将軍の娘


「連隊の娘」はドニゼッティ作曲の罪のないオペラだが、「将軍の娘」は現在公開中の、ジョン・トラボルタ主演の映画である(http://www.generalsdaughter.com/)。これはアメリカの陸軍に実在した重大なスキャンダルをもとにしているが、この映画を観ていると、組織のあり方というものは、米国でも日本でも共通項があることに思い当たる。

神奈川県警察を舞台にした警官による覚醒剤使用の隠蔽工作事件は、言ってみれば、「将軍の娘」の日本版である。ただし、米国映画にはあって、この事件のテレビによるニュース報道や論説には見られない、見逃せない要素がひとつある。それは、組織人の名誉の問題である。

「将軍の娘」では、軍隊の士官組織を舞台に、規律儀礼を美しく描いた場面が数多く登場する。退官する将軍の記念パーティに正装に身を包んだ関係者が出席するところから始まる冒頭のシーンは、その典型的な場面である。権利と義務の観念に裏打ちされた集団の選良の自覚は、その物質的充足面でも、例えば将官クラスの住む麗華な官舎のシーンなどに余すところなく描写されている。

それだけに、社会の尊敬を受け、自らも誇りに思ってやまない組織に一大危機が訪れた際には、その名誉を保持が如何に幹部を悩ませ、それがひいては多くの人間に心の傷を拡げていくかが観客に十分に納得できる状況で展開する。

しかるに日本の警察組織では、一体、どの程度の名誉心を構成員がもっているのであろうか。筆者は警察組織の内部を知らないが、想像するなら、おそらく、何らかの組織尊重意識というものはあろう。しかし、それは先輩による後輩のいじめに象徴されるように、日本の津津浦々の学校の運動部に屡々受け継がれているような精神主義的かつ軍隊的主義的な不毛な集団意識以上のものではないであろう。ましてや、権利と義務の意識に支えられた良い意味での選良観あるいは自尊心とは無縁のものであろう。

神奈川県警に同情するつもりは毛頭ないが、彼らとて、警察内で覚醒剤の使用を組織的に奨励したりしていたわけではない。覚醒剤を使用した警官に対しては薬抜きをし、免職にもした。ただ、現職警官の犯罪、という事実が存在しなかったかのように工作したことが問題とされたのである。

日本のマスコミの性質を褒める気にもならない。大臣や知事・市長など、人々の信託を得て職務を遂行するべき人間の汚職事件であるならば大きく報道されてしかるべきであるが、その他の何百万という公務員についてはどうであろうか。人間であれば職業の別を問わず時に悪いことをしてしまうのは普通のことである。角の煙草屋の親父の犯罪は報道しないくせに、大阪市の職員が犯した同じ罪、それも職務とは関係なく私生活のなかで犯した事件にニュース性を認めるというのは、全くあきれたことである。現実に、自衛隊員や教師、郵便局員などは、同じ罪を犯してもその他の人々とは差別され、社会的により大きな制裁を受ける場合が多いようである。

繰り返して言うが、神奈川県警を弁護するつもりはない。しかし、警察幹部をして、「職員が覚醒剤を使用していました。厳正に捜査して送検します」と素直に発表させしめず、代わりに事件の隠蔽工作に走らせた背景には、マスコミを先頭に押し立て公務員集団を虐待して喜ぶ日本人の集団心理がないとは言えない。

この集団心理の根が、近世に虐げられた人民の一揆にまで遡るのか、先の戦争で多くの犠牲者を出した国家権力に対する仕返しなのか(その国家権力を作り出したのは自分たちであったのだから一種の逆恨みであろう)、定かではない。いずれにせよ、日本の人民の公務員に対する反感意識には空恐ろしいものがある。

総務庁の統計によれば、先進工業国における公務員の数(国・地方)は人口の15−25%、OECD諸国の平均で15%であるが、日本のそれは6%と、極端に少ない。しかも、日本はアメリカ型の自由放任型社会ではなく欧州のような社会集団型であるから、公務員の数は今よりももっと多く必要なはずである。

それなのに、公務員の数を減らせ、とは何処の誰が言い出したのであろうか。無論、行政改革の必要は大いにあろう。また、社会構造・産業構造の変化に伴って、必要度の減少した行政組織の定員を重要度が増大した組織に移すことは必要であろう。さらに、行政の効率を客観的に判定し無駄を省くような仕組みの導入も必要であろう。

行政事務に対する住民からの要求を全般的に減らす、というなら話は分かる。公園のブランコの鎖が切れたのも子供の不注意、医薬品の副作用で死んだのも運が悪かったから、通勤地獄も東京に引っ越してきた自分が悪い、崖崩れの下敷きになったのも安い地価に目がくらんで土地を買ったせい、と考え方を転換するならば、あるいは公務員の数は今のままでよいかもしれない。日本の公務員の給与は、米国、ドイツ、フランスのそれに比べて低いとされる。いまの給与水準では、優秀な人材が民間に流出するのを止めることができない。

頭を使った賢い行政サービスの展開を期待するなら、幹部採用の公務員の給与は現行水準の倍以上とすることが必要であろう。低給与にもかかわらず日夜汗水している行政官は、能力には欠けるが老後の安穏な暮らしを望んでいる人たちか、さもなければ日本の将来を気にかけて献身的に働く人たちであるかのいずれかである。前者を減らして後者を増やしたいなら、待遇を改善して、優秀な人材により多く行政で働いてもらうようにするほかはない。

汚職を犯した公務員は断罪されなければならない。しかし、その裏で、日本のために、地域のために、身を粉にして働いている良心的な公務員もいる。一旦傷つけられた彼らの名誉心と使命感は戻ってこない。朝礼や訓示や研修では戻らない。公務員から名誉心を奪うような行動に走る国民は、角をたがめて牛を殺すようなものである。もっと悪い。牛は自分である。

(1999年12月12日)