が言葉は愛を語るために存在するようなものなのだ。
それに!たとえ子供とはいえ日本人にしては珍しくまともな考えじゃないか。
フランス語の教師は少年を見て笑った。
「返事はウィだよ。キミの天使にキミの気持ちを話せるように、すぐに使えるフランス語を教えよう。」



1年後・・・・
「やめさせるわ。」
冴子は夫の惣一郎にきっぱりと言った。それを聞いて惣一郎は苦笑した。
「でもね冴子さん、勇はすごく楽しみにして通ってるよ。」
「それがどうかしたの?やめさせます、絶対にやめさせます!」
「いや、だからね・・・」
惣一郎の言葉などまるで聞かずに冴子は叫んだ。
「あの教師も教師よ!何が“年齢など関係ありません”よ!まだあの子は9歳になったばかりなのよ!」
「でもね、頼み込んだのは勇だよ。それにやはり子供が喜んで、それこそ楽しみにしてるのを無理やりやめさせるのは・・・」
「私には母親としての責任があるわ!」
「え〜と、どんなかな?」
冴子は夫を睨みつけた。
「あれが普通だと思うの?」
「あんなものだよ、冴子さん。」
それを聞いて冴子は叫んだ。
「何があんなものよ!!!!」
「さ、冴子さん!落ち着いて!冷静にだよ、冷静に!勇は普通の子とはちょっとだけ違うんだ。だから・・・・」
「何がちょっとだけよ!大体!!普通はね、“お母さんが一番好き”って言うのよ!どこの家でも!それなのに!うちは!なによ、あれは!ひどいわ!最低よ!」
冴子は怒りに震えながら叫んだ。
「でもね冴子さん、いずれは好きな子が出来る。そうなればその娘が一番なのだし、少しぐらい早くたって・・・・」
「少し?何が少しよ!早すぎるわよ!それに今思い出したけど、生まれた時から勇は母親の私よりオスカルがよかったわ!」
「いや、それは違うよ。僕が思うに多分2歳くらいからだよ・・・うん。」
夫は考え込みながら答えた。
「2歳?何が2歳よ!0歳も1歳も2歳も同じよ!私はね!自分の産んだ息子に愛されていないのよ!」
冴子は惣一郎を睨みつけた。しかし夫は動じもせず 「だけど冴子さん、ぼくは君を愛してるよ。それじゃ駄目かな?」と言って妻に微笑んだ。
しかし冴子は平然と 「そんな当たり前じゃない!私だって愛してるんだから。それとこれとは話は別!私ほど不幸な母親はいないわ。いいえ!これは悲劇よ!」と言うと、もう一度惣一郎を睨みつけた。
彼は困り果てた様子で冴子を見つめた。それから少し考え込んで話を変えた
「いや〜それにしてもすごいよね。ぼくは感心した。あそこまで上達するとは思ってもみなかったよ。」
冴子は少しだけ考え込んで「確かにそれはそうだけど・・・まだ数さえまともに数えられないわ。」と、答えた。
「だけど勇のあの努力はすごいよ。このままいくとあと3年もすれば日常会話はマスターするな、うん。冴子さん、英語も習わしてみようか?もしかしたらこちらもすごく早く上達するかも知れないよ?どう?」
「英語は賛成よ。」
冴子の言葉に惣一郎は嬉しそうに笑った。
「よし!それなら善は急げだ。どこがいいかな?英語はたしか・・・」
「でもフランス語はやめさせる。」
「冴子さん!」
「やめさせます!もう十分、絶対にやめさせるわ!」
「だけど勇はやめる気など毛頭ない。それどころか・・・」
「これ以上何も覚えて欲しくないのよ!まだ9歳の子供なのよ!それがあの言葉!あれは・・・・」
「いや、あれはまだおとなしい方だよ。だって昔はあれが普通で、時にはぼくですら赤面するようなもっと熱烈な・・・冴子さん、あの・・・冴子さん、ひょっとして、ものすごく・・・怒って・・・いる?かな?」
「もっと熱烈?今よりも?もう沢山!もう結構!!今ですら絵に向かって・・・Ma chere Oscar(愛しいオスカル)とか Je n'aime(愛している)とかそれから・・・・」
冴子は思い出して身震いした。
「もういいわ、もういい!いやよ!思い出したくもない!やめさせます!誰がなんと言おうと!あなたがいくら反対しようが!勇が泣こうが!ハンストしようが!絶対やめさせるわ!絶対よ!絶対ですからね!」




こんな息子なら・・・母親は不幸でしょう(^_^;)。それでも絶対やめないと勇君は頑張ったようでフランス語は習い続けました。そしてある用途に使う語彙だけが増えていったとか・・・・

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