我が国の報道の性質についてなんちゃって


 世界中何処に行ったところで、理想的なマス・メディアが市民に仕えている国など、あり得ない。そのことは十分承知の上で、日本の報道機関の活動ぶりについて、その特質を論ずることは、我が国民の一般的性質を知る上で何らかの意味があろう。

 「知る権利」という言葉が一人歩きして久しい。国によっては憲法にこの権利が基本的人権の一部として書き込まれている場合もあるようだが、我が国の憲法に明文の規定はない。そこで、「表現の自由」という憲法規定から出発して、「自由に表現する大前提としてそもそも表現し報道するための情報をどこからか見つけてこなければならない、そのためには知る権利がなくてはならないはずだ」という大変持って回った帰納的推論の助けを借りて、裁判所も、憲法的根拠のない「知る権利」の確立と擁護のために一肌脱いでいる。我が国の憲法は、その困難な手続きゆえに、これを改正する見込みはほとんどないから、裁判所が立法を行うこともやむを得ないのであろう。特に戦後の英米法の訓練を受けた法曹家にとっては、このような判例の積み重ねこそ意義のあることと感じられているのかも知れない。まあ、そのことは本論とは直接関係がない。

 市民の知る権利を保障するために、情報公開法や情報公開条例が制定されつつある一連の流れは歓迎に値する。なぜなら、今まで我が国には、情報を公開した者を罰する規定こそあれ、公開しなかった者を罰する規定はほとんどなかったからである。つまり、職業上知り得た秘密を漏らすことの罪についての処罰規定ならば、公務員法であれ、刑法であれ、枚挙するに暇がなかった。

 公務員がともすれば情報を隠す方に働くのは、故なきことではない。秘密を漏らしたりすれば、処罰されるだけでなく下手をすれば職を失ってしまう。終身雇用制の日本で、職を失う危険を冒すということは大変なことである。しかも都合の悪いことに、何が秘密で何が秘密でないかということは、情報の一個一個にシールが貼られて一目瞭然になっているわけではないのである。従って、本人は秘密でないだろうと思ってある情報を公開したところ、あとで上司からあれは秘密だったといわれ、人事上の処分を受けるのではたまったものではない。そこで、公務員は、「情報は全て隠しておくにしくはなし」を旨とすることになるのである。それだけでなく、情報を公開するには人手がかかる。単位人口当たりの公務員数が少ないことにおいて世界でも有数の我が国において、財政難が情報公開を妨げているという事情もある。公務員は尊大だから情報を公開しないのだ、とか、自らが情報を独占することによって権力基盤としているのだ、とかいう批判はある意味で一面的な批判である。

 さて、知る権利があるのだから、どんな情報も公開されねばならない、どんな情報も報道されねばならない、というのは過激な思想である。プライバシーの尊重であるとか、通信の秘密であるとか、個人情報の保護であるとか、文明社会の根元的な諸価値との間でバランスをとらなければならない。この均衡が崩れると、社会はおかしな事になってくる。

 こららの諸価値・諸原則は、みな西欧的なルーツを持っている。であるから、西欧では一応、これらの価値のうちで何が他よりも大切ということはない、どれも皆大切なのだ、という観念が市民によってある程度共有されているように見える。ところが我が国に目を転ずると、個人情報の保護という観念が、日本的共同体の歴史的事情(八つあん熊さんの長屋を想起せよ)によって本来ただでさえ希薄なところへ、知る権利の方だけが強調されたまま移入された結果、極めて危険な状態になっているといえる。

 仮に、患者であるA氏の病気の診断名を本人に知らせずしてA氏の家族に知らせた医者がいたとしたら、その医者は患者の秘密の無断漏洩という罪で裁かれるのが筋である。法治国家であると俗にいわれる我が国において、厳密に法が適用されていたとしたら、日本中の裁判所は今頃、押すな押すなの大盛況を呈していることであろう。もっとも、癌にかかったA氏にしてみれば、何よりも秘密漏洩の事実事態を本人が知らないのだから訴える動機がなく、仮に事実を知ったところで主治医との人間関係を損なうような訴訟を提起する勇気があるはずもなく、それでも敢えて訴訟を提起したところで判決が下される前に本人は死んでしまっているのが落ちであろう。日本の医者と裁判官は幸せである。

 ともすれば蔑(ないがし)ろにされがちな、個人の秘密の保護という原則はできる限り尊重する必要があるが、もし、その原則を侵してまで公開しなければならない情報があるとしたら、それは、公共の福祉という概念との関係においてであろう。ここで気を付けなければならないのは、みんなが知りたいと思っていることを報道することが、必ずしも公共の福祉に叶うことではないということである。

 ある患者が、例えば、前週に心臓移植を受けた患者が、今日から一般病室に移ったとか、感染症にかかりそうだとか、術後初めて歩いたとか、手紙を書いたとか、バナナを二本食べたとか、このような事は全て個人の情報に属することである。仮に感染症にかかったとしたら、あるいはかからなかったとしたら、それが一体何だというのか。一般病室に移るのが遅れてはいけないのか。何か日本の将来の進路に影響が出るのか。心臓移植が失敗に終わったとしたら、そもそも心臓移植は認めるべきではなかったというのか。小学生でも分かる簡単な論理である、これらの問いに対する答えはいずれも否である。ではなぜ報道がなされるのかといえば、一部の国民の低俗な出歯亀精神に阿(おもね)り視聴率を稼ぐためである。茶碗の中に波が立ったかどうか知りたいと誰かが言い出せば、それを報ずる瓦版売りが現れるのと同じ理屈である。

 最近のアメリカ映画にこういうのがあった。ある青年は、受精の瞬間から誕生、成長、就職、恋愛まで全ての日常を本人の知らない間に隠しカメラで全米に二十四時間中継されていたのであるが、あるときその事実に気づいて、波瀾万丈の冒険の末に、直径数キロ以上に及ぶ巨大特設ドーム型スタジオを遂に脱出するという物語である。日本ではまだ公開されていないかも知れないので細部の描写は遠慮するが、数十年に亘ってテレビの前でこの中継番組にかじりついていた全米の熱烈な視聴者(もちろん物語の中でだが)の姿が、昨今の日本人の姿と重なるように感じられてならない。無論、他人の私生活を覗き見ることによって楽しみを得るという性質は人間の本性の中に刻み込まれたものであるが、かといって、それを奔放に開放し、見せたいものは全部見せてやるというのは、反文明的行動であろう。

 脳死判定とか、心臓移植とか、技術や事実そのものの報道に公共の福祉の名に値する価値はない。これらの技術は日本が眠っている間に外国で発展し、数百数千の症例を重ね、確立されたものである。今後更に発展し、その完成度が高められる余地は残されているが、現時点では何らの新規性はない。敢えて新規性があるとすれば、それは、「日本では初めて」ということだけである。青葉やホトトギス、初鰹など、初物好きな日本人の悲しい性(さが)かと言ってしまえばそれまでであるが、目を外国に転ずれば、ナイジェリアで久々に民主的な大統領選挙が行われ、コソヴォでは情勢が緊迫し、あるいは日本の中に限っても二十一世紀を憂いさせるような社会・経済上の問題は山積しているというのに、このような、より重要で、世界と日本の将来に直結し、まさに公共の福祉に関する問題を捨て置いて、深夜まで病院前からの特別中継番組の映像を垂れ流し、移植を臓器の入ったアイスボックスを運搬する自動車をヘリコプターで追いかける必要が何処にあるのか。

 消費者の原始的欲望に迎合しているだけの報道機関の態度は、文明国にあるまじきことである。他の社会的価値から切り離された形で「知る権利」だけを振り回すのは、まさに凶人に刃物の観さえある。臓器移植を受けた患者や臓器を提供した個人に関して、個人を特定できるような情報は一切提供しないとしている厚生省の対応は適切であるというほかはなく、これをとらまえて透明性の欠如などと叫ぶのは、良識ある者のすることではない。移植に関連した施設の名前をリアルタイムで公表することすら公共の福祉に寄するものとは言い切れず、むしろ、厚生省は年度末に脳死者の数と臓器移植実施数の統計ぐらいを発表すれば十分であろう。

 日本の報道機関は、新聞であっても、テレビ・ラジオであっても、スポーツ報道に多くの紙面あるいは時間を費やしている。しかし、職業スポーツの試合の結果を知りたい人は、スポーツ専門の新聞を買って読めば済むのである。また、何処其処の県道で自動車が電柱に激突して運転者が死んだだとか、何処其処の木造家屋が全焼したが二階で寝ていた老人が助かっただとか、明日の社会を見据えて世界観を養うためには何の役にも立たないニュースが未だに報道されるのはなぜであろうか。いくら火の元に注意しても火を噴くストーブは当面存在し続けるだろうし、自動車が売れればそのうちの何台かは一定の割合に従って電柱にぶつかるであろう。何ら報道に値する価値は見いだせない。むしろ、警察番をもって新米記者の訓練コースとしている報道機関の内部事情(いくら新米でも、自分の書いたニュースが訓練用に過ぎず、実際に報道されないのでは、やる気をなくしてしまうであろう)によるものとしか考えられない。

 このような享楽的あるいは不要不急情報の伝達に数に限りのある公共電波を使用することは異常な状況といってよい。欧州の国営放送系統のテレビ局がスポーツニュースを報じることは稀なことであり、よほどの殺人鬼でもなければ単に人を殺しただけでは報道すらしてもらえない。また、いわゆる高級紙と呼ばれる新聞には三面記事欄やスポーツ欄が存在しないことも珍しくない。想像はしたくないが、我が国の報道機関においては、この国が滅びる前日まで、どこそこの会社のビルの前の池にカルガモの親子がやって来た、などというニュースを流していることにはならないかと危惧される。ああ字ばかりでごめん。

(1999年5月27日)