気になることば 第四回

「選手」

 選手ということばは日本語にはあるが、西欧語にはない。もっとも、ここで問題にしているのは、単独で使われる普通名詞としての「選手」ではない。接尾語として氏名や種目名につけて、千葉選手、などという場合である。選手とは、選ばれた者のことを指すと辞書にはあるが、選考に洩れた水泳選手も、やはりマスコミは、選手と呼ぶ。これは矛盾ではないか。

 日本人が肩書き好きであることは言を待たない。加藤氏と言えばすむところを、加藤・元幹事長、元・官房長官と呼ぶ。元職にも給料が支給されるならば、まだ納得できるのだが。また、林氏、あるいは林某、と呼べば済むところを、林容疑者あるいは林被告と呼ぶ。ひとりの人間には、親としての側面、地域共同体の一員としての側面、趣味人としての側面など、様々な要素が同居しているはずだが、XX被告、XX選手と呼んだと同時に、個人の持つ人格の多様性、その存在の多元的性は無視され、宇宙の彼方に消し飛んでしまう。この思考法は、日本民族お家芸の集団リンチ、集団ヒステリーの必須要素のひとつでもある。

 タイガー・ウッズは、あくまで喜怒哀楽を持ったタイガー・ウッズというひとりの個人であり、その人間のドラマにゴルフ好きは興味を覚えるのである。だから、彼は断じて、タイガー・ウッズ「選手」であるはずがないし、そうであってはならない。国民栄誉賞を受賞したホームラン王ですら、長所もあれば欠点もある一個の人間である。平均的な日本人以上に偉いわけでも何でもない。彼自身、日本人の生き方の手本としての野球「選手」として祭り上げられたまま一生を過ごさねばならないのは、はなはだ迷惑であると感じているに違いない。草葉の陰で眠る乃木元帥や東郷元帥も、きっと同感なのではないか。

 運動能力に秀でた人々がそれに打ち込むのは悪いことではない。ひそかに声援を送るのも良い。また、その生き方に共感を覚えた御大人が援助を申し出るのも良かろう。ただ、オリンピックの表彰台に日章旗が一本揚がろうと、二本揚がろうと、日本国民全般の生活がそれによって豊かになるわけではない。運動とは所詮、お遊びであり、限られた個人の道楽であるからこそ意味があるのである。選手養成に税金をつぎ込むなぞ、国を裏切る行為の最たるものだが、特定の人を指して選手選手と持ち上げるのもいい加減にしてもらいたいものである。あくまで、自己の能力の限界に好き勝手に挑戦している個人にとって、良い迷惑であろう。

 では、お約束の練習問題。「選手」の意味は、次のうちのどれか?

(1)歩く広告塔
(2)国威発揚の手先
(3)お調子者
(4)道楽者
(5)行者

(2000年7月26日)