気になることば 第六回

「嫌煙権」

 「けんえんけん」とは、お世辞にも耳に心地よい音韻ではない。演劇同好会のメンバーは「県演研」を連想なさるであろうし、全国数千万の愛猫家の方々は「嫌犬権」の聞き違えかと思われるだろう。全国数百万の愛犬家の皆様にとっては「嫌猿権」かも知れない。

不特定多数の面前で喫煙して憚らない輩の存在が提起する問題は、大きく分けて3つの側面を持つ。

第一に、受動喫煙させられる人の健康侵害の問題がある。受動喫煙の健康被害が既に科学的に立証されている以上、喫煙は受動喫煙者に傷害を加える行為であって、刑法上の犯罪に相当することは明らかである。従って、「嫌煙権」などという新たな権利をでっち上げるに当たらない。

第二に、喫煙者が喫煙の結果として早死するのは当人の勝手だから改めて問題とするに足らぬが、喫煙の結果として疾病に罹患し、その医療費を健康保険が負担させられている事実は重大な問題である。つまり、自ら好んでリスクに曝露し、そのコストを非喫煙者にも転嫁しようというのは、保険(insurance)の原則に対する真っ向からの挑戦であり、詐欺行為と呼ぶには控えめに過ぎよう。このような行為は、善良な被保険者が悪質な被保険者を保険組合から追放することによって不当な経済的損失を免れるための正当な要件を構成するというべきであり、改めて嫌煙権云々を持ち出すまでもない。

第三に、煙なるものは健康に害があろうと無かろうと文字通り煙たくて不快なものであることは一般に誰でも承知しているはずである。にもかかわらず、「吸ってもいいですか」と前もって一言、周囲の人間を気遣うことすらできない、というマナー上の問題がある。道徳の領域においては権利や義務という概念は存在場所を見いだせないから、やはり嫌煙権という疑似基本権の出番はない。

以上、まとめてみれば、公衆の面前で喫煙する人は、傷害罪で刑事訴追され、無道徳な犬畜生呼ばわりされるのが自然なのであって、反対の立場にある人が「嫌煙権」活動に貴重なエネルギーを費やす道理は全くない。自宅に籠もって喫煙する人は、単に、健康保険への加入を辞退するだけで済む。これほど単純な話はない。「嫌煙権」という言葉を忌避する権利はないものか。

(2000年12月8日)